現在四日市市内を走る「四日市あすなろう鉄道八王子線」の日永~西日野間は、同鉄道の起源となる「三重軌道株式会社」が明治43(1909)年10月18日付四日市~四郷村間の「軌道敷設特許」下付を受け、2年後の大正元(1911)年8月15日に日永~八王子(※後の伊勢八王子駅)間を開業。当初から天白川北岸よりやや離れた内陸部を通る現在の線路位置で約115年間ほぼ場所を変えることなく現在も運行を続ける唯一の区間である(※注:正確には同年10月日永~南浜田区間も同様だが、同区間は現在「内部線」内に取り込まれているためここでは除外する)。
同区間は開業当初より「専用線路」、つまり「道路」と「線路」を完全分離した現在の一般的な鉄道線と同仕様で建設されたものだが、実は明治43年の敷設特許下付時点での最初期計画段階では日永~西日野間も以西の西日野~八王子間と同様、天白川北岸いわゆる「水澤街道」上に軌道(線路)を走らせる計画であったことが分かっている。これを証明するのは、過去に何度も紹介している大宮鉄道博物館所蔵『鉄道省文書 三重軌道会社 自明治四十三年至大正六年』内の「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採択ノ理由」という文書で、同書中第十項の部分に明記されている。そこには、

「十 自三重郡日永村大字日永字天白4411番地先 至同郡四郷村大字室山字八反田603番地先 理由 この里道は天白川に沿いたる堤塘(※ていとう、堤防の事)にして其の高さ15尺以上あり、また・・・(中略)」(※下画像、赤線囲み部参照)

とあり、日永から室山八反田(※後の伊勢八王子駅付近)までの区間全てを「里道使用」(※既存道路、ここでは水澤街道のことを指す)する計画とされていたのだ。が、その翌年「遺憾ながら再調査をなさしむるの必要を生じ」(※『同』書内明治44年4月「工事認可願書提出延期願」より)たため、津市に事務所を構える鉄道技師・神田喜平氏を招聘し改めて敷設計画の再測量を実施。その結果、日永~八王子区間の水澤街道上への軌道敷設計画のうち日永~西日野間が敷設不可能なことが判明する(※軌道敷設に必要な最低道幅確保が困難なため)。再測量の結果を踏まえ三重軌道㈱は明治44年5月20日付で「軽便軌道敷設線路変更許可願」を再提出、ここで初めて同区間を「専用線路」、つまり現在も運行中の内陸部を走るルートに転換することになったわけだ(※下画像、赤線囲み部参照、第三項中で諏訪~西日野間が全て「専用線路」となっている)。

「軽便…許可願」提出以降、同区間における敷設工事の様子や進捗状況を知ることのできる史料等はこれまで見つかっていなかったのだが、今回それに関係すると思われる新史料が発見されたのでそれを紹介する。
新史料は四日市市本町にある「本町プラザ」5階「旧土地台帳閲覧室」に所蔵されている『土地願届ニ関スル綴 自明治三十九年至大正元年』内に明治45年2月(日付無)付「堤塘使用願」という文書が保存されている。

同書中「使用の目的」欄には
「三重軌道株式会社軌道の沿道埋立の為、土砂運搬の軌道に要する通路を充つる為」(※画像、赤線囲み部参照)

とある。現時点でまだ文書内容の完全解読には至っていないが、文書に記載された期日から推測するにおそらく西日野~日永間及びそれ以北(~赤堀~南浜田)の「専用線路」区間の軌道敷作成(埋立)に必要な盛土採取・運搬のため、天白川南岸の日永丘陵(※現在の日永団地周辺)を起点にした『土砂運搬用の仮設軌道』敷設に伴う天白川堤塘の横断とその使用に関する申請書であろうと考えられる。「専用線路」用路盤形成のためそれに沿う形で「仮設軌道」を敷設したのだろう、三重軌道㈱が本格的に日永~八王子間の軌道敷設工事に着手するのは明治45年3月1日からであることは分かっているため、同文書記載の期日とも時期的にピッタリ符合する。
この文書で重要なのは、仮に文書通りであれば「専用線路」作成(埋立)に必要な土砂運搬のために現在の日永団地付近まで臨時の「仮設軌道」を別途敷設していた可能性が非常に高いことだ。

添付された手書きの平面図からも現在の西日野駅付近を経由して天白川を斜めに横断し日永丘陵へと向かう「仮設軌道」の様子がよく分かる。地元の方ならすぐに想像が付くかもしれないが、もしこれが事実だとすれば、現在の笹川通りから南西方向へポリテクセンター三重を経て南部丘陵公園に伸びている道路の一部は、実はこの「仮設軌道」の名残ではないかとすら思えてしまう(※地図参照)。

さらにはこの時使用された「仮設軌道」用の廃レールが、後に日永駅舎等に転用されるのではないか、という根拠のない想像(笑)まで掻き立ててくれる。さらに同書『土地願届ニ関スル綴 自明治三十九年至大正元年』内には、他にも八王子~室山間埋立に際し近隣の天白川床から土砂を採取・使用する届出書類なども残されており、三重軌道㈱開業前の工事の様子を断片的ながらうかがい知ることができる。これまでは『伊勢新聞』に掲載された関連記事以外の第三者的情報しかなかったが、今後さらなる史料調査によってはより詳細な内容が掴めるかもしれない。これは三重軌道㈱の歴史研究において第一級の新発見ではないだろうか。
・・・最後に、同史料を閲覧した者として一点だけ苦言を呈しておく。
今回発見された新史料は、現在は本町プラザ5階「旧土地台帳閲覧室」内に所蔵されているものだが、本来は一昨年(令和7年)8月まで【管轄地区内の土地情報】という括りで四郷地区市民センター内にて保管されていた史料群だったそうだ。つまり部外者である自分にとっては今回の新発見はほとんど偶然の産物のようなもので、同史料が一昨年「旧土地台帳閲覧室」で集中管理されるような状態になっていなければ恐らく発見できなかったものだろうからだ。・・・しかしながら、それ以前でも四郷地区居住民ならば請求すればこれらを閲覧する事が可能であった(※もっとも、四郷地区住民もこのような史料が存在した事すら知らなかっただろうが…)し、さらに言えば平成初期に現在の最新版であるところの『四日市市史』が編纂された際には当時市管轄下の四郷市民センター内所蔵の同文書を編纂委員の権限(?)で確認することだって可能だったはずだ。にもかかわらず、これまでこういった史料の存在が明るみになってこなかったのは、やはり「四日市あすなろう鉄道」をただの「特殊狭軌」=「軽便鉄道」と決めつけ、本来の起源である三重軌道㈱そして以降の経緯というものに着目してこなかったこれまでの歴史観念に問題があったということに尽きるのではないだろうか。この程度の史料の発見及び啓発は、自分のような部外者でなく本来であれば在郷郷土史家や郷土資料館あたりが担うべきものではないかと思うのだが。
引き続き、調査継続をしていこうと思う。続報はまた何か月後かに(笑)。
【終わり】































