諏訪駅「転車台」 に関する私的考察。

1月22日に書き込みをし事情により延期をしていた諏訪駅「転車台の謎」について、ようやく段取りが整ったので書いていこうと思う。まず最初に、今回の記事はあくまで何の知識も持たない僕個人が、収集した情報から現時点で導き出した「私的考察」であることをご理解頂ければと思う。では本題に。

以前の記事にて、1929(昭和4)年1月30日伊勢電気鉄道㈱が桑名~四日市間を開通させたことで三重鉄道㈱四日市鉄道㈱の始発駅が一つの諏訪駅(※以降2代目諏訪駅と呼称する)になったこと、この2代目諏訪駅東海道沿い(南西側)に建っていたことは書いた。当時、四日市鉄道㈱側はすでに全線電化が完了しており、駅構内に蒸気機関車の向きを変える転車台は必要としていなかったが、付随客車連結の必要上機回し線は必要であったことが推測される。一方、三重鉄道㈱は相変わらず蒸気機関車を使用しており駅構内には転車台及び機回し線が設置されていたと推測される。その2代目諏訪駅を写したと思われる写真(昭和6年のもの?)が残されているので紹介する。ちなみに、1931(昭和6)年には四日市鉄道㈱三重鉄道㈱に吸収合併されており、三重鉄道㈱湯の山線となっている。

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2代目諏訪南駅『目で見る四日市の100年』(四日市商工会議所発行)P.40より

右端は伊勢電気鉄道㈱諏訪駅(島式2面)ホーム。中央奥に小さく見えるのが三重鉄道㈱湯の山線と八王子・内部線。乗客1人が立っているホームが湯の山線ホームで、少々分かりにくいが左側駅舎電柱の陰に隠れるように蒸気機関車が止まっているのが見える(赤丸内)、そこに八王子・内部線ホームがあると思われる。蒸気機関車の先は駅舎が影になり残念ながら施設の詳細は判別できないが、おそらく軌道の一番奥には転車台及び機回し線が存在しているはずだし、していないと道理に合わない。とりあえず、「転車台はある」という前提で(笑)。

戦時色の色濃い1942(昭和17)年、参宮急行電鉄㈱諏訪駅(注:この時点で伊勢電気鉄道㈱は1936(昭和11)年9月に参宮急行電鉄㈱に吸収合併されている)は軍都化した四日市への乗降客急増のため上記写真の島式2面ホームでは旅客をさばききれなくなり、やや西方にあった貨物駅(?)付近へ対面型ホームに形を変えて移転することになる。これに合わせて三重鉄道㈱諏訪駅も移転することになる(※これを3代目諏訪駅と呼称する)が、ちょうどその移転先が湯の山線内部・八王子線の軌道合流ポイント付近だったため、駅ホームの形状、特に内部・八王子線方面ホームがいびつな形状になってしまったと思われる。この3代目諏訪駅の位置は戦中・戦後を通じて変わらなかったようで、1955(昭和30)年に撮影された写真でその形状を知ることができる。

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諏訪駅構内『写真アルバム四日市市の今昔』(樹林舎発行)より

右端は近畿日本鉄道2番ホーム名古屋方面乗り場、隣の3番ホームは三重交通湯の山温泉方面乗り場。左側が内部・八王子方面乗り場。日永駅のホーム形状のことがあるので別段気にはならないかもしれない(笑)が、連絡通路も含めまあ曲線の多い落ち着きのない駅である(笑)。…話はそれるが、写真では湯の山線内部・八王子線の軌道がなぜか合流しているが、その理由については前回1月31日付の拙著ブログをご参照頂きたい。そしてさらに、この駅は両線の始発駅のはずなのに四日市方面(写真手前側)に軌道が2本さらに延びている。どこに向かっているのか。そうなのだ、この写真で注目すべきは駅の形状ではなく、まさにこの延長されている軌道なのだ。この軌道の謎を紐解くカギとなりうる2枚の写真を紹介する。

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昭和31年頃空撮『むかしのくらし読本2 四日市のまちかど』四日市市博物館発行)より


