※閑話休題「養老鉄道」

前回の話の流れで、三重軌道㈱の院線四日市駅への延伸における敷地買収難には養老鉄道㈱」も関係しているのではないかという、個人的で根拠のない推測を書きました。今回はその推測の説明のために簡単に(?)養老鉄道㈱」のことを書こうと思います。とはいえ、自分が調べている三重軌道㈱関連とは直接的な関係はないため、この解説のために急きょネットで調べた付け焼刃程度の説明です(笑)ので違っていることもあろうかと思います、その点はご了承下さい。

養老鉄道㈱」は、岐阜県大垣市出身の実業家・立川勇次郎を社長として1911(明治44)年に設立、1913(大正2)年7月に養老~大垣~池野間を開業した民営鉄道で、現在も経営母体を変え「2代目」養老鉄道として桑名~揖斐川間の運行を続けています。現在の終着駅が桑名のため四日市市とは何の関係もないように感じられますが、そもそもこの養老鉄道㈱」が持っていた鉄道敷設計画の主眼は、実は日本海側の重要港・敦賀港と四日市港とを鉄道で直接結ぶことにあったようです。

この列島横断鉄道計画は既に明治初期に日本海側と伊勢湾側両方から計画されており、時系列的には北陸地方華族を中心に設立された「東北鉄道会社」により明治14(1881)年8月12日付で提出の「前田利嗣外十三名ヨリ東北鉄道会社ヲ創設及事業保護ノ議願」が最初のようです(福井県史』通史編5)。その後、明治16(1883)年4月6日付で当時四日市港修築に尽力していた稲葉三右衛門四日市港と敦賀港を結ぶため既設官設線のある関が原と四日市の間に私設鉄道「勢江鉄道」の敷設を計画出願します(㊟:この計画は、後に1928(昭和3)年「藤原鉄道」により免許状下付され現在の三岐鉄道三岐線として実現します)。この時点では結局どちらも実現せず却下されますが、14年後の1897(明治30)年、稲葉三右衛門の計画を引き継ぐかのように四日市市北町出身で四日市商業会議所の議員でもあった実業家・井島茂作が三重・岐阜両県の有力者を説き伏せ養老鉄道の敷設免許を申請、仮免状を下付されます。

 私設鉄道敷設免許状仮免状下付(逓信省)

  養老鉄道株式会社 四月二十一日 三呎六吋 

  起点 関西鉄道桑名停車場

  終点 岐阜県脛永 三十五哩四十鎖 資本金額百五十万圓

  会社位置 三重県桑名 発起人井島茂作外二十五人」

(1897(明治30)年5月18日付『官報』通運欄より。なお終点の「脛永(はぎなが)」は岐阜県揖斐郡にあった脛永村のことで、現在の養老鉄道養老線揖斐駅周辺を指すようです)

これが現在に至る養老鉄道㈱」の直接の起源となります。ただ、この時点でも沿線の利害関係や不況の影響を受け実現目処の立たないまま「未成」に終わってしまいます。ちなみに、仮免状では三重県側の終着地が関西鉄道桑名停車場になってますが、これは免許状を取得するためとりあえずの妥協案といったところのようです(井島は当然四日市(港)までの延伸敷設を目標としていましたが、関西鉄道と路線が重複するためその区間のみ申請と却下の繰り返しだったらしい)。※余談ながらこの翌年(明治31年)、井島茂作は第2代四日市市長に当選、1年弱のみ(12月から翌年10月まで)務めます。

明治30年時点で既に関西鉄道が桑名~四日市間、特に富田~四日市間を伊勢湾岸沿いを開通させており、しかも四日市市中心街北東部は既に家屋で密集している状況で、後から参入する鉄道が院線四日市駅に連絡接続を計画する場合、どのようなルートが考えられるだろうか。若干の迂回とはなるが、駅周辺ながら田園地帯が広がる四日市駅西部から回り込み(阿瀬知川沿いに)南方面から駅西側に連絡するのが敷地的にも工法的にも単純廉価であることは誰が考えても明白であり、実際に明治末期に三重軌道㈱四日市鉄道㈱も創設当初に敷設方法候補の一つとして挙げていたと考えられます(大正期に四日市駅への連絡を実現させた伊勢電気鉄道㈱も、当初(明治末期)は南方面から四日市駅東側へ連絡する案で計画していましたが、敷地確保が困難のため駅西側に計画変更しています)。そしてちょうどこの南西への迂回ルートに該当するのが当時の日永・赤堀・常盤村周辺にあたります(堀木周辺も該当するかもしれない)。

明治30年時点から桑名~四日市間の鉄道敷設実現を目指し準備を進めていた市長経験もある地元・四日市市出身の井島茂作からすれば、1912(明治44)年ようやく正式設立され実現の目処がついた養老鉄道㈱」の計画に、「昨(明治43)年の軽便鉄道法制定により安易に軽便鉄道が敷けるからといって、自分が十数年前から先に鉄道を敷こうと計画していた周辺敷地を四郷村・菰野村の「他所(よそ)者有力者」が買収しようとしている」という歪んだ解釈になっても何ら不思議ではない。もちろん、実際井島茂作がこの周辺に鉄道敷設を考えていたという物証はないし、またそれらの事情により例えば井島茂作が敷地所有者に対し圧力をかける等の妨害行為がなされる等は考えにくい、むしろその可能性はゼロに等しいと思われる。が、どちらの立場から考えてみても競争意識が通常以上に働き、それが異常なまでの買収価格高騰の一因になった可能性は否定できないだろう。仮にそういった原因が皆無だったとしても、いずれにせよ間違いなく言えるのは、将来的に複数の鉄道路線が乗り入れ四日市港も発展顕著、院線四日市駅直近の南西部周辺の土地を所有する敷地所有者側にとっては、価格はつり上げ放題であったろうと推測できる。

 

これが敷地買収難の真相であるかどうかは分かりませんし、これらの現象に井島茂作が実際関係していたかどうかも分かりません。が、後に伊勢電気鉄道㈱のカリスマ総帥・熊澤一衛が大阪資本である「他所者」参宮急行電鉄(現・近畿日本鉄道)による伊勢神宮乗り入れを強硬に阻止しようとしたのと同様に、この四日市市内への鉄道敷設に対しても地元意識というか、それぞれの関係者人物に何らかの意志が働いた可能性はあるような気はします。

 

無責任だけど、想像するだけならいいですよね(笑)。

 

 

さて、話を戻そうかな(何の話だったっけ?)。