大正2年の三重軌道機関車脱線事故。

津市にある三重県立図書館には明治期以降に発行された過去の新聞が何種類かマイクロフィルムの形で保存され閲覧できるようになっている。その中でも最も蔵書が豊かなのが伊勢新聞で、多少の欠落はあるものの最古で明治11年までさかのぼって閲覧することが出来る(※ただし、閲覧するための機械が1台しかなく事前に予約しないと見られない事が多い)。

さらに同図書館には伊勢新聞 四日市関係記事索引』なる、まるで誰かが手作りで作成したかのような書籍(笑)もあります。これは伊勢新聞の膨大な枚数に及ぶマイクロフィルム史料の中から四日市市及びそれに関係する企業など(基準は選者の独断によるものと思われる)の記事の見出しを掲載年月日と共にピックアップしてあるという、非常にかゆい所に手の届く親切な索引書なのだ。実際の伊勢新聞のフィルム史料に目を通せば分かると思いますが・・・この索引書を作成した人は本当にすごいです、狂気の沙汰(笑)。まあそれはともかく、この伊勢新聞 四日市関係記事索引』の中に興味を惹かれる記事見出しがあったのでそれを紹介する。

『三重軽鉄の脱線/四郷村大字東日野停留場内』大正2.2.7

『汽車を脱線させた男/三重軌道㈱東日野停車場内』大正2.4.3

『汽車妨害事件判決』大正2.6.7

開通間もない三重軌道㈱の蒸気機関車を脱線させたヤツがいるのか、ただでさえ儲けが出てなくて赤字なのに(笑)そのうえ汽車の運行を妨害するなんて、なんてひどいことをするヤツなんだ!…でも大正2年2月に発生して、その4か月後の6月にはもう判決が出ている。さすが旧大日本帝国、スピード解決だ(笑)現行犯だったのだろうか?・・・などと思いつつ、その記事を閲覧してきました。以下は各記事(※文はそのまま、漢字は多少変更してます)。

 

●三重軽鉄の脱線/四郷村大字東日野停留場内(大正2.2.7)

 「三重軌道会社軽便列車が六日午後六時三十分八王子駅を発車し同四十分四郷村大字東日野踏切より約十間東に當る停留場内進行の際何人とも知れず自動ポイント附近に二個の石塊を置去りたるものあり車輪は之を粉砕して通過せしも為めに機関車と客車とは線路を異にし機関車は脱線し約九十度の傾斜を為すに至りしも間もなく復旧したる由」

汽車を脱線させた男/三重軌道㈱東日野停車場内(大正2.4.3)

 三重郡四郷村大字西日野日稼(ひかせぎ)河北○○○は昨年十月一日夕刻汽車の往来に妨害する目的を以て三重郡四郷村大字東日野三重軌道株式会社東日野停車場構内西端のトングレールに石を挟み置きたるため同日午後六時四十分着汽車が該所にて脱線し三十分間進行を遅延したる為遂に告発されたる 同事件は昨二日汽車往来妨害罪として豫審終結安濃津地方裁判所の公判に附せらる」(○内は伏せておきます)

汽車妨害事件判決(大正2.6.7)

 「三重郡四郷村大字西日野日雇河北○○○(二十)に係る汽車往来妨害罪被告事件は六日安濃津地方裁判所にて懲役一年に宣告」

 

一言で言えば、最初の大正2年2月記事はポイント線路上へのいたずら、いわゆる置き石による脱線事故で犯人は不明。2、3番目の記事は前年(大正元年)10月1日に発生した脱線事故に関係した裁判記事で、二つの脱線事故はたまたま同一駅構内で発生した全く別の脱線事故によるものの記事であったことが分かりました(ただ今回の場合、犯行の手口や発生個所が酷似しているため同一犯の可能性が高い気もしますが確たる証拠はありません)。調べてみたらびっくりな結果でした。・・・でも実はそれよりも、大正時代に蒸気機関車が脱線して90度も傾斜したにもかかわらず「間もなく復旧」したりとか、汽車が脱線したのに「遅延がわずか30分」で済むって、あり得るのでしょうか?重機とかない時代なのに?小さな機関車だから多勢で起こしたり移動させたりしたのでしょうか、むしろそっちの方がびっくりでした。

