昔を知る人ほど順番にはこだわるらしい。

「内部線」「八王子線を同列で語る際、僕も含めておそらく大多数の人間が内部・八王子線と呼ぶかと思う。例えば、近鉄四日市到着前に車内で乗り換えの案内をする現在の近鉄職員や四日市あすなろう四日市鉄道職員(車掌とか)などだ(※実際はどうかは知りません、ごめんなさい)。そもそも地元を含む一般の人であれば八王子線と言わず「西日野線」という時もあると思う(笑)。ところが、昔のことを知っている人であればあるほどその呼び名にこだわるところがあるという話を聞いた。つまりは、内部・八王子線ではなく「八王子・内部線」だという「順序」の話だ。

自分が興味を持っていることもあり、これまでの話題の中で八王子線の歴史や開通の経緯はさんざん書いてきた。それに比べ「内部線」の方は僕個人の中ではやや興味が薄いため(すみません(汗))、あまり紹介はしていなかった。

「内部線」は、三重軌道㈱が本線となる四日市市~伊勢八王子間とは別に鈴鹿支線」として日永~内部、さらに内部から南西方面に鈴鹿市伊船町まで延伸するという計画のものだ。会社役員として経営参画していた伊藤傳七が、短距離・狭軌である現在の八王子線のみでの経営維持は難しいと判断し、鈴鹿山麓での石灰石や土砂採掘・運搬を含む貨物輸送での収入で経営安定化を目指そうと提言した計画であった。それだけではなく海岸線側に近づく伊勢神戸(現在の鈴鹿市神戸)方面への延伸も計画していたらしい。結局、三重軌道㈱自体の資金不足により1922(大正11)年の日永~内部間までの一部開業のみにとどまるわけだが。※なお、三重県史編纂グループのページ『三重鉄道敷設関係図面』(歴史の情報蔵・第21話)にて史料と共に詳しく説明されているので、そちらをご参照下さい。とても面白い記事ですよ!  ※⇓アドレス

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/shijyo/detail.asp?record=565

 

結局何が言いたいかというと、八王子線の方が「内部線」より早く開通していますよ、だから「八王子・内部線」ですよね、ということですね。実際、大正~昭和初期の鉄道関係資料でも内部線は「日永~内部間」という表記になっており、現在とは違い「支線扱い」となっていることから、当時は史料的にも世間的にもそういう呼ばれ方をしていたのだろうと推測されます。で、これらの事情が変化するのは1940(昭和15)年あたりからで、日永や塩浜といった沿線、特に内部線沿線区域に陸軍や海軍の軍需工場が建設されたことで内部線に乗車する旅客(というより工場従事者などでしょう)が激増することになります。そんな状況下でも既存の蒸気機関車やガソリン気動車の運行のみで対応し、軍部をごまかしていた(?)当時の三重鉄道㈱も、とうとう軍部側から「此際姑息ナル改善ヲ止メ電化ニ依ル輸送力強化ヲ企ルノ要切ナルモノアリト認メラレ候条」(鉄道省文書より※『四日市市史第18巻』より引用)と、沿線の電化を強い口調ですすめられる事態(「姑息なる改善」とは…言いたい放題(汗))になってしまう。この要請を受け、三重鉄道㈱は沿線に軍関係施設が多い内部線を優先し電化を進める。戦時中で物資不足が心配されたが、電化済だった中勢鉄道㈱が同時期に偶然営業運転を休止(廃止?)したのが奏功し、それらの資材を流用することで無事1943(昭和18)年に電化が完了することになる(八王子線の電化は1948(昭和23)年)。

個人的な意見だが、軍部によるこの半ば強制的な内部線の電化が内部・八王子線の呼び方の順番の変化に深く関係があるのではないかと想像している。そう、先の理屈でいえば、電車としては「内部線」の方が八王子線より早く電化してますよ、だから内部・八王子線ですよね、ということですね。その他、もしかしたら軍部側による呼称の優先「指導」があった可能性も否定できません(そこまでするか?という気もしますが)。本当のところ名称の順番が変わった直接の理由ははっきりとは分かりませんが、間違いなく言えることは、どちらの路線も元はと言えば地元の住民が資金を出して建設した「おらが町」鉄道なわけですから(そこまで相手側路線の方に対抗心があるかは不明ですが)、たかが呼び名とはいえやはり自分たちが作った路線の方を先に呼んでほしいですよね、そんな気がします、多分。

個人的には、現在既に消えてしまった西日野~伊勢八王子間の路線のことを忘れない、忘れられないためにも「八王子・内部線」と呼んでほしい気はしています。たかが名称ですが、万が一にもそこから興味を持ってもらえることがあるかもといった期待も含めそう呼ばれればいいなと思います。しょうもない話ですみませんでした。 以上  02/17