鵜ノ森駅の情報はもっとない。

1912(大正元)年開業から現在まで109年間稼働している四日市あすなろう鉄道八王子線・内部線区間内には、廃止区間部分も含め短期間のみ存在していた、いわゆる「幻の駅」が多く存在する。前回紹介した「南浜田駅もその一つ。が、この駅は開業初年から1944(昭和19)年までの約32年間も存在しており、期間としてはまだまだ長い方の部類の駅で、幻とまでは言い難いかもしれない。水害で廃線となり「忘れられた八王子線区間中でもなお忘れ去られている「西日野駅「室山駅」の中間に存在した「清水橋」駅ですら、実は38年間(1931(昭和6)年~1969(昭和44)年)もの長期間存在している。(※ただし1940(昭和15)年あたりから休止状態であったらしく、実際営業的に稼働していたのは9年間ほどのようだ)

短命だった駅を存在期間の短い順にランキング付けすると、

①「市役所前」 1915(大正4)~1917(大正6)年 約2年間

②「伊藤製糸場前」 1912(大正元)~1915(大正4)年 約3年間

③「鵜ノ森」 1913(大正2)~1917(大正6)年 約4年間

④「四郷役場前」 1912(大正元)~1917(大正6)年 約5年間

⑤「四日市市」 1915(大正4)~1928(昭和3)年 約13年間

となる。2位の「伊藤製糸場前駅」はその立地条件からしても軌道敷設工事用の駅という意味合いが強く、この短命さはある意味仕方ないと言えるが、四日市鉄道㈱との合同駅であり院線四日市駅との連絡駅でもあったはずの大ターミナル駅四日市市駅」がわずか13年間の稼働という短命さは、当時の四日市市街中心部の急激な発展と変貌ぶりを象徴しているように見て取れる。

この上位5つの駅中でも、その短命さと情報の少なさで群を抜くのが①「市役所前」と③「鵜ノ森」の2駅で、あまりの期間の短さに当時作成された地図への反映表記もされない状態で、唯一駅の位置を知る手掛かりといえば、当時のことを知る先人からの伝聞もしくは『官報』などで記された各駅区間の距離のみ、という有様。もしこれらの駅のことが詳しく書かれている史料をご存知ならぜひ教えていただきたいくらいです。

さて、ようやく本題(笑)。タイトルの「鵜ノ森」駅は一体どの辺りにあったのだろう。

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1920(大正9)年頃の四日市地図。右端が四日市駅四日市~諏訪前間のすぐ北側を諏訪新道が東西に走る。軌道両側はまだ田園地帯が広がっている。中央は四日市鉄道㈱諏訪駅

1916(大正5)年12月、軽便鉄道「三重鉄道㈱」として開業した際の『官報』通運欄に各駅間の距離が掲載されているのでそこから抜き取る。

軽便鉄道運輸開始 三重県四日市市濱田四千七十番地所在三重鉄道株式会社ニ對シ本月一日運輸営業開始ヲ許可セシニ同日ヨリ営業開始ノ旨届出タリ其哩程左ノ如シ(鉄道院) 四日市市市役所前間 O哩二分 市役所前諏訪前間 O哩三分 諏訪前鵜ノ森間 O哩三分 鵜ノ森南浜田間 O哩三分 …(中略)…」(『官報』1916年12月8日 P.210より)

前後駅の「諏訪前」「南浜田」駅間が同じ〇哩三分(約482m)でちょうど中間にあたる位置にあったようで、上地図でも両駅の中間付近、軌道の西側に神社の鳥居のマークが見える。これが現在も近鉄四日市駅の南西方向に鎮座する「鵜ノ森神社」で、この神社に伸びる細い道路と軌道との交差部、軌道の北西側に駅があったと推測する。北西側とする明確な根拠はない(笑)が、地図上北西側に何やら小さい建物のような黒い点が見えるため駅舎の痕跡かと想像したからだ。地図を見ても分かる通り、田園地帯を走る四日市市~諏訪前間以上に広々とした農地の中を走っており、また近隣にめぼしい民家も見当たらない。利用する旅客がいるとも思えないこの駅を4年間も停車駅として稼働させていた方がむしろ驚きだ。