このように、索引書は手っ取り早く情報を入手するには非常に効率的ですが、それだけでは今回のようにその内容が全く別の事柄であるにもかかわらずあたかも一つの関連記事のように見えてしまう危険があります。現代ではスマートフォン・パソコンで簡単に検索して情報を入手できる時代ではありますが、手軽に入手できる情報はその「手軽さ」の分だけ信憑性も軽く(薄く)なっている、と個人的にですが思ってます。もちろん全てがそうだという気はないですが、少なくとも歴史に関しては僕自身、その発信されている情報全てを鵜呑みにするのではなく「真実半分嘘半分」のつもりで見ています。そうして興味を持ったものに関しては自分自身で調べて真実はどうなのかを突き詰めていくのが面白いと思うのでありました。今日は個人的にも改めて大変勉強になった良い一日でした。以上 03/14

 

『四日市市史』より。「西日野停車場設備変更」

四日市市史』第12巻P.910に、興味深い史料が紹介されている。

「五七六 三重鉄道 西日野停車場設備変更」という主題で、その内容は三重鉄道㈱が大阪鉄道局長宛に提出した申請書菰野外四駅設備変更の件」のうち、菰野駅と西日野駅の2駅についての設備変更内容の確認・照会及び指示を、所管の大阪鉄道局が文書で問い合わせてきたため、それに対する三重鉄道㈱の回答文書のようだ。(※鉄道省文書「三重鉄道」運輸省蔵)

大阪鉄道局側の確認内容を簡単に要約すると、

①西日野停車場において、

 (イ)用地界を明示すること

 (ロ)停車場本家が既に存在するのに、新たな切符売場を設置しなければならない理由を説明すること

菰野停車場における乗降場延長に関して、その構造を明示すること

というもののようでした。話題に上らなかった他の2駅はどこの駅だったのだろうか、発端となった菰野外四駅・・・」の鉄道書文書を国立公文書館に直接閲覧しに行かない限り判別できないのが残念だ。それはともかく、鉄道局の問いに対し三重鉄道㈱側は①の(イ)、②については別紙図面を添付することで、①の(ロ)に関しては理由書を添付して回答している。(※なお、四日市市史』内では添付の別紙図面は省略されており見ることはできない)

①の(ロ)、理由書の内容を要約すると、

「停車場本家(駅舎)は、その一部を従業員に有賃住宅として貸与し切符を家族に委託販売させていたが、現状では乗降客の整理が不十分なため、新たに切符売場を設けて出札係を配置し乗降客の整理を行うため」

ということのようだ(四日市市史』第18巻P.733) 。ただ、文書内の「新たな切符売場」「出札係の配置」が駅構内のどの位置に配置されたのか、駅ホーム上にあったのかどうかなどの詳細はこの文書内では確認することはできない。①の(イ)の別紙図面を閲覧できれば、詳細な駅の構造が分かるかもしれないが。

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西日野駅を伊勢八王子方面を向いて撮影(昭和33年頃)西日野駅立看板より

前回記事にて紹介した写真でも分かる通り、戦前・戦後通じ線路に隣接する西日野駅はプラットホームのみの構造で、理由書でいう「停車場本家(駅舎)」は存在していない。確証はないが、上写真右端に写っている道路向かい(北側)に建つ民家、これが元・西日野駅停車場本家(駅舎)と推測する。そしてプラットホーム上の乗客奥、小さく囲われた片屋根の建屋が見える。これが文書内でいう「切符売場」であったかどうかは不明(売場にしては小さすぎる気がする)だが、乗降客を整理する「出札係」の待機所であったのは間違いないだろう。この出札係待機所の存在は、多くの鉄道ファンが撮影された昭和30年後半~40年代の旧西日野駅の写真にはほとんど写っておらず(骨組みらしき痕跡はあるが)、実はこの写真は前出の鉄道省文書の内容を証明する貴重な1枚ともいえる。

前回の記事「西日野駅も、移動する?」にて、「1948(昭和23)年の電化工事の際ホームを移設したのでは?」・・・と妄想(笑)を書いたが、もしそれが事実だとしたら上写真の旧西日野駅は戦後移設された駅の写真になるわけで、今回紹介した鉄道省文書内の旧西日野駅は戦争末期~電化までのわずか5年ほど存在していたもの、ということになる(もちろん全て想像)。真実はどこにあるのだろう。興味は尽きない。以上 03/07

