幻の「諏訪跨線橋」を検証してみる。

タイトルからして意味不明だと思う。そもそも「諏訪跨線橋とは何ぞや?…だろう。今回は、四日市鉄道㈱(※現在の近鉄湯の山線)が大正初期つまり鉄道敷設最初期に計画していたと思われる、現在の四日市市諏訪付近での三重軌道㈱(※後の三重鉄道㈱、現在の四日市あすなろう鉄道)との「立体交叉(オーバークロス)」について検証してみる。

 

当ブログでは何度も「三重軌道㈱と四日市鉄道㈱は諏訪付近で交叉する計画だった」と書いてきた。同時に、四日市鉄道㈱は「明治43(1910)年(軽便)鉄道敷設免許下付当時は諏訪付近で三重軌道㈱線路と跨線橋にて立体交叉(オーバークロス)する計画だった」とも追記していたと思う。その根拠となる鉄道省文書』を改めて提示する。下画像は国立公文書館所蔵鉄道省文書』第十門「私設鉄道及軌道 三 三重軌道・三重鉄道・元四日市鉄道 巻一 自明治四十三年至大正元年(※下画像、表紙)

鉄道省文書』表紙画像。これ以外に四日市鉄道分も含め十数冊以上保存されている

内の明治44年10月4日付「線路敷設工事施工許可願」添付の「工事方法書」第11項で、

「本鐡道起点ヨリ零哩四十二鎖六十節ニ於テ三重軌道株式会社線路ト交叉スルヲ以テ別紙第十五号図面之通リ跨線橋ヲ架設シ以テ相互運転之支障ヲ避ク而シテ其ノ構造ハ図面ノ通リ桁下拾参呎余ノ高ヲ保タシメタリ」(※下画像、赤線囲み部)

「工事方法書」全部で11条あり、その11条内で「跨線橋」の記載が見える

とあり、起点(四日市停車場)から42鎖60節(≒約857m)付近で「三重軌道㈱線路と交叉」し、別紙第15号図面の通り「跨線橋を架設し相互運転の支障を避ける」、そして「その構造は桁下拾参呎余(フィート、13フィート≒約3.96m)」と明記されている(※その後の内容変更で「施工面上拾四呎余(≒約4.26m)」に書き換えられている)。残念ながら同文書には文中にある別紙第15号(跨線橋)図面が現存していないためその形状や哩程などの詳細情報は知りえないが、三重軌道㈱との交叉点及び跨線橋高さの設定が明記されていることである程度形状の推測を立てることが出来る。これら情報含めその他「工事方法書」内に記載されている各種情報を照合し「幻の諏訪跨線橋の実態に迫ってみたい。

 

 

前出「工事方法書」の記載通り、跨線橋としての最高到達地点は「14呎(フィート)」、つまり約4.26m地点まで坂路を登り降りしなくてはならないわけだ。余談ではあるが、当時の三重軌道㈱所属車両中最大高・幅を持つのは「ボギー式客車」三重県立博物館所蔵『三重鉄道敷設関係図面』「ボギー式客車図」にてその詳細寸法を知ることが出来る(※下画像、同図一部を抜粋)。図面によれば客車の最大高は「10呎1吋(インチ)=約3.07m」とあるため跨線橋との離隔は1.20mほどの余裕があるように感じられるが、図面を見て頂いても分かる通りこの寸法には客車下に敷く線路及び枕木などの鉄道施設は加味されておらず、実際にはそれほど車両上部の余裕はなかったのではないかと推測される。

「ボギー式客車図」の一部。高さ10呎1吋、幅6呎4吋と記載がある(※赤丸部分)

それはともかく、とりあえず記述に「14呎余」とあるので跨線橋最高到達点を若干余裕を持たせた「4.30m」と定めることとし、跨線橋に至るまでの坂路形状の検証に取り掛かる(※登り、下りとも同形状・同勾配とする)。坂路線路勾配に関する記載も同じく国立公文書館所蔵されているであろう鉄道省文書』軽便鉄道法準拠の「工事方法書」に記載されていると思うが、残念ながら現在は後に差替えとなる最初の「軌道条例」での申請の際に提出した「工事方法書」しか手元に持ち合わせていないため、やむを得ずこちらにある記載の数値を引用する。その中の第3項「軌道軌条及軌間の項目中に「勾配ハ四十分ノ一ヲ以テ最急トス」(※下画像、赤線囲み部)とある。

「軌道条例」準拠の際の「工事方法書」第3項。曲線半径も最小「壱鎖」との記載がある。

この「1/40勾配」を鉄道用語のパーミルで表すと「40パーミルとなるわけだが、(※パーミルを知っている前提で進めます(笑)分からない方は各自で調べて下さい)非力なコッペル蒸気機関車軽便鉄道と考えればかなりの急勾配ではないかと思える。こんな最急勾配を諏訪跨線橋渡橋に実際使用したのかどうかは定かでないが、設置する箇所が諏訪付近という当時最も地価高騰の激しい立地条件、さらに線路東側の先には起点駅である院線四日市停車場が控えており直線距離的にもそれほど余裕がないことから、ほぼ最急かそれに近い勾配を有していた可能性が高かったのではないかと考えられる。そういった要因も踏まえ最急勾配の「1/40勾配」を基準として坂路含めた跨線橋全体の距離計算したのが以下の図である。

