三重軌道㈱の生みの親、伊藤六治郎。

前述した三重軌道㈱は1910(明治43)年12月28日に創立総会を開催、取締役筆頭・伊藤小左衛門以下計7名をもって設立された。

 しかし、実際に三重軌道㈱八王子線が走る地元・四日市市四郷村の歴史をまとめた冊子『四郷ふるさと史話』(平成11年12月20日初版・発行/四郷地域社会づくり推進委会)P.44「軽便鉄道の敷設」の文中に、

「海外視察をした伊藤製茶部主任伊藤六治郎は、蒸気機関車で物資を運ぶ欧米と、苦力(クーリー=出稼ぎ労働者)の肩だけにたよる東洋の国と、あまりにも荷役作業に差があるのに驚き、村に鉄道が敷けないか、身近な人たちに諮(はか)りました」

という一文がある。

 

文中に登場する「伊藤製茶部・伊藤六治郎」とは、明治期の工業都市四日市の基礎を築いたとして著名な「5代目伊藤小左衛門(尚長)」の末弟(四男)にあたる伊藤所左衛門(1832(天保3)~1894(明治27))の三男にあたり、前述の5代目小左衛門が江戸時代安政年間から開業した製茶業を当時任されていた人物である。文中内の「海外視察」の正確な場所に関しては現在調査中で確たる物証はまだないが、独自の調査の限りでは「米国」と聞いていることから、直近のイベントとして1904(明治39)年の米国ルイジアナ州セントルイス万国博覧会の視察と考えるのが自然かと思う(注:あくまでも個人的考察であり、現時点で根拠はない)。

 

経緯はどうあれ、この当時では数少ない海外渡航経験者であっただろうし、その衝撃は相当なものであったと思われ、宗家・伊藤小左衛門に地元への鉄道敷設の必要性を訴えたとしても何ら矛盾を感じない。実際、六治郎は海外先進諸国と地元・四郷村の環境の圧倒的な差を感じたのか「田舎ではだめだ」と言って自分の息子や娘たちを東京の大学や京都の女学校に通わせたりもしている(出典:『レコードと共に四十五年』/伊藤正憲・著)。宗家・伊藤小左衛門としても、製茶も含め繁栄を極めていた家業の製糸業・味噌醤油業などで四日市市内及び四日市港への貨物運搬の一手段として十分考慮に値する話であったと思われる(親戚・伊藤傳七の勧めもあったかもしれない)。

 

かくして一番最初に鉄道敷設の必要性を論じた伊藤六治郎の名前は消え、決定権を持つ宗本家・伊藤小左衛門の意向として計画は進んでいく。もっとも、当時地元で「富豪」として名高い伊藤小左衛門の名前と後ろ盾がなければ実現しなかった計画であったとも言えなくもないが。その後、六治郎は四郷村を走る「蒸気機関車の生みの親」としての名声を得ることもなく、1921(大正10)年の茶価大暴落(ロシア革命を契機とした米国市場へのインド茶大量流入)による経営悪化の責任を取る形で、当時就いていた伊藤製茶部の専務取締役(=代表社員)を解任される降格人事(取締役の一人としては留任ではあるが)を受けることとなる(※出典:伊勢新聞大正10年5月22日記事より)。…この出来事が、その後の四郷村・伊藤家の大きな分岐点になったと考えるのは僕の考えすぎだろうか。これもまたいずれ言及する時が来るかもしれない。

 

歴史というのは本当に、時に残酷な顔を見せる。それが真実がどうかは分からないが、深く踏み込んでしまうことで知らなくて良いことまで知ってしまうこともある。ただ、いわゆる「教科書に載っている歴史」=我々が当たり前だと思っている「歴史」が、場合によっては「誰かの主観」によるただの一側面である、という可能性もあることを忘れてはならないと思う。 以上    1/20