企画展「昭和のくらし昭和の風景」に行ってきた。

四日市市立博物館にて市制123周年企画展として開催されている「昭和のくらし昭和の風景」展(R3.1/2~2/28)が本日最終日という事で行ってきた。ちなみに観覧料は400円。

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企画展「昭和のくらし昭和の風景」チラシ

企画展の名前が「昭和」ということもあり幅広いジャンルの展示になっているだろうから収穫としては少ないだろう…と想像していたが、事前情報として旧八王子線のことも展示してあるということも聞いていたので、ひょっとしたら自分が感じてる様々な謎に関して何らかのヒントが得られるかもしれない、と思い少しだけ期待して出かけた。

もともと博物館というものへは一般の方は好き好んで見に来るものではない(失礼…でも自分は好きですよ‼)と個人的に思っていたが、実際来てみたら他の観覧者も自分が想像していたよりも大勢来ていたように思った。で、当時の四日市市内の鉄道(国鉄含む)を紹介するブースには、大きな四日市市街の空撮写真上に合わせ当時の近鉄及び八王子線湯の山線の軌道上に鉄道模型を走らせたり、昭和当時の赤堀駅と旧西日野駅を模したジオラマ(立体模型)に当時走っていた車輛塗装の鉄道模型を走らせたりして展示して雰囲気を出していた。が、駅舎や駅に隣接する商店等の建物までは完全再現されてはおらず(赤堀駅は結構頑張ってはいたが)、結果としては八王子線に雰囲気がよく似ている軽便鉄道が走っている町」ジオラマ展示、という印象であった。そんなことを思うのは僕だけだろうが。

今企画展での個人的な最大の収穫は、会場のモニターで流されていた『夕日のうた』というビデオ映像?であった。八王子線の動く映像に関しては前回の記事にてタイトルを紹介したYoutubeにて公開されている映像『消えたレール』でも見ることはできるが、この映像内には天白川沿いを走る八王子線の電車の様子だけではなく、日永から伊勢八王子間のほぼ往復分の車窓内からの風景までもが撮影されていた。また伊勢八王子駅での機回し作業風景、駅西側の軌道末端に使用されなくなった転車台跡の映像、旧西日野駅の駅ホーム東端(日永寄り)には乗客が近道できるような1枚の板が渡されている(それは乗客管理としてどうなんだ?)などが記録されており、これだけでも観覧しに来た価値があると思える大変貴重な映像作品となっていた。また、映像内に挿入される文章では「バスか鉄道か」廃線問題に揺れる地元民の状況も語られており、その文中にて「(八王子線の)60余年の歴史も・・・」と語られていながら、1979(昭和49)年7月に発生する豪雨水害のことには全く言及も記録もされていない。このことからこの映像の制作時期は1972(昭和47)~73(昭和48)年頃かと思われるが、まさか製作者自身も製作した1年後の豪雨水害が原因で不通・廃線になるなどとは予想だにしなかったのではないだろうか。映像の製作者は椙山 満先生(映像資料の提供者は門脇 篤氏)椙山 満先生四日市の郷土歴史、特に鉄道関係の歴史を語る上では決して外せない第一人者であり、もはや説明不要かと思う。門脇 篤氏も昭和期の四日市の写真を含めた史料内に必ず登場する先達である。彼ら先達の残して下さった貴重な史料・遺産によって僕たちは豊かな妄想をすることができるのだ(笑)。本当にありがたいことだ。

企画展示としては、(当然のことながら)当時の四日市の鉄道のみに焦点を当てたものではなかったため個人的には少々物足りない内容の展示であったことは否めなかったが、足を運んだ甲斐はあったというものでありました。もし可能なのであれば、今度は地元の鉄道の歴史に対しもっと深い内容に踏み込んだ展示があればまた来たいなと思いました(…ただ、そんなコアな内容では見に来る客を限定してしまうことになるでしょうけどね(笑))。

…あ、追記。前回紹介した旧西日野駅の写真、

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こちらの写真、1958(昭和33)年頃のものということでした。(※出典:『むかしのくらし読本4 四日市の昭和の鉄道』(四日市市博物館刊))

次回こそ、西日野駅について書こう。以上(もう2月も終わりか…)  02/28

西日野駅も、移動する?