「市役所前」駅に関しては、想像するに1916(大正5)年3月、四日市鉄道㈱が諏訪~四日市市駅間(〇.六哩)を開業させたことで、鉄道2社が同区間を並行して運行することになった。三重軌道㈱(※当時)は単独での開業時、旅客の利便性を考え「市役所前」という路線バスみたいな短距離区間(笑)で中間駅を設定したのだが、この駅が実際はさほど当時の市役所に近い立地ではなかった(利用者が見込めない)うえ、この駅への停車が諏訪駅まで直通で運行する四日市鉄道㈱との見た目のスピード競争で明らかに敗北する形となったため、わずか2年間という短期間での廃止につながったのだろうと考えている。

いずれにせよ、これら短命の「幻の駅に関しては、情報が少なすぎて語れる内容が少なすぎる(ではなぜ話題に取り上げたのか(笑))、でも知りたい。詳しい情報をお持ちの方、またはそういう情報を知っている方はぜひご教示いただきたいと思います。たいじゅ 05/03

南浜田駅の情報はない。

令和3年現在、四日市駅から延びる四日市あすなろう鉄道四日市~内部間を走る「内部線」と途中の日永駅から分岐する一駅区間だけ(日永~西日野間)の八王子線とに分類されている。が、以前から何度も紹介しているように、かつては先に開業していた八王子線の方が本線扱いであり、「内部線」は日永駅からの支線扱いだった。ということで今回は、かつて八王子線に属しており、諏訪~赤堀駅間にあった「南浜田駅に関して書こうと思う。

…と偉そうに書いたはいいが、実は南浜田駅に関する詳しい情報というのがなかなか見つからない。とりあえず分かっていることを羅列することとする。

四日市から三重郡四郷村を鉄道で結ぶため設立された三重軌道㈱が1912(大正元)年8月に日永~八王子村間を開業させた2か月後の10月6日、日永駅からさらに延長して終着駅となったのが「南浜田駅であった。

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1920(大正9)年頃の南浜田駅周辺の地図。赤堀駅~南浜田駅付近まで線路に沿って走っている道は東海道。この頃はまだ四日市鉄道㈱の諏訪駅と三重鉄道㈱の諏訪前駅が分離している


当時の駅の施設・規模などを示した史料を未だ見つけることが出来ず詳細は不明だが、この当時の終着駅であった以上、軌道の末端には蒸気機関車の方向を変える「転車台」及び付随客車の前方に回り込むための「機回し線」が存在していたであろう、という推測は立つ。ただ、それまでの終着駅であった日永駅には「転車台があった」という証言がある(※『三重の軽便鉄道-廃線の痕跡調査-』より)ことから、もしかすると「先に日永駅で機関車を回転させておき、終点南浜田駅まではバック運転で向かう」という変則の運行方法が万が一にも考えられるが、まずその可能性は低いと判断する。つまり開業当初の南浜田駅の構造は、機回し線と末端に転車台を備えた伊勢八王子駅のような構造をしていたと考えられ、地図での立地条件を考慮すると軌道の南側、つまり東海道沿いに駅舎を持つ構造(上地図参照)のそれなりに大きな規模のものだったと思われる。ただ、もちろん三重軌道㈱としては当初から院線(国鉄、現JR)四日市駅への連絡を目指していたため、末端とはいえ既にその先には軌道を延長した状態で作られていたであろうし、いずれは中間駅となる予定のため駅舎も伊勢八王子駅ほどに本格的な建物は設けていなかったのではないかと想像する。実際、日永~南浜田駅間開通の7か月後の1913(大正2)年5月16日には南浜田~諏訪前間、さらに1915(大正4)年12月25日には四日市~八王子村間が全線開通し終着駅としての南浜田駅の役割は終了している。ちなみに、国立公文書館蔵の鉄道省文書「三重鉄道㈱」」内に、1916(大正5)年12月2日付「南浜田・東日野両停車場設備省略の件」という文書の項目がある。文書の内容は不明だが、想像するに南浜田駅に当初より設置していた転車台や駅舎待合室、機回し線その他設備が四日市駅間の全線開通により不要になったが、開業当初からやれ災害だ訴訟だと苦難続きで資金不足のため撤去費用が捻出できず、この時期までずれ込んだのではないだろうか(ただ、転車台設備のみに関してはその後の諏訪前駅・四日市駅など新終着駅開業の際にもろもろ移設し再利用した可能性はある)。根拠はないが、想像するだけなら自由だし楽しいので良いであろう。これもまたいずれ直接閲覧の必要を感じさせる一史料といえる。

それはともかく、先述した鉄道省文書「三重鉄道㈱」」内の以降の南浜田駅に関する項目を羅列する。※なお「…停車場その他…」と表記する項目も多いため、その中に南浜田駅も入っている可能性が高いが、その詳細を判別不能のためそれらは除外する。

