『四日市市史』より。「諏訪駅にサービス嬢登場」

四日市市史』第12巻P.905に、1938(昭和13)年の諏訪駅の新サービスを紹介する記述がある。主題は「五七〇 諏訪駅にサービス嬢登場」で、昭和13年11月13日伊勢新聞記事からの抜粋のようだ。

「湯の山はお乗替へ願ひます 参急諏訪駅に優しいサービス嬢

関西急行が開通してから関急・参急を利用して北勢の仙境湯の山へ杖を曳く名古屋方面からのハイカー、遊湯客はグッと激増これに伴って三重鉄道との連絡乗換駅である諏訪駅は俄然乗降客・乗降客が増加し出したので参急では諏訪駅の重要駅としての総ての設備を拡充、サーヴィス陣を強化する計画を樹ててゐるが先づ優しいサーヴィスとして麗人サーヴィスのヒットを放つこととなり、十日からサーヴィス案内家城〇〇〇さん、改札係中村〇〇さん、浜口〇〇〇さんの三嬢を配置した 案内ガールは電車の発着毎に優しい声で「湯の山行きの方はお乗換へ」「宮妻峡はこちらでお乗換へ」と声のサーヴィス陣を張るもので、制服姿も颯爽と登場したサーヴィス嬢は「まだ馴れませんので」と一寸はにかんでゐる」(全文、※一応名前は伏せております)

1938(昭和13)年6月、大阪電気鉄道㈱(大軌)の子会社であった関西急行電鉄㈱名古屋駅地下に新設した関急名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅)~桑名間を開通させたことで、3つの鉄道会社(関急・参急・大軌)接続ながらも大阪~名古屋間の電車連絡が実現することとなった。これに伴ってか、観光・湯治目的等の連絡駅であった諏訪駅は乗降客で賑わうようになったため、現在でいう車内アナウンスの代わりに(おそらく)駅ホーム上で乗客に乗換案内を伝えるサービス嬢を配置した、ということらしい。多くの乗降客で混み合うホーム上での声の通りやすい女性による発声や、乗客に対するきめ細かい接客サービスという観点での女性起用という理由であろうが、既に日中戦争が始まり戦時色が濃くなる世情での(男性の)人材不足、というのも一因かもしれない。

…ちなみに、この記事の1938(昭和13)年当時の諏訪駅は以前紹介した東海道筋に建っていた2代目の諏訪駅で、開業当時は伊勢電気鉄道㈱諏訪駅だったが、1936(昭和11)年9月に経営破綻で参宮急行電鉄㈱に吸収合併され上記記事の時は「参急諏訪駅となっている。乗り換えには隣の三重鉄道㈱湯の山線・八王子・内部線ホームへの移動を要した(写真参照)。

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さらには、記事文中の宮妻狭へはサーヴィス嬢の乗換案内の内容から湯の山温泉からも行くことは出来たと推測されるが、当時は四日市~水沢及び椿神社(鈴鹿市)間を走る「水沢バス」(水沢自動車商会/営業主・豊田末吉氏)が運行されており、それに乗って宮妻峡入口近くまで行くことが出来たと思われる。ただ、この当時宮妻口というバス停があったかどうかまでは定かではないが…。(㊟:現在は三重交通水沢(室山・笹川)線という路線で現存し、終点宮妻口バス停がある。偶然にもこの記事の直前に三重鉄道㈱がこの水沢バス会社を買収・合併している)

その仕事の内容や当時の世間の扱いがどうであれ、このサーヴィス嬢の存在は今後の女性の社会進出という観点から見れば非常に有意義なことであったろうと考えて良い。しかし、この3年後の1941(昭和16)年には大東亜戦争が開始、世間は完全に戦時色となり四日市周辺は急激に軍都化の様相を呈していく。鉄道もその役割を旅客運搬から戦時物資・兵員輸送へと大きく変化することで、悠長に観光だ湯治だなどと言っていられなくなった。この諏訪駅の案内サーヴィス嬢がいつ頃まで存在していたのかを示す史料は今のところ見つかっていないが、当然のことながら少なくとも開戦前には消えていたのではなかろうかと思う。わずか2~3年の短い期間であったことになる。

1913(大正2)年の三重軌道㈱諏訪前駅の開業からわずか30年足らずにもかかわらず、この諏訪~四日市駅周辺の鉄道を巡っての環境の劇的な変化は当時の人でなくても驚かされる。「話題に事欠かない」というやつですね(笑)。これからも面白い話題が出てきた際にはまた書き連ねたいなと思う。今回も内容が薄いな(汗)。以上 03/28