なるべく週2回書くことを自分なりのささやかな目標としていたが、ちょっとした私用で時間が取れず、早くも挫折してしまった(汗)。まあ気楽に続けよう。

 

過去の書き込みで、大正~昭和初期のわずかな期間に諏訪駅は3度も場所移動した、という記事を書いた。今回はそれと同様に、実は八王子線の途中駅である「西日野」駅も何度も移動を繰り返している、という話。…とはいっても、諏訪駅ほどのアクティブな移動はしていないのですが(笑)。

現在でもよく知られているのは、1974(昭和49)年7月25日に発生した豪雨による水害の被害を受けて1976(昭和51)年3月末で西日野~伊勢八王子駅間の路線が廃止された際、もともと天白川沿いにあった西日野駅を日永寄りに約0.1㎞短縮した位置に新設、八王子線の終着駅となったいわゆる「現在」の西日野駅。つい最近、駅前の改修工事が行われ小さなロータリーが完成したばかりだ。

もう一つの西日野駅移動の謎に関しての話の前に、まず2枚の写真を提示する。

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『目で見る四日市の100年』(四日市商工会議所発行)P.50より

上写真は四郷地区HP内「写真でつなごう四郷のきずな」というページでもYoutubeでも公開されている(『消えたレール』)もので、撮影された時期は1937(昭和12)年頃ということだ(※同じ写真が『津島軽便堂写真館』というHPにて紹介されており、その中で撮影時期について言及されている)。写真では見送りの人々がすぐ横を通る道(室山街道、現在の天白川沿いの道路)に群がっており正確な道幅を測ることは出来ないが、右端建物と電柱?及び機関車との距離関係からどんなに広くても4~5mくらいではないかと推測する。でも道幅に関しては実はどうでもよくて(笑)、この写真の本当に注目すべき点は写真の左端。わずかに駅のプラットホームらしき足場と屋根の庇のようなものが写っている。汽車に乗っている兵隊さんは戦地に赴くのだから汽車は四日市方面に向かい走るわけなので、この写真に写る1937(昭和12)年当時の西日野駅は方角的には軌道の南側、つまり天白川側に駅ホームがあった、ということになる(ちょうど客車の下部には線路を渡るための通路のようなものも確認できる)。

そして、2枚目の写真。

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西日野駅前の立看板掲示の写真

正確な撮影時期は不明だが、既に電化完了していることから少なくとも1948(昭和23)年以降のものであることは間違いない。何がどう違うのかは一目瞭然、西日野駅ホームは軌道の南側から北側へ「移動」していることがわかる。

僕自身、これを「移動」というのはかなり強引な話というのは分かっている。素人的に見ても「駅」が移動したのではなく「線路(軌道)」が移動したのではないか、つまりは当初北側を通っていた軌道を南側に移設したのでは、と簡単に予想できるからだ。実際僕自身もそう考えているし、おそらくその推測に間違いはないのではと思う。しかし、その割には「軌道を北側から南側に移設した」という史料や記録、伝聞などがあちこち調べても出てこないのだ。口にするのは簡単だが実際には難工事だ、何せ既に営業運転している路線の軌道を止めないままの工事なのだから。

ここからはまたしても推測だが、おそらく1948(昭和23)年の日永~伊勢八王子間の電化工事そのものが「軌道の移設」工事であったと思われる。軌道移設に関する詳しい工事内容が調査しても別途で出てこないのは最初からこの電化工事に含まれているためなのだろう。段取り的には(※全てあくまでも想像です)、若干道路の中央寄りを通っていた西日野~伊勢八王子間の蒸気機関車の軌道をそのままにした状態で、さらにその南側に電柱と電化完了時の新軌道を併設したのではないか。室山駅はもともと駅ホームの南側が道路だったため、旧道路部分と軌道を置き換えるだけで済む。もちろん場所によっては天白川北岸を拡張・改修しなければならなかったかもしれない。最終的な旧軌道との合流箇所は、西日野駅側は日永寄りにあった駅手前の急カーブ、伊勢八王子方面は室山~伊勢八王子間のわずかに道路が広くなっている中間地点、つまり旧伊藤製糸場前駅があったであろう付近(現在のNTT電話交換所付近)。そこまで軌道を併設しておいた後、運転を終えた夜間に軌道接続工事を行う、という流れだったのではなかろうか。(あー、想像するの楽しい(笑)!)