 

1922(大正11)年5月4日付「東日野停車場及南浜田停留場待合所建築届の件」

1925(大正14)年9月9日付「南浜田・泊両駅停留場を停車場に変更の件」

1933(昭和8)年4月14日付「南浜田・南日永両停車場を停留場に変更の件」

1940(昭和15)年12月20日付「南浜田停留場を停車場に変更の件」

 

以上のように、1916年(大正5)年12月の設備省略の届出以降、停留場になったり停車場に戻ったりを繰り返している。特筆は1922(大正11)年5月付「待合所建築届」の件で、終着駅であった当初は折り返し駅であることからさすがに小さな待合室くらいは存在していたのではないかと思われるが、当時の駅周辺には隣の赤堀駅ほどに人家もなかった(上地図参照)ためか不必要と判断し撤去した(そのためか、いつの間にか当初「停車場」であったはずが「停留場」に変更されている)のかもしれない。が、四日市駅まで全通したことで利用する沿線旅客が増加し始め、結局再度建築する羽目になった(笑)のではないだろうか。これまた想像。

最終的に、大東亜戦争末期の1943(昭和18)年の諏訪~内部間の600V電化区間内の駅にもかかわらず、戦時対応の路線輸送力強化・スピードアップのためだろうか、南浜田駅は翌年11月1日に廃止され駅としての役割を終える。しかし、一時的とはいえ終着駅としての役割を担った南浜田駅は、その必要性のため他駅よりやや広い敷地を確保していたことが功を奏し、戦後の1959(昭和34)年8月に輸送力アップのための行き違い設備「南浜田信号所」と形を変えて復活を果たすことになる(1986(昭和61)年8月に廃止)。これは既に市街地化しており敷地的に余裕のない日永駅以北の四日市市中心部においてまさに幸運というほかない。

これまで四日市市史』含め、多くの参考史料や情報に自分なりに目を通してきたが、より早くに消え去ったはずの三重鉄道㈱四日市鉄道㈱合同駅舎の史料は多く残されているのに対し、戦時末期まで存命中だった南浜田駅の写真や駅の様子を描いたスケッチなどが掲載されている史料には不思議とまだお目にかかれてはいない。戦争中、しかも翌年(1944年)6月の四日市空襲前に廃止されたためだろうか、残されていたかもしれない南浜田駅の写真は焼失し、沿線の住民の記憶の中からも忌まわしい戦争の記憶と共に消え去ったのかもしれない。でも、今ならまだ、もしかしたら誰かの持っている古いアルバムの中に、あるいはご存命中の方の記憶の片隅に、ありし日の南浜田駅の姿が残っているかもしれない。もしそういう情報が載っている史料をご存知の方がおられたら、是非教えていただきたいと思う。一日遅れました。以上 04/26

室山駅の変遷が知りたい。

以前2月のブログで、四郷村・室山周辺に広がる製絲・製茶・メリヤス工場へ出入荷する製品や燃料などの貨物運搬用に「室山驛には駅構内に旅客用とは別に貨物用引き込み線が設置されていた」という記事を書いた。これらは以前紹介した四郷郷土資料館に展示されている旧室山驛の様子を図示した史料(下写真参照)や、三重県立博物館(H23.3.30)発行の『三重の軽便鉄道廃線の痕跡調査ー』P.50内で現地住民の証言としても示されている。

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四郷郷土資料館の「旧室山驛」展示資料(右上の方角はたいじゅによる後付け)

その後、現在も多くの鉄道ファンの写真にも残され西日野駅前に建てられている看板の写真にもあるような廃線直前まで稼働していた片面ホームの小さな室山駅に「縮小」…というか建て替えられるわけだが。(※室山駅の駅舎建物自体は、廃線時期以降もそのまま残っていたということなので、「移築」の方が正しい…のか?)

