三重軌道㈱発起人・伊藤小左衛門。

1910(明治43)年10月19日、「三重軌道㈱」が四日市~室山・伊勢八王子間を結ぶ軌道敷設特許を下付されたことは以前の記事で触れた。同年12月28日、同会社は正式に設立され(設立登記日は翌年1月9日(※『官報』1月16日掲載)、その取締役筆頭(社長)は発起人の一人、伊藤小左衛門であった。

明治・大正期の四日市室山の豪商・伊藤小左衛門に関してはまだ詳しい紹介をしていないので後日また改めてまとめるとして、とりあえず上記の記事で登場している「小左衛門」は数えて7代目に当たる人物で幼名を「昌太郎(まさたろう)」といった。しかも父親であった先代6世小左衛門が3ケ月前に死去したため、昌太郎が「7世小左衛門」を襲名した直後の時期であった。この三重軌道㈱の設立の経緯は、1月18日掲載の記事「全ての始まりは…」内でも書いたように三重軌道㈱の元となる四日市~室山間の鉄道敷設運動は少なくとも1908(明治41)年頃には具体的な運動が始まっていたと考えられる。この頃はまだ先代の6世小左衛門(運久)は健在であったと思われ、昌太郎は病床に伏した父親に代わり途中から運動に参加したと考えられる。…つまり、三重軌道㈱の発起人として名を連ねその運動を推進したのは「6世小左衛門」であり、社長となった「7世小左衛門(昌太郎)」はそれほどの積極性はなかったのではないか、という推測が生まれてくる。だってそうだろう、本人の意思の有無にかかわらず世襲することによって肩書が自動的に付きまとってくるわけだから仕方ないではないか。事実、途中から参加したためか、もともとそういう約束だったのかは不明だが、設立後2年と経たずに取締役筆頭(社長(筆者注4/4:設立当初から代表取締役四日市の実業家・九鬼紋七氏であったらしい。まだ正式には未確認だが…確認次第修正いたします、申し訳ありません))を他者に譲っており三重軌道㈱の経営からは距離を置いた形となっている(一取締役としては留任)。もっとも昌太郎自身、将来の伊藤5事業部総長であり家業の味噌・醤油醸造等の発酵学に長けてはいるが、鉄道経営に関して全くの素人であった当人にとって三重軌道㈱からの離脱?は既定路線であったのかもしれない。

前回の記事で、現代のスマートフォン・パソコン等での安易な情報収集の「手軽さ」と「信憑性の低さ」という長短所の話をしたが、今回のテーマでも同様の警鐘を伝えざるをえない。「Wikipedia」にて四日市の「伊藤小左衛門(5世)」(※普通に伊藤小左衛門と検索すると福岡の同姓同名の検索結果が出てくる)を検索すると、随所に間違った記述が見受けられる。息子である6世小左衛門(運久)の経歴も混同されて記述されているためで非常に混乱する記述となっている。江戸、明治、大正を生きた「3人の小左衛門」を、その生き方と共にきちんと分けて紹介してほしいものだ。できれば、次回以降は余裕を見つけてそのあたりも書き加えていきたいなと思う。まだまだ研究途中ではあるが。以上 03/21