これらの妄想(笑)がもし当たっているのだとしたら、電化(軌道移設)工事を記憶している付近住民でまだご存命中の方がおられるはずだと思います。といっても、当時子供の頃のはずでそんな詳しい工事内容を知っているとも思えませんが…。八王子線はまだまだはっきりしていない謎がたくさんあります、興味は尽きません。西日野駅のことも含めその他当時の状況などご存知の方は、是非ともご教示頂ければ嬉しいなと思います。

今回ご紹介した1枚目の西日野駅の写真も、他の写真にはない実は貴重な情報が隠されている1枚であったりするのですよね、次回はそのあたりのお話を使用かなと思います。有難うございました。 以上  02/24

昔を知る人ほど順番にはこだわるらしい。

「内部線」「八王子線を同列で語る際、僕も含めておそらく大多数の人間が内部・八王子線と呼ぶかと思う。例えば、近鉄四日市到着前に車内で乗り換えの案内をする現在の近鉄職員や四日市あすなろう四日市鉄道職員(車掌とか)などだ(※実際はどうかは知りません、ごめんなさい)。そもそも地元を含む一般の人であれば八王子線と言わず「西日野線」という時もあると思う(笑)。ところが、昔のことを知っている人であればあるほどその呼び名にこだわるところがあるという話を聞いた。つまりは、内部・八王子線ではなく「八王子・内部線」だという「順序」の話だ。

自分が興味を持っていることもあり、これまでの話題の中で八王子線の歴史や開通の経緯はさんざん書いてきた。それに比べ「内部線」の方は僕個人の中ではやや興味が薄いため(すみません(汗))、あまり紹介はしていなかった。

「内部線」は、三重軌道㈱が本線となる四日市市~伊勢八王子間とは別に鈴鹿支線」として日永~内部、さらに内部から南西方面に鈴鹿市伊船町まで延伸するという計画のものだ。会社役員として経営参画していた伊藤傳七が、短距離・狭軌である現在の八王子線のみでの経営維持は難しいと判断し、鈴鹿山麓での石灰石や土砂採掘・運搬を含む貨物輸送での収入で経営安定化を目指そうと提言した計画であった。それだけではなく海岸線側に近づく伊勢神戸(現在の鈴鹿市神戸)方面への延伸も計画していたらしい。結局、三重軌道㈱自体の資金不足により1922(大正11)年の日永~内部間までの一部開業のみにとどまるわけだが。※なお、三重県史編纂グループのページ『三重鉄道敷設関係図面』(歴史の情報蔵・第21話)にて史料と共に詳しく説明されているので、そちらをご参照下さい。とても面白い記事ですよ!  ※⇓アドレス

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=565

 

結局何が言いたいかというと、八王子線の方が「内部線」より早く開通していますよ、だから「八王子・内部線」ですよね、ということですね。実際、大正~昭和初期の鉄道関係資料でも内部線は「日永~内部間」という表記になっており、現在とは違い「支線扱い」となっていることから、当時は史料的にも世間的にもそういう呼ばれ方をしていたのだろうと推測されます。で、これらの事情が変化するのは1940(昭和15)年あたりからで、日永や塩浜といった沿線、特に内部線沿線区域に陸軍や海軍の軍需工場が建設されたことで内部線に乗車する旅客(というより工場従事者などでしょう)が激増することになります。そんな状況下でも既存の蒸気機関車やガソリン気動車の運行のみで対応し、軍部をごまかしていた(?)当時の三重鉄道㈱も、とうとう軍部側から「此際姑息ナル改善ヲ止メ電化ニ依ル輸送力強化ヲ企ルノ要切ナルモノアリト認メラレ候条」(鉄道省文書より※『四日市市史第18巻』より引用)と、沿線の電化を強い口調ですすめられる事態(「姑息なる改善」とは…言いたい放題(汗))になってしまう。この要請を受け、三重鉄道㈱は沿線に軍関係施設が多い内部線を優先し電化を進める。戦時中で物資不足が心配されたが、電化済だった中勢鉄道㈱が同時期に偶然営業運転を休止(廃止?)したのが奏功し、それらの資材を流用することで無事1943(昭和18)年に電化が完了することになる(八王子線の電化は1948(昭和23)年)。