さて、大正初期に完成したこの行き違いもできる大きな初代の「旧室山驛」は、いったいいつ頃に廃止されたのであろうか。少なくとも、僕がこれまで調べた小学生の自由研究レベル(笑)の調査研究の範囲では、旧室山驛・引き込み線廃止時期及び新しい室山駅の移築時期の特定が出来る正確な史料や情報といったものは現時点では見つかっていない(見つけられていない)。

とりあえず、引き込み線廃止時期の単純な考察としては、当路線の貨物運搬の需要、というか必要性がなくなった時期を引き込み線廃止の時期として考えるのが自然と考える。院線(国鉄・現JR)四日市駅(四日市市)~伊勢八王子駅を開業していた三重軌道㈱(※1916(大正5)年以降は三重鉄道㈱)は、貨物駅としての機能も併せ持っていた三重軌道㈱四日市鉄道㈱合同四日市駅の他、直接四日市港への貨物運搬を行うためであろう、合同四日市駅の手前から分岐・カーブして院線四日市駅南方を流れる阿瀬知(あぜち)川沿いに向けて貨物用引き込み線も同時に敷設されていた(下地図参照)。実際、1918(大正7)年には旧室山驛構内で貨車と

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大正11(1922)年四日市市市街図の一部。合同駅の直前で右にカーブし阿瀬知川方面に伸びる引き込み線が確認できる。すぐ横には南から伸びてくる伊勢電気鉄道㈱のものらしき線路も見えるが、津~四日市間の開業は1924(大正13)年のはずだが…?工事中だったのだろうか


客車が衝突する事故が発生しており(伊勢新聞1月13日付記事「三重軽鉄の衝突」より)、少なくとも旧室山驛の貨物線・貨物駅としての機能は稼働していたようである。が、これら引き込み線の敷地も1927(昭和2)年の三重鉄道㈱四日市鉄道㈱四日市市諏訪駅間の廃止、翌年の伊勢電気鉄道㈱による桑名~津市間の全通開業(泗桑線)区間に取り込まれたと思われる。よって、貨物線としての機能・効力を失ったこの1927(昭和2)年以降に旧室山驛の貨物引き込み線廃止、駅の改築(移築)が行われたと考えられる。

それを前提に、この年以降の国立公文書館蔵の三重鉄道㈱関連の鉄道省文書』の項目をチェックしていくと

「室山駅他四停車場設備変更の件」昭和7(1932)年3月2日付

というタイトルの文書にたどり着く。以前話した通り、国立公文書館での直接の文書閲覧をしなければ文書の詳細な内容を確認することはできないため確証はないが、おそらくこの年が「旧室山驛の貨物引き込み線撤去」の時期ではないかと推測する。そして、ここからは(またも)あくまで個人的な想像ではあるが、この時点では「旧室山驛の駅舎・及び旅客用プラットホームは現役のまま」であったろうと思う。撤去したのは貨物用引き込み線の軌条・施設・分岐器といった設備のみであり、最終的な片面ホームの小さな室山駅に移築されたのは八王子線全線電化の1948(昭和23)年ではなかったろうか」というのが僕の推測だ。全線の電化工事と西日野駅も含んだ駅などの施設移築に関しての推測に関しては、2月24日付ブログ「西日野駅も、移動する?」で書いているので、そちらを参照していただくと助かります。ただ、以前にも同じことを書きましたが、もし僕のこの推測が正しければ、室山駅も含めこれらの移設工事に関して記憶をお持ちの存命者(かなり高齢であるとは思いますが)の方が多少なりともおられるはずなので、それらの証言が史料・文献に出てくるはずなのですが、今のところほとんど出てきません。やはり僕の推測が的外れだからかもしれません…。いずれにせよ、この問題も含めた多くの謎に関しては、国立公文書館にて文書閲覧が叶えばある程度の疑問が解決されるであろうことが望めるので、早く実現の機会を持ちたいものです。…そろそろ、再度『伊勢新聞』の記事を閲覧しに行かねば。話題が(笑)。 以上 04/18

四日市商業会議所と伊藤小左衛門。

珍しく鉄道に関係のないタイトルの話題を書きましたが、これも実はちょっとだけ八王子線の設立経緯に関係しているお話です。

日本でも有数の貿易港として商工業が発達し隆盛を誇った明治~大正期の四日市港を持つ四日市市でも、他の地域同様早くから地元の実業家らによってそういった地域商工団体の前身が複数発足・設立している。最終的に現在も四日市市に存在する四日市商工会議所」の前身は、1889(明治22)年四日市の経済人の親睦組織だった「十二日会」で、その後1893(明治26)年5月に四日市商業会議所」として発足したものということだ。目的はもちろん四日市市内の商工業の永続発展を目指すものであるが、その頃には既に三重郡・四郷地区で伊藤小左衛門や伊藤傳七らが製絲・製茶、醸造・紡績業などの工業を発展させており、四日市商業会議所」としてもこの地区の存在は無視できなかったのであろう、四日市市に属しない(三重郡)にもかかわらず「四郷村」としてこの地区を商工団体に所属させており、伊藤小左衛門・伊藤傳七の他酒造業の笹野長吉・川島傳左衛門、瓦商の小林庄平ら5名が名を連ねている(四日市商工会議所百年史』より)。四郷村側からしても、取引先などと緊密に連絡を取るために電信局を持つ四日市と良好な関係を維持することは必要であったと思われる。

