「室山驛」の写真の謎について考えよう。

前回紹介した伊勢新聞の記事内写真の「三重軌道室山驛」について考える。分かりやすいように、改めて画像を紹介する(※多少画像が粗く見にくいのはマイクロフィルムとして保存されているものを印刷しているため、なにとぞご了承頂きたい)。

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タイトルで「謎について考える」とは言ったものの、実のところこの写真1枚のみから特定できるものなど何一つないのが実情だ。強いて言うなら、踏査団一行が並んでいる場所は蒸気機関車と牽引されていた客車が見えることから駅のホーム上であろうという事、奥に何かしらの建物が写っている事、あとは写真右端に窓枠らしき格子状の部分が見えることから踏査団一行の向かって右側に待合室か何か建造物が存在していたであろう、くらいのものである(後ろに写り込んでいる建物は室山駅舎なのだろうか、しかし1974(昭和49)年八王子線が水害に遭う当時でも室山駅前向いの「元駅舎だった」という商店は現存しておりこの写真の建物形状とは似ても似つかない。室山駅舎ではないと考えるのが自然だろう)。この写真が、駅のどこからどの方角を向いて撮影されたのかすら分からない。そのうえで、地元の「四郷郷土資料館」に開通初期の室山駅の構造を伝える資料が展示されているのでそちらを紹介する。

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室山駅が設置されていた当時の室山地区周辺は、伊藤小左衛門をはじめ伊藤傳七・笹野長吉などの有力者によるメリヤス商品や清酒・味噌・醤油・製茶等の一大産地として隆盛を極めていたことから、上図の通り一般乗降客を乗せる駅・プラットホームとは別に伊藤メリヤスからの貨物運搬するための貨物専用線(?)及び出入口も設けられていたようで、八王子線中でも規模の大きい駅であったろうことが想像できる。この図だけでは北側に建つ室山駅舎側にも乗降用のホームがあったのかどうかは判別しづらいが、おそらく一般乗降客は南側にあるプラットホームのみで汽車を待つ方式が取られていたと思われる。

さて、写真の検証に戻る。上図では天白川をはさんだ室山駅南側には一面の水田が広がっている、プラットホーム南側には線路がないことから、この写真が少なくとも南方面を向いて撮影されたものではないことがまず確定した。さらに踏査団一行がホーム及び機関車等からやや斜に相対していることから、図上矢印①プラットホームから北西方向を撮影あるいは矢印②北東方向を撮影、の2点に絞られる。…と文章で書くだけだとそう思えそうだが、もうこの時点で矢印②北東方向を撮影方向に確定される(笑)。…なぜそうなるかは説明不要と思う。ちなみに、矢印①北西方向だと伊藤醤油部工場(温醸棟)が写り込むことになるが、その工場の形状からもこの方角がありえないことが分かるので、その写真も紹介しておく(写真左端に写っている小屋が図内のポンプ置場)。

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       (出典:『写真でつなごう四郷のきずな』より)


とにかくこの結果、後ろに写り込んでいる建物はおそらく「養鶏場」という事になるのだが、それにしてもこれだけ室山駅で撮影されたものとして辻褄を合わせようと検証しているにもかかわらず、今なお矛盾が多すぎる。書いている自分がそれを感じている。まず、なぜ養鶏場が写り込むほどにプラットホーム東端に寄ってまで撮影しなければならないのか。伊藤メリヤスや当時の室山駅が写り込んでも良いではないか、むしろ写しておいてほしかった。さらに、この時点でプラットホーム上に前述した窓枠を備えた立派な待合室のような建物が設置されていたことになるが、それが写真右端に写り込むとなるととんでもなくホーム東端に設置されていることになるため、構造上ありえない。むしろ右端に写るのが室山駅舎の一部、そこから南西方面に向かって撮影した、と説明する方がずっと現実的だし納得がいく。この当時にはすでに天白川南岸に何らかの建物が建っていたことの証明が出来れば、新聞社の記者の「室山驛撮影」という説明にも納得できるのだが。これらの矛盾が解消されないため、ため、個人的にはいまだに疑っているのが現状なのである。

 

果たして、この写真は本当に当時の室山駅で撮影されたものなのだろうか。当時の『伊勢新聞』も含め、他の新聞などの記事ももっと調査する必要があるだろう。もしかしたら違うアングルでの写真が残されているかもしれない。こちらの検証も自分の中でまだまだ続くことになりそうだ。興味は尽きない。 以上  02/07