個人的な意見だが、軍部によるこの半ば強制的な内部線の電化が内部・八王子線の呼び方の順番の変化に深く関係があるのではないかと想像している。そう、先の理屈でいえば、電車としては「内部線」の方が八王子線より早く電化してますよ、だから内部・八王子線ですよね、ということですね。その他、もしかしたら軍部側による呼称の優先「指導」があった可能性も否定できません(そこまでするか?という気もしますが)。本当のところ名称の順番が変わった直接の理由ははっきりとは分かりませんが、間違いなく言えることは、どちらの路線も元はと言えば地元の住民が資金を出して建設した「おらが町」鉄道なわけですから(そこまで相手側路線の方に対抗心があるかは不明ですが)、たかが呼び名とはいえやはり自分たちが作った路線の方を先に呼んでほしいですよね、そんな気がします、多分。

個人的には、現在既に消えてしまった西日野~伊勢八王子間の路線のことを忘れない、忘れられないためにも「八王子・内部線」と呼んでほしい気はしています。たかが名称ですが、万が一にもそこから興味を持ってもらえることがあるかもといった期待も含めそう呼ばれればいいなと思います。しょうもない話ですみませんでした。 以上  02/17

諏訪駅「転車台」 に関する私的考察。

1月22日に書き込みをし事情により延期をしていた諏訪駅「転車台の謎」について、ようやく段取りが整ったので書いていこうと思う。まず最初に、今回の記事はあくまで何の知識も持たない僕個人が、収集した情報から現時点で導き出した「私的考察」であることをご理解頂ければと思う。では本題に。

以前の記事にて、1929(昭和4)年1月30日伊勢電気鉄道㈱が桑名~四日市間を開通させたことで三重鉄道㈱四日市鉄道㈱の始発駅が一つの諏訪駅(※以降2代目諏訪駅と呼称する)になったこと、この2代目諏訪駅東海道沿い(南西側)に建っていたことは書いた。当時、四日市鉄道㈱側はすでに全線電化が完了しており、駅構内に蒸気機関車の向きを変える転車台は必要としていなかったが、付随客車連結の必要上機回し線は必要であったことが推測される。一方、三重鉄道㈱は相変わらず蒸気機関車を使用しており駅構内には転車台及び機回し線が設置されていたと推測される。その2代目諏訪駅を写したと思われる写真(昭和6年のもの?)が残されているので紹介する。ちなみに、1931(昭和6)年には四日市鉄道㈱三重鉄道㈱に吸収合併されており、三重鉄道㈱湯の山線となっている。

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2代目諏訪南駅『目で見る四日市の100年』(四日市商工会議所発行)P.40より

右端は伊勢電気鉄道㈱諏訪駅(島式2面)ホーム。中央奥に小さく見えるのが三重鉄道㈱湯の山線と八王子・内部線。乗客1人が立っているホームが湯の山線ホームで、少々分かりにくいが左側駅舎電柱の陰に隠れるように蒸気機関車が止まっているのが見える(赤丸内)、そこに八王子・内部線ホームがあると思われる。蒸気機関車の先は駅舎が影になり残念ながら施設の詳細は判別できないが、おそらく軌道の一番奥には転車台及び機回し線が存在しているはずだし、していないと道理に合わない。とりあえず、「転車台はある」という前提で(笑)。

戦時色の色濃い1942(昭和17)年、参宮急行電鉄㈱諏訪駅(注:この時点で伊勢電気鉄道㈱は1936(昭和11)年9月に参宮急行電鉄㈱に吸収合併されている)は軍都化した四日市への乗降客急増のため上記写真の島式2面ホームでは旅客をさばききれなくなり、やや西方にあった貨物駅(?)付近へ対面型ホームに形を変えて移転することになる。これに合わせて三重鉄道㈱諏訪駅も移転することになる(※これを3代目諏訪駅と呼称する)が、ちょうどその移転先が湯の山線内部・八王子線の軌道合流ポイント付近だったため、駅ホームの形状、特に内部・八王子線方面ホームがいびつな形状になってしまったと思われる。この3代目諏訪駅の位置は戦中・戦後を通じて変わらなかったようで、1955(昭和30)年に撮影された写真でその形状を知ることができる。

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諏訪駅構内『写真アルバム四日市市の今昔』(樹林舎発行)より