ところが、明治も後半に入ると四日市市三重郡四郷村の関係にも変化が生じ始める。1906(明治39)年伊藤小左衛門や伊藤傳七の弟など地元の有志により「四郷商工会」が設立、その3年後の1909(明治42)年四日市商業会議所」から脱退し、独自の路線を歩み始める。前出四日市商工会議所百年史』P.237「明治四二年四郷村の会議所地区からの脱退」の項に、

「…(中略)…村内有権者の経費負担問題からの独立機運が生まれ…」

という一文がある。「経費負担」が何を表しているのか不明だが、おそらく団体所属議員が団体に支払う会費(のようなもの)であろう。その金額がどういった基準で選定されていたのかは興味はないが、少なくとも1898(明治31)年の同会議所の所属議員名簿内の租税負担額を見ると、1位は九鬼紋七ながら3位に伊藤傳七、4位伊藤小左衛門、6位に笹野長吉と、わずか数名しか所属していない四郷村に籍を置く豪商がトップ10内に3人も入っている。租税額と会議所の運営とは直接関係はないだろうが、四日市市在住の商工業者百数十人が所属している中で四郷村の数名が当会議所、はては市内の産業界に対しただならぬ貢献をしていることは間違いない。これは僕の個人的な想像ではあるが、四日市市の商工業発展」を目指す四日市商業会議所」の活動はあくまでも「市内」に利するものであり、遠く離れた四郷地区にはその「利」が直結するものではなかったのであろう。その不公平感・不満が「四郷商工会」設立、そして最終的に「団体からの脱退」という形で現れたのではないだろうか。

※参考「時代に乗りインフラ整備-四郷地区商工会設立」(三重県県史編纂班)

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=275

 「四郷商工会」は、四日市商業会議所」にも所属していた3年の間に四郷地区室山に電信局を設置する運動や鉄道(三重軌道㈱)敷設運動などを行っている。特に地元・室山への電信局設置が取引先企業との連絡や商売に必須だったことから「四郷商工会」にとっての悲願だったのであろう、この電信局設置運動が成就した前後にもはや「メリットなし」と判断したのか、四日市商業会議所」(所属地区)を脱退している。伊藤小左衛門はこの際「四郷商工会」の代表として、四日市商業会議所」宛に書面を提出している(※末尾資料参考)。もちろん脱退したからといって完全に関係を断絶したわけではなく、別々の商工団体として対等な関係で交流していたであろうと思われる。ただ、この後次々訪れる金融恐慌など不況の波は、地元産業の衰退とともに小さな村の商工団体の目的と意義を失わせていくことになる。八王子線は、そういったかつての地元商工団体の落とし子のひとつと言っても良いのかもしれない。以上 04/11

 

※参考資料 四日市商工会議所百年史』P.239より

「禀請書

 三重県三重郡四郷村ヲ四日市商業会議所ヨリ削除ノ件

理由 明治二十六年四日市商業会議所ノ創立ニ際シ本村モ亦其地区内ニ編入セラレタリ爾来本村ノ商工業漸次変遷シ四日市市トノ関係昔日ト異リ今ヤ本村商工業ノ為メ独立機関ヲ要スルニ至リシニ由ル 本村ハ本村商工業ノ希望ニ有之候就而ハ特別ノ御詮議ニヨリ御採択相成度並ニ貴会議所有権者連署ヲ以テ及禀請候也 

明治四十二年十月九日 三重郡四郷村大字室山 伊藤小左衛門 外二十五名連署

 四日市商業会議所会頭 九鬼紋七殿」

 

 

 

 

大正3年三重軌道㈱が起こした事件ともう一つの「赤堀駅」

今回の話題も、以前紹介した三重県立図書館蔵の伊勢新聞 四日市関係記事索引』から興味を引いた記事見出しから抽出した伊勢新聞記事を閲覧してきました。

『汽車に焼れた損害』大正3.5.4

『家を焼れた損害/軽鉄機関車のために』大正3.5.6

『損害賠償の示談』大正3.6.9

この3つの記事見出しだけで、何となくおおよその内容が分かってしまう気もする(笑)が、これはこれで記事を一つずつきちんと読んでいくと面白い発見があるのでその辺を期待しながらお付き合いいただければと思います。最初の記事は数行のみの記事で、その内容が2番目の記事と重複しているので2番目の記事全文から(※文そのまま、漢字は多少変更してます)。

