大正3年三重軌道㈱が起こした事件ともう一つの「赤堀駅」

今回の話題も、以前紹介した三重県立図書館蔵の伊勢新聞 四日市関係記事索引』から興味を引いた記事見出しから抽出した伊勢新聞記事を閲覧してきました。

『汽車に焼れた損害』大正3.5.4

『家を焼れた損害/軽鉄機関車のために』大正3.5.6

『損害賠償の示談』大正3.6.9

この3つの記事見出しだけで、何となくおおよその内容が分かってしまう気もする(笑)が、これはこれで記事を一つずつきちんと読んでいくと面白い発見があるのでその辺を期待しながらお付き合いいただければと思います。最初の記事は数行のみの記事で、その内容が2番目の記事と重複しているので2番目の記事全文から(※文そのまま、漢字は多少変更してます)。

 

●『家を焼れた損害/軽鉄機関車のために』(大正3.5.6)

三重郡常盤村大字赤堀〇〇政七は四日市字新町三重軌道株式会社代表者取締役九鬼紋七氏を相手取り金一千圓損害賠償請求の訴訟を五日安濃津地方裁判所民事部へ提出したるが其理由を聞くに元来原告政七は青物乾物商を生業とする者なるが其住居は東方は東海道に面し西方は軌道会社の経営する諏訪駅より八王寺(※子の間違い)に通ずる軌道線路中赤堀北驛と赤堀南驛との約中間に沿ひ間口四間奥行五間屋根続葦葺庇東南方一間西北方三尺瓦葺平屋建なるか然るに大正三年四月十七日午後二時三十分諏訪駅より八王寺に至る客車にして如上赤堀北驛より赤堀南驛を通行の際機関車の烟突より夥(おびただし)く火粉を吐出し折柄西風激しく人々も危険を懐(いだ)き居りし刹那該火粉は政七方建物の西方濱葦葺屋根の上に降下し燃上り遂に同家を全焼せしめたるより之が為め生じたる訴訟なりと」(※姓名は一応伏せてあります)

 

要約すれば、大正3年4月17日午後2時30分発八王子行列車の機関車が吐き出した煙と一緒に舞い上がった火の粉が飛来し発火したのが原因で原告の自宅が全焼させられたので三重軌道㈱に対し千円の損害賠償請求訴訟を起こした、といった感じでしょうか。

一度でも内部・八王子線に乗車したことがある方はご存知かと思いますが、昔からの街道(東海道)沿いを走るこの路線は現在でも四日市~日永間、特に赤堀駅周辺に線路と周辺民家との間隔が極端に狭い部分が存在しています。今でこそ(おそらく意識して)線路沿いに道路を作る等の対策を取ることでその間隔は広くなってはいるようですが、戦前及び昭和30~40年代までくらいは諏訪駅近辺も含め現在以上にその間隔は狭かったろうと推測されます。そんな状況下、ミニサイズとはいえ蒸気機関車なんて走らそうもんなら煤煙の影響、ましてや火災の危険など誰でも容易に想像できるはずです。しかも、偶然にもこの事故の1ケ月前、同じ伊勢新聞『寒梅列車と煙火』(3月8日)という記事で三重軌道㈱「沿線の岡山・地蔵谷の梅林が満開なので割引乗車券を発売するとともに余興として3月8日諏訪停車場付近と岡山梅林丘上で煙火を放揚する」とし、煙火吐出イベントで盛り上げようとしています。つまり普段は煙火放揚を極力抑えていたわけで、その時大丈夫だったから…とこの余興で味を占めた(笑)可能性も否定できません。でもまあそんな事には関係なく会社側もそれなりの注意は払っていたであろうけれども、排煙を最低限に抑えることはできても100%無くすことは無理なわけですから、結局はいずれ起こるトラブルではあったとは言えるのかもしれません。

とにかく、訴えられた三重軌道㈱側と原告との折衝が行われた結果、約一か月後に示談により解決します。その記事全文(※前回と同様)。

●『損害賠償の示談』(大正3.6.9)

四日市三重軌道会社の為めに家屋を焼失せられたる三重郡常盤村〇〇政七より同社に対する金一千圓損害賠償請求事件は安濃津地方裁判所にて審理中なりしが此程両方間示談纏まり訴訟の取下をなしたり」

示談の正確な内容に関しては書かれてはいないが、訴訟提起からわずか一か月での示談スピード解決ということで三重軌道㈱側もそれなりに誠実な対応をしたのではないかと想像されます。まだ生まれたばかりの鉄道会社です、利用者や近隣・沿線住民とは良好な関係を築かないといけませんからね、正しい判断だと思います。めでたしめでたし。

それはそれとしてどうでもよくて(笑)、それよりも僕が気になっているのは最初に紹介した記事『家を焼れた損害/軽鉄機関車のために』(大正3.5.6)中の一文、

「…(中略)…に通ずる軌道線路中赤堀北驛と赤堀南驛との約中間に沿ひ…(中略)…」

「赤堀北驛」「赤堀南驛」という記述です!…え、「赤堀」に北駅と南駅があったんですか?そんな話聞いたことがないんですけど!八王子線の赤堀駅周辺の線路方角は北から南に走っており、仮に過去の赤堀駅が単線を挟む形の対面式駅舎(ホームが二つ)であったとしても、その呼び名は「東駅」「西駅」になるはず。つまりこの「北駅」「南駅」という呼称は現存する「赤堀」駅の日永駅側、もしくは大正3年当時まだ存在していた南浜田駅側にもう一つ未知の駅が存在していた(※上り方面と下り方面で乗り場ホーム及び駅舎の位置が違う可能性も含む)ことを意味しているのです!…こんなこと、本当のことなのでしょうか!むしろ、いっそ南浜田駅のことを新聞側が勘違いして「赤堀北駅」と記述してしまったという顛末の方がこちらとしては助かるのだが(笑)。偶然とはいえ気づいてしまった以上は調査せねばなるまい。この幻の「第2の赤堀駅」の存在情報が掘り出される可能性は限りなく低いと思われるが、引き続き調査していこうと思うのでありました。次々謎が出てくるなあ。面白い。以上 04/04