右端は近畿日本鉄道2番ホーム名古屋方面乗り場、隣の3番ホームは三重交通湯の山温泉方面乗り場。左側が内部・八王子方面乗り場。日永駅のホーム形状のことがあるので別段気にはならないかもしれない(笑)が、連絡通路も含めまあ曲線の多い落ち着きのない駅である(笑)。…話はそれるが、写真では湯の山線内部・八王子線の軌道がなぜか合流しているが、その理由については前回1月31日付の拙著ブログをご参照頂きたい。そしてさらに、この駅は両線の始発駅のはずなのに四日市方面(写真手前側)に軌道が2本さらに延びている。どこに向かっているのか。そうなのだ、この写真で注目すべきは駅の形状ではなく、まさにこの延長されている軌道なのだ。この軌道の謎を紐解くカギとなりうる2枚の写真を紹介する。

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昭和31年頃空撮『むかしのくらし読本2 四日市のまちかど』四日市市博物館発行)より


上の空撮写真(上が東方向、国鉄四日市駅方面)中央やや左、蛇行して走る2本筋が近畿日本鉄道四日市~諏訪間の軌道。最上部を左右に貫く白く広い道路がおそらく現在の国道1号線。その少し下の白く横断する踏切道のようなもの、これがおそらく旧東海道の踏切道。中央下部に写る大屋根の建物は、元諏訪劇場。3代目諏訪駅はそのやや西側に位置していたとの話なので、この写真では残念ながら見切れているという事になる。問題はその左側、もう1本の踏切道と思われるやや細い白い筋のすぐ脇に近畿日本鉄道の軌道からは明らかに横にずれて客車のような箱型の車体がはっきりと写っている。これは、もしかしたら三重鉄道㈱の車両ではないのか。

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諏訪駅東側「四日市駅移設60周年記念写真展」より

さらに2枚目。おそらくこの写真は1枚目の空撮写真の赤丸付近を撮影したものと思われる。写真左端の奥で学生らしき人物が渡っている所が旧東海道踏切か。近畿日本鉄道の軌道のすぐそばに建物に遮られるように行き止まりの軌道が写っている。ちょうどこの軌道の終点辺りは、偶然にも1942(昭和17)年まで存在した2代目諏訪駅が建っていたあたりだ。この2枚の写真から、少なくとも昭和31年9月時点までは1本の特殊狭軌軌道が2代目諏訪駅付近まで延びて残っていたことになる。そしてその軌道は、間違いなく始発駅であるはずの3代目諏訪駅に繋がっていたと考えられる。その延長距離は前出の空撮写真で見てもかなりの長さが残っているようだが、なぜこんな不必要な行き止まりの軌道を残す必要があったのか。考えられる理由は一つ、この行き止まりの軌道の末端に「転車台があった」からではなかろうか。

これ以降は個人的な推測ではあるが、3代目諏訪駅に移設した1942(昭和17)年以降も内部・八王子線は2代目諏訪駅末端に設置されていた転車台を流用し蒸気機関車・ガソリン気動車の転回作業をしていた。翌年に電化した内部線はその必要はなくなったが、日永~伊勢八王子間の電化は戦後まで待たなければならず(1948(昭和23)年電化)、3代目諏訪駅は一部の非電化区間のためだけに転車台を駅構内に残さなければならない。出来るなら現在の諏訪駅付近に移設したいところだが、写真で見て分かる通り駅周辺は繁華街の真っただ中で敷地的に全く余裕がないうえ、戦中・戦後を通じ移設するだけの金銭的余裕もなかったはず。結果、1948(昭和23)年内部・八王子線完全電化以降は軌道末端の転車台は不要となり、数年後施設は撤去した(あるいは埋め殺した)が残りの延長軌道は機回し線・避退線としての機能のために残したのではないか。写真を見ても、軌道右側は既設建物がかなり近接しており、Wikipedia内の記載にもあった「…(中略)…シハ35、36は狭隘な諏訪駅構内に設置された転車台では転回できなかった…(中略)」とも辻褄が合う。さらに、昭和30年代の諏訪駅周辺をよく知る或るブログ執筆者様に3代目諏訪駅構内の転車台の存在についてお伺いしたところ、「(3代目)諏訪駅周辺には転車台はなかったと確信している」という大変貴重な返答を頂いた。駅周辺から見る諏訪駅構内には痕跡すらなかったという意味だろう。鉄道マニアでもない限り、駅から数十メートル以上離れた場所の隠れた転車台の存在など誰が気に留めよう。 

