初期の八王子線「室山駅」写真、ですか?

今回は1枚の写真から話を進める。こちらは1912(明治45)年7月20日伊勢新聞に掲載されたものである。

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「江勢道路全線踏査の一行」(『伊勢新聞』M45.7/20付掲載)

タイトルに「江勢道路全線踏査の一行(三重軌道室山驛にて撮影)」とある。文中にある江勢道路とは、現在一般には三重県滋賀県を結ぶ国道整備のことと認識されているかと思われるが、明治のこの時期は道路ではなく四日市港と敦賀港を結ぶ計画の「勢江鉄道構想」のことを指しているらしい。この鉄道構想は結果的には実ることはなかったが、一部が現在の養老鉄道という形で残されている。

それはともかく、問題は写真を撮影した場所「三重軌道室山驛」だ。三重軌道㈱の八王子村~日永間開通はこのわずか約1か月後、大正元年8月14日(※7月30日に明治天皇崩御したため元号「大正」改元)だ。開通直後の八王子線室山駅の姿を残した貴重な史料といえよう。

実はこの写真をめぐっても、僕は多くの疑問を抱えている。以前、四日市市に赴き実地調査を行った際、郷土史研究家として地元でも知られるT翁にお話を伺う機会を得ることができた。その際、先生のご好意でT翁ご自身が執筆された随筆文(当人は「随想」と評しておられたが)を頂いたのだが、その内容がまさにこの写真についての研究考察であり、随筆というよりもむしろ「研究論文」にも近いと思える素晴らしい内容であった。その文中では、「この駅は室山驛ではなく、後に「伊藤製糸場前駅」となるであろう開通前の名無しの工事駅ではないだろうか」という仮説を説いておられた。その根拠としては、写真機関車後ろに写る建物を現在も当地に残存する伊藤製糸工場の繰糸工場の屋根ではないかとするものであった。確かに形状はよく似ているし、かなり大きな建物だという判断はできる。

ただ現時点では僕は、「この駅はやはり室山駅ではないか」という推測に至っている。というのも、この写真が掲載された前日・7月19日付の『伊勢新聞』掲載記事内に、

「終点八王子駅は伊藤製茶部南方1町余の所にあり構内広さ二千坪の内十五坪の駅舎有り、待合室・便所その他完成している。機関庫は間口十間奥行十間の広さ、南方には間口五間奥行十間の車庫もあり、いずれもバラック式構造である。八王子~日永間約三哩の線路は完成しているが日永駅はまだ完成していない。最終的には停車場三箇所、停留場十箇所を備える計画となっている。去7月14日県知事一行を乗せ試運転を終え評判は上々、開業は8月上旬を予定しているようだ」(※記事内容を要約)

という一文があり、すでに終点駅名が八王子駅であることを知っていると思える書き方になっているからだ。開業まで1か月前でもあり、停車場の個数も承知済みであることから、よもや写真を撮影した自分たちのいる駅名が分からないということはないだろう、というのが根拠だ。ただ、この写真が本当に記事にある7月14日の県知事一行の試運転乗車時に撮られたものかどうかは分からない。この点については先のT翁も、「写真に写る知事一行の服装が7月にもかかわらず全員が上着着用の正装、解せない」と矛盾に言及している。この写真が本当に当時の室山駅で撮影されたものなのかどうか、現時点で確信に変わるほどの証拠は見つかっていない。事実、僕自身も新しい資料が見つかるたびにコロコロと主張が変わっているんですが(笑)。実は、先の随筆文を頂いたお礼状をT翁に郵送した際の当時の僕は、「私は伊勢八王子駅ではないかと思っている」と偉そうなことを書いて送ったりしているし(汗)。

次回以降は、現時点である室山駅の資料と写真を照らし合わせ考えていきたいと思う。出来れば、ご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご意見を伺いたいと思います。宜しくお願いいたします。 以上  2/3