 

●『家を焼れた損害/軽鉄機関車のために』(大正3.5.6)

三重郡常盤村大字赤堀〇〇政七は四日市字新町三重軌道株式会社代表者取締役九鬼紋七氏を相手取り金一千圓損害賠償請求の訴訟を五日安濃津地方裁判所民事部へ提出したるが其理由を聞くに元来原告政七は青物乾物商を生業とする者なるが其住居は東方は東海道に面し西方は軌道会社の経営する諏訪駅より八王寺(※子の間違い)に通ずる軌道線路中赤堀北驛と赤堀南驛との約中間に沿ひ間口四間奥行五間屋根続葦葺庇東南方一間西北方三尺瓦葺平屋建なるか然るに大正三年四月十七日午後二時三十分諏訪駅より八王寺に至る客車にして如上赤堀北驛より赤堀南驛を通行の際機関車の烟突より夥(おびただし)く火粉を吐出し折柄西風激しく人々も危険を懐(いだ)き居りし刹那該火粉は政七方建物の西方濱葦葺屋根の上に降下し燃上り遂に同家を全焼せしめたるより之が為め生じたる訴訟なりと」(※姓名は一応伏せてあります)

 

要約すれば、大正3年4月17日午後2時30分発八王子行列車の機関車が吐き出した煙と一緒に舞い上がった火の粉が飛来し発火したのが原因で原告の自宅が全焼させられたので三重軌道㈱に対し千円の損害賠償請求訴訟を起こした、といった感じでしょうか。

一度でも内部・八王子線に乗車したことがある方はご存知かと思いますが、昔からの街道(東海道)沿いを走るこの路線は現在でも四日市~日永間、特に赤堀駅周辺に線路と周辺民家との間隔が極端に狭い部分が存在しています。今でこそ(おそらく意識して)線路沿いに道路を作る等の対策を取ることでその間隔は広くなってはいるようですが、戦前及び昭和30~40年代までくらいは諏訪駅近辺も含め現在以上にその間隔は狭かったろうと推測されます。そんな状況下、ミニサイズとはいえ蒸気機関車なんて走らそうもんなら煤煙の影響、ましてや火災の危険など誰でも容易に想像できるはずです。しかも、偶然にもこの事故の1ケ月前、同じ伊勢新聞『寒梅列車と煙火』(3月8日)という記事で三重軌道㈱「沿線の岡山・地蔵谷の梅林が満開なので割引乗車券を発売するとともに余興として3月8日諏訪停車場付近と岡山梅林丘上で煙火を放揚する」とし、煙火吐出イベントで盛り上げようとしています。つまり普段は煙火放揚を極力抑えていたわけで、その時大丈夫だったから…とこの余興で味を占めた(笑)可能性も否定できません。でもまあそんな事には関係なく会社側もそれなりの注意は払っていたであろうけれども、排煙を最低限に抑えることはできても100%無くすことは無理なわけですから、結局はいずれ起こるトラブルではあったとは言えるのかもしれません。

とにかく、訴えられた三重軌道㈱側と原告との折衝が行われた結果、約一か月後に示談により解決します。その記事全文(※前回と同様)。

●『損害賠償の示談』(大正3.6.9)

四日市三重軌道会社の為めに家屋を焼失せられたる三重郡常盤村〇〇政七より同社に対する金一千圓損害賠償請求事件は安濃津地方裁判所にて審理中なりしが此程両方間示談纏まり訴訟の取下をなしたり」

示談の正確な内容に関しては書かれてはいないが、訴訟提起からわずか一か月での示談スピード解決ということで三重軌道㈱側もそれなりに誠実な対応をしたのではないかと想像されます。まだ生まれたばかりの鉄道会社です、利用者や近隣・沿線住民とは良好な関係を築かないといけませんからね、正しい判断だと思います。めでたしめでたし。