以上、僕個人が現時点で考えた諏訪駅「転車台」の存在とその経緯の「私的考察」であります。最初にお話しした通り何の根拠もありません。ただ、少なくとも1948(昭和23)年までは転車台が現役稼働していた可能性はかなり高く、同様に軌道の沿線住民でご存命の方がおられる可能性もかなり高いと思われます。聞き取りによってこの謎の真実に迫れるかもしれませんが、当然区画整理で立退き・引越しをされているはずで当時の沿線住民を見つけ出すのは困難かとは思います。

冗長な文章を書きました。でも想像するのは本当面白い。で、実際にこの通りだったらめちゃめちゃ興奮するだろうなあ(笑)。これについて何かご存知の方、当時沿線にお住まいだった方、また情報をお持ちの方、是非連絡を頂ければと存じます。有難うございました。以上  02/14

日永駅には浴場があるらしい。

国立公文書館にて保存されている鉄道省文書」(「国立公文書館アーカイブ」で一覧を確認することが出来ますので、是非一度どうぞ♪)の「三重鉄道」関係文書の一覧中に、

1928(昭和3)年11月6日付文書「日永停車場構内浴場増設の件」

という題目の文書がある。駅舎施設を変更する旨の文書はその他にも多数見受けられるが、この文書のみが「浴場」という具体的な内容をもって伝えていたため親近感を持って今回の話題に取り上げさせていただいた。

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現在の日永駅舎(東面)。画面右端が駅入口


日永駅内に浴場・・・内部方面行き1番ホームにトイレはあったが・・・? 文書の内容を確認することは出来ないため正確なところは不明だが、まあ間違いなく駅舎内の職員用浴室のことを指すのだろう。当然、職員の宿泊用寝室も用意されていたはずである。上写真は現在の日永駅舎。駅舎左端に小さな窓と換気扇用ダクトが一つずつ、おそらくトイレと風呂用のものではないだろうか(※あくまでも想像)。ただし、昭和初期と現在の駅舎の構造が同一とは限らないし実際に存在したかどうかも分からない。旧近鉄時代の関係者がいれば駅舎内の構造も教えてもらえるのだが・・・。

鈴鹿支線」の一部として、日永~内部間いわゆる現在の「内部線」が全開通したのは1922(大正11)年6月21日のこと(※日永~小古曽間は同年1月)。この年から日永駅は八王子線の途中駅であると同時に内部線との分岐駅となった。ポイント(転轍機)の切替やタブレット交換、日永駅に詰める関係職員は多忙な毎日を送っていたことだろう。手元にある1924(大正14)年当時の時刻表では、八王子村発の一番列車が朝5時55分、日永駅には6時08分に到着している。もちろん、僕個人は実際に担当の職員が駅舎内の宿泊部屋に実際に寝泊まりしていたかどうかまでを知る術はないが、内部駅にも同様の宿泊部屋があるよう(布団を干してるのを見たことがある(笑))なので、日永駅にも当然あっていいはず、と勝手に推測する(ただ、内部駅は車庫があるからねえ)。

さらに、この文書が提出されたこの年(1928(昭和3)年)、三重鉄道㈱はガソリン気動車・シハ31形を導入する。水と石炭の補給による時間的制約を強いられていた蒸気機関車と違い、このシハ31形の登場は高頻度での列車運行を実現させた(乗客が大人数の場合は不向きだったようだ)。だが、列車運行頻度が上がれば当然、駅職員の一日作業量も増える(※加えて翌年(1929(昭和4)年)以降は、四日市鉄道㈱からの同系ジ41形気動車の参入で日永駅の転車台を稼働させる作業もプラスされているようだ)。にもかかわらず、宿泊施設に汗を流す風呂がないのはさすがに可哀想ではないか(逆に今までなかったのか!)。文書のタイトルだけでも当時の労働環境の一端が想像されて、大変興味深いと思うのは僕だけでしょうか。この浴場がいつ完成したのか、また実際に設置されたのかどうか定かではないが、いつか現在のコロナ禍が終息し国立公文書館に足を運べるようになれば、できればこの文書をこの目で直に確認したいものだ。以上 02/10