新聞記事から見る三重軌道㈱その③「軽鉄敷地買収難」

さらに続き。『伊勢新聞』記事から三重軌道㈱の足跡を追う。

 

まずは『伊勢新聞』に掲載された写真から(以前の記事でも紹介したもの)。

明治45年7月20日付『伊勢新聞

コピーが不鮮明で読み取りにくいが、写真右側に「江勢道路全線踏査の一行(三重軌道室山驛にて撮影)」とある。完成開通直前の三重軌道室山駅を写した貴重な一枚だ。この10日後に明治天皇崩御、新元号「大正」に改元される。三重軌道㈱が八王子村~日永間を開業するのはこの約一か月後、大正元年8月14日。その翌日、同新聞にて開業内容の詳細と乗車賃、そして天皇崩御から間もないため派手な開通祝賀会等は自粛する旨を報じる記事が掲載されている(8月15日付記事「三重軌道開業」)。一部抜粋して紹介する。

「・・・八王子(室山南端)日永(鹿化橋南)間約二哩の工事完成したるより十四日午前五時三十分開業する筈にて日永停車場より終點八王子驛迄の間を五區に分ち終點より数へて伊藤製絲部前室山停車場、四郷役場前西日野、東日野の各所に停車すべく午前五時三十分八王子を發する車輛は十四分間を費やして日永に着し毎日午後七時迄は双方毎三十分間七時以後十時迄は毎一時間の發車と定め乗車賃は一區一銭の割合にて前記五區分は通行税を合せて六銭なりと・・・

そして、同記事と並ぶようにもう一つの記事が掲載されている。「軽鉄敷地買収難」という見出しである。こちらも一部抜粋して紹介する。

「・・・四日市築港に伴ひ同市内の地価は不自然なる騰貴を来たし其近郊なる三重郡常盤村及日永村の如きは買収最も困難の個所にして・・・三軌の如きも線路敷地の買収及既成の工事にて己(すで)に豫定の創業費を消費し日永四日市間の工費は豫定外の支出を要する現状・・・」

記事の内容通り、予定していた日永~四日市間が異常な地価高騰により軌道用の敷地買収が思うように進まない現状を報じている。これには軽便鉄道建設の機運のタイミングとこの当時の市政方針とが絡み合う様子がうかがえる。

もともと東海道筋の宿場町であった四日市は多くの宿や本陣、店舗が軒を連ね賑わってはいたが、江戸~明治中期までは「札の辻」と呼ばれる現在の市街中心部よりやや北寄り(現在の北町・中町周辺か)側が、場所的に比較的繫栄していたといっていいと思う。当時の名残を思わせる店舗も僅かながら残存しており、現在の「イオン」の前身である百貨店ジャスコの基礎となる「岡田屋呉服店も創業当初店舗はこの地域にあったようだ。この時期まだ未完成の諏訪新道を含めた市街地南側は東海道沿い以外は田園地帯が広がっていたらしい。

転機は1907(明治40)年の名古屋港の開港であろうか。もともと江戸期から商業港として確固たる地位を築いていた四日市港だったが、名古屋港開港に危機感を抱いたのか四日市市は前年の明治39年頃から海岸埋め立て、諏訪神社前道路(諏訪新道)の改修など四日市港を含めた四日市市街南部の開発(四日市市四大事業計画)事業を積極的に推進する。前述したように市街北部が既に民家や店舗が集中し開発の余地がないためでもあったろうが、同じ理由で1890(明治23)年に中心部(市街地北部)からやや離れた市街地南部に設置されていた関西鉄道四日市駅(現在のJR関西本線)の存在も大きな要因であっただろう。新たな物流手段・鉄道と既存の四日市港を組み合わせ物流ネットワークを確立しつつ埋め立て開発により駅南部近郊に広大な敷地を確保、企業誘致も含めた近代工業港を目指し名古屋港に対抗しようという当時の四日市市の思惑が見て取れる(これら四大事業計画は1910(明治43)年に竣工し四日市港は重要港湾に指定されることとなる)。

三重軌道㈱菰野四日市間を結ぶ四日市鉄道㈱が設立、軌道敷設を計画するのはちょうどこの時期にあたる。四日市鉄道㈱は設立当初は湯の山温泉への観光客誘致を主な目的としていたため、市の四大事業計画とは直接関係はなかったろうが、既に江戸末期から海外輸出を開始していた四郷村在郷の企業(伊藤製糸部製茶部・伊藤メリヤス他)が沿線にある三重軌道㈱にとっては、終着地である四日市港の近代化自体は歓迎すべき事案であっただろうと推測される・・・が、時期が悪かった。というか遅かった、というべきか。素人である自分がこの状況を文章に書き表しているだけでも、近いうち駅近郊の地価が高騰するであろうという推測が出来るほどなのだから。当然、両社ともこれらの事情を考慮して設立・計画の段階で四日市駅周辺の敷設予定地の敷地買収には多少の余裕を持って費用を見積っていたと思われるが、実際の軌道敷設に入るわずか2年間での地価高騰の差額はその予想を遥かに上回るものだったのだろう。

なぜ、ここまでの地価高騰が発生したのだろうか。個人的にはそこに何かしら地元住民との軋轢なども可能性として考えられる気もするが、実はこの極端な地価高騰の裏には1911(明治44)年に設立された養老鉄道の存在もあったのではなかろうか、と考えている。・・・ほとんど眉唾ものの個人的な推測ではある(笑)が、せっかく話題に出したので次回はその話。

・・・全く先に進まない。