それはそれとしてどうでもよくて(笑)、それよりも僕が気になっているのは最初に紹介した記事『家を焼れた損害/軽鉄機関車のために』(大正3.5.6)中の一文、

「…(中略)…に通ずる軌道線路中赤堀北驛と赤堀南驛との約中間に沿ひ…(中略)…」

「赤堀北驛」「赤堀南驛」という記述です!…え、「赤堀」に北駅と南駅があったんですか?そんな話聞いたことがないんですけど!八王子線の赤堀駅周辺の線路方角は北から南に走っており、仮に過去の赤堀駅が単線を挟む形の対面式駅舎(ホームが二つ)であったとしても、その呼び名は「東駅」「西駅」になるはず。つまりこの「北駅」「南駅」という呼称は現存する「赤堀」駅の日永駅側、もしくは大正3年当時まだ存在していた南浜田駅側にもう一つ未知の駅が存在していた(※上り方面と下り方面で乗り場ホーム及び駅舎の位置が違う可能性も含む)ことを意味しているのです!…こんなこと、本当のことなのでしょうか!むしろ、いっそ南浜田駅のことを新聞側が勘違いして「赤堀北駅」と記述してしまったという顛末の方がこちらとしては助かるのだが(笑)。偶然とはいえ気づいてしまった以上は調査せねばなるまい。この幻の「第2の赤堀駅」の存在情報が掘り出される可能性は限りなく低いと思われるが、引き続き調査していこうと思うのでありました。次々謎が出てくるなあ。面白い。以上 04/04

 

『四日市市史』より。「諏訪駅にサービス嬢登場」

四日市市史』第12巻P.905に、1938(昭和13)年の諏訪駅の新サービスを紹介する記述がある。主題は「五七〇 諏訪駅にサービス嬢登場」で、昭和13年11月13日伊勢新聞記事からの抜粋のようだ。

「湯の山はお乗替へ願ひます 参急諏訪駅に優しいサービス嬢

関西急行が開通してから関急・参急を利用して北勢の仙境湯の山へ杖を曳く名古屋方面からのハイカー、遊湯客はグッと激増これに伴って三重鉄道との連絡乗換駅である諏訪駅は俄然乗降客・乗降客が増加し出したので参急では諏訪駅の重要駅としての総ての設備を拡充、サーヴィス陣を強化する計画を樹ててゐるが先づ優しいサーヴィスとして麗人サーヴィスのヒットを放つこととなり、十日からサーヴィス案内家城〇〇〇さん、改札係中村〇〇さん、浜口〇〇〇さんの三嬢を配置した 案内ガールは電車の発着毎に優しい声で「湯の山行きの方はお乗換へ」「宮妻峡はこちらでお乗換へ」と声のサーヴィス陣を張るもので、制服姿も颯爽と登場したサーヴィス嬢は「まだ馴れませんので」と一寸はにかんでゐる」(全文、※一応名前は伏せております)

1938(昭和13)年6月、大阪電気鉄道㈱(大軌)の子会社であった関西急行電鉄㈱名古屋駅地下に新設した関急名古屋駅(現在の近鉄名古屋駅)~桑名間を開通させたことで、3つの鉄道会社(関急・参急・大軌)接続ながらも大阪~名古屋間の電車連絡が実現することとなった。これに伴ってか、観光・湯治目的等の連絡駅であった諏訪駅は乗降客で賑わうようになったため、現在でいう車内アナウンスの代わりに(おそらく)駅ホーム上で乗客に乗換案内を伝えるサービス嬢を配置した、ということらしい。多くの乗降客で混み合うホーム上での声の通りやすい女性による発声や、乗客に対するきめ細かい接客サービスという観点での女性起用という理由であろうが、既に日中戦争が始まり戦時色が濃くなる世情での(男性の)人材不足、というのも一因かもしれない。

…ちなみに、この記事の1938(昭和13)年当時の諏訪駅は以前紹介した東海道筋に建っていた2代目の諏訪駅で、開業当時は伊勢電気鉄道㈱諏訪駅だったが、1936(昭和11)年9月に経営破綻で参宮急行電鉄㈱に吸収合併され上記記事の時は「参急諏訪駅となっている。乗り換えには隣の三重鉄道㈱湯の山線・八王子・内部線ホームへの移動を要した(写真参照)。

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さらには、記事文中の宮妻狭へはサーヴィス嬢の乗換案内の内容から湯の山温泉からも行くことは出来たと推測されるが、当時は四日市~水沢及び椿神社(鈴鹿市)間を走る「水沢バス」(水沢自動車商会/営業主・豊田末吉氏)が運行されており、それに乗って宮妻峡入口近くまで行くことが出来たと思われる。ただ、この当時宮妻口というバス停があったかどうかまでは定かではないが…。(㊟:現在は三重交通水沢(室山・笹川)線という路線で現存し、終点宮妻口バス停がある。偶然にもこの記事の直前に三重鉄道㈱がこの水沢バス会社を買収・合併している)