上の空撮写真(上が東方向、国鉄四日市駅方面)中央やや左、蛇行して走る2本筋が近畿日本鉄道四日市~諏訪間の軌道。最上部を左右に貫く白く広い道路がおそらく現在の国道1号線。その少し下の白く横断する踏切道のようなもの、これがおそらく旧東海道の踏切道。中央下部に写る大屋根の建物は、元諏訪劇場。3代目諏訪駅はそのやや西側に位置していたとの話なので、この写真では残念ながら見切れているという事になる。問題はその左側、もう1本の踏切道と思われるやや細い白い筋のすぐ脇に近畿日本鉄道の軌道からは明らかに横にずれて客車のような箱型の車体がはっきりと写っている。これは、もしかしたら三重鉄道㈱の車両ではないのか。

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諏訪駅東側「四日市駅移設60周年記念写真展」より

さらに2枚目。おそらくこの写真は1枚目の空撮写真の赤丸付近を撮影したものと思われる。写真左端の奥で学生らしき人物が渡っている所が旧東海道踏切か。近畿日本鉄道の軌道のすぐそばに建物に遮られるように行き止まりの軌道が写っている。ちょうどこの軌道の終点辺りは、偶然にも1942(昭和17)年まで存在した2代目諏訪駅が建っていたあたりだ。この2枚の写真から、少なくとも昭和31年9月時点までは1本の特殊狭軌軌道が2代目諏訪駅付近まで延びて残っていたことになる。そしてその軌道は、間違いなく始発駅であるはずの3代目諏訪駅に繋がっていたと考えられる。その延長距離は前出の空撮写真で見てもかなりの長さが残っているようだが、なぜこんな不必要な行き止まりの軌道を残す必要があったのか。考えられる理由は一つ、この行き止まりの軌道の末端に「転車台があった」からではなかろうか。

これ以降は個人的な推測ではあるが、3代目諏訪駅に移設した1942(昭和17)年以降も内部・八王子線は2代目諏訪駅末端に設置されていた転車台を流用し蒸気機関車・ガソリン気動車の転回作業をしていた。翌年に電化した内部線はその必要はなくなったが、日永~伊勢八王子間の電化は戦後まで待たなければならず(1948(昭和23)年電化)、3代目諏訪駅は一部の非電化区間のためだけに転車台を駅構内に残さなければならない。出来るなら現在の諏訪駅付近に移設したいところだが、写真で見て分かる通り駅周辺は繁華街の真っただ中で敷地的に全く余裕がないうえ、戦中・戦後を通じ移設するだけの金銭的余裕もなかったはず。結果、1948(昭和23)年内部・八王子線完全電化以降は軌道末端の転車台は不要となり、数年後施設は撤去した(あるいは埋め殺した)が残りの延長軌道は機回し線・避退線としての機能のために残したのではないか。写真を見ても、軌道右側は既設建物がかなり近接しており、Wikipedia内の記載にもあった「…(中略)…シハ35、36は狭隘な諏訪駅構内に設置された転車台では転回できなかった…(中略)」とも辻褄が合う。さらに、昭和30年代の諏訪駅周辺をよく知る或るブログ執筆者様に3代目諏訪駅構内の転車台の存在についてお伺いしたところ、「(3代目)諏訪駅周辺には転車台はなかったと確信している」という大変貴重な返答を頂いた。駅周辺から見る諏訪駅構内には痕跡すらなかったという意味だろう。鉄道マニアでもない限り、駅から数十メートル以上離れた場所の隠れた転車台の存在など誰が気に留めよう。 

以上、僕個人が現時点で考えた諏訪駅「転車台」の存在とその経緯の「私的考察」であります。最初にお話しした通り何の根拠もありません。ただ、少なくとも1948(昭和23)年までは転車台が現役稼働していた可能性はかなり高く、同様に軌道の沿線住民でご存命の方がおられる可能性もかなり高いと思われます。聞き取りによってこの謎の真実に迫れるかもしれませんが、当然区画整理で立退き・引越しをされているはずで当時の沿線住民を見つけ出すのは困難かとは思います。

冗長な文章を書きました。でも想像するのは本当面白い。で、実際にこの通りだったらめちゃめちゃ興奮するだろうなあ(笑)。これについて何かご存知の方、当時沿線にお住まいだった方、また情報をお持ちの方、是非連絡を頂ければと存じます。有難うございました。以上  02/14