その仕事の内容や当時の世間の扱いがどうであれ、このサーヴィス嬢の存在は今後の女性の社会進出という観点から見れば非常に有意義なことであったろうと考えて良い。しかし、この3年後の1941(昭和16)年には大東亜戦争が開始、世間は完全に戦時色となり四日市周辺は急激に軍都化の様相を呈していく。鉄道もその役割を旅客運搬から戦時物資・兵員輸送へと大きく変化することで、悠長に観光だ湯治だなどと言っていられなくなった。この諏訪駅の案内サーヴィス嬢がいつ頃まで存在していたのかを示す史料は今のところ見つかっていないが、当然のことながら少なくとも開戦前には消えていたのではなかろうかと思う。わずか2~3年の短い期間であったことになる。

1913(大正2)年の三重軌道㈱諏訪前駅の開業からわずか30年足らずにもかかわらず、この諏訪~四日市駅周辺の鉄道を巡っての環境の劇的な変化は当時の人でなくても驚かされる。「話題に事欠かない」というやつですね(笑)。これからも面白い話題が出てきた際にはまた書き連ねたいなと思う。今回も内容が薄いな(汗)。以上 03/28

 

三重軌道㈱発起人・伊藤小左衛門。

1910(明治43)年10月19日、「三重軌道㈱」が四日市~室山・伊勢八王子間を結ぶ軌道敷設特許を下付されたことは以前の記事で触れた。同年12月28日、同会社は正式に設立され(設立登記日は翌年1月9日(※『官報』1月16日掲載)、その取締役筆頭(社長)は発起人の一人、伊藤小左衛門であった。

明治・大正期の四日市室山の豪商・伊藤小左衛門に関してはまだ詳しい紹介をしていないので後日また改めてまとめるとして、とりあえず上記の記事で登場している「小左衛門」は数えて7代目に当たる人物で幼名を「昌太郎(まさたろう)」といった。しかも父親であった先代6世小左衛門が3ケ月前に死去したため、昌太郎が「7世小左衛門」を襲名した直後の時期であった。この三重軌道㈱の設立の経緯は、1月18日掲載の記事「全ての始まりは…」内でも書いたように三重軌道㈱の元となる四日市~室山間の鉄道敷設運動は少なくとも1908(明治41)年頃には具体的な運動が始まっていたと考えられる。この頃はまだ先代の6世小左衛門(運久)は健在であったと思われ、昌太郎は病床に伏した父親に代わり途中から運動に参加したと考えられる。…つまり、三重軌道㈱の発起人として名を連ねその運動を推進したのは「6世小左衛門」であり、社長となった「7世小左衛門(昌太郎)」はそれほどの積極性はなかったのではないか、という推測が生まれてくる。だってそうだろう、本人の意思の有無にかかわらず世襲することによって肩書が自動的に付きまとってくるわけだから仕方ないではないか。事実、途中から参加したためか、もともとそういう約束だったのかは不明だが、設立後2年と経たずに取締役筆頭(社長(筆者注4/4:設立当初から代表取締役四日市の実業家・九鬼紋七氏であったらしい。まだ正式には未確認だが…確認次第修正いたします、申し訳ありません))を他者に譲っており三重軌道㈱の経営からは距離を置いた形となっている(一取締役としては留任)。もっとも昌太郎自身、将来の伊藤5事業部総長であり家業の味噌・醤油醸造等の発酵学に長けてはいるが、鉄道経営に関して全くの素人であった当人にとって三重軌道㈱からの離脱?は既定路線であったのかもしれない。

前回の記事で、現代のスマートフォン・パソコン等での安易な情報収集の「手軽さ」と「信憑性の低さ」という長短所の話をしたが、今回のテーマでも同様の警鐘を伝えざるをえない。「Wikipedia」にて四日市の「伊藤小左衛門(5世)」(※普通に伊藤小左衛門と検索すると福岡の同姓同名の検索結果が出てくる)を検索すると、随所に間違った記述が見受けられる。息子である6世小左衛門(運久)の経歴も混同されて記述されているためで非常に混乱する記述となっている。江戸、明治、大正を生きた「3人の小左衛門」を、その生き方と共にきちんと分けて紹介してほしいものだ。できれば、次回以降は余裕を見つけてそのあたりも書き加えていきたいなと思う。まだまだ研究途中ではあるが。以上 03/21