跨線橋の計算表(推定)。あくまでも最もコンパクトな設計であり、現実味は薄い(笑)

図解が小さくて大変申し訳ないが、簡単に言えば「最低220mの距離があれば三重軌道㈱の線路はオーバーパス出来る」という結果になっている。東側は院線四日市駅が近いとはいえこの程度の距離であれば十分架設可能な範囲だろう。無論、この数値はあくまで最小限度の話で、実際には客車や貨車を連結させ坂路を登らなければならないので跨線橋部・坂路部とももう少し余裕を持たせた設計であったことは間違いないのではないだろうか。これら数値を踏まえ、最後に三重軌道㈱との線路交叉点=起点(院線四日市駅前)から「42鎖60節(≒約857m)」を基準として「諏訪跨線橋がどの辺りに架設される予定だったのかを見ていこう。

 

四日市鉄道㈱の起点四日市市停車場」をどの位置に設定していたのかを正確に知る術は今のところないが、後に三重軌道㈱と合同駅舎を設置した院線四日市駅西側(現在のハローワーク付近)を起点として「42鎖60節(≒約857m)」マピオンキョリ測にて計測したものが下地図である。(※許可は頂いてませんがマピオン有難うございます)

起点位置設定により多少位置がズレる。実際にはやはり当時諏訪駅があった付近だろう

起点位置設定により多少誤差が出るため正確な位置とは言い難いが、後に三重・四日市両鉄道㈱により合同の「諏訪停車場」が開設される箇所とほぼ一致していることが分かるだろう。現在でいうと有馬ビル付近、店舗名だと「珈琲屋諏訪栄町焙煎所」付近、ということになるだろうか。ともかく、ここを基準点として「諏訪跨線橋がどの辺りまで出来る予定だったのかを現在の市街地上に図示したものが下画像だ。

赤丸部が三重軌道との軌道交叉(予定)点。東西に約108m伸ばした線が黄・桃色の線。

上図はあくまで三重軌道㈱との軌道交叉点から坂路水平距離(約108m)をただ直線距離で図示したに過ぎず、跨線橋部の水平距離(約3.80m)は図中では考慮していない。さらには跨線橋道中に旧国道(旧東海道)も跨っているため、実際はさらに坂路を含めた跨線橋の全体距離は長くなっていただろうと容易に想像できる。仮にそれを省いたとしても東側は現在の国道1号線上付近まで延び、西側に至っては諏訪公園西端を越えるほどの距離を必要としていることが分かる。四日市鉄道㈱が計画当初、三重軌道㈱との軌道交叉による旅客連絡の必要性を考慮しこの付近に停留場を設けようとしていたが、立体交叉の存在はその計画をほぼ無意味化するものであったといえる。三重軌道㈱との後の交渉で立体交叉から水平交叉へとその計画を変更したのもある意味当然であっただろう。

 

このように、四日市鉄道㈱「諏訪跨線橋計画は旧東海道と諏訪町内という立地条件の問題により早い段階で計画から立ち消えになってしまった、まさに「幻の跨線橋というべきものでした。現在では桑名市内に残る三岐鉄道北勢線の西桑名~馬道駅間に近鉄・JR両線を跨ぐ「関西線跨線橋というナローゲージ跨線橋が存在しますが、もしかしたら四日市市内にも同様に同じようなナローゲージ跨線橋が存在していたかも?…という時期があったかもしれないということを考えると少しワクワクしてきます(笑)。こういったどうでも良いことを真剣に考えるのは時間の無駄でもありますが、同時に本当に楽しいですね(笑)。お付き合いいただき有難うございました。

以上

三重軌道・幻の「保光苑停留場」について

大正元(1912)年から5年まで存在していた三重軌道㈱。今回は昨年7月1日付の当ブログ「『幻の四日市連合駅』成立の真実。(前編)」内でほんの少しだけ登場した三重軌道㈱初期のわずかな期間のみ存在したと思われる「保光苑停留場」について書いていく。

 

とは書いたものの、おそらくほとんどの方が「?」となる話題だろうと思う。それもそのはず、その停留場の存在に関する記述や情報等は四日市市公式の歴史書ともいえる四日市市史』には書かれていないうえ、当時の公文書史料・後年の関連書籍に登場するのも数えるほどしかないまさに「幻」と言っても過言ではない停留場なのだ。そのわずかな情報のうちの一つ、前出ブログ記事で紹介した鉄道省文書』史料を改めて提示する。

下画像は大正元(1912)年10月29日付三重軌道㈱提出「三重軌道特許線路一部変更願書」の主文。詳細の説明は省くが、諏訪付近で四日市鉄道㈱の予定線路に影響を及ぼす箇所があるが両社協議し同鉄道の承諾を得ているので別紙工事方法書及び図面の一部変更の件を至急認可してほしい、といった趣旨の内容だ。

大正元年10月29日付「三重軌道…変更願書」当時は九鬼紋七氏が両社の社長を務めている。

この願書内に別紙添付と書かれている図面は残念ながら存在しないが、「工事方法書」「理由書」は残されている。その添付内「設計変更理由書」文中で

「…一哩付近に於て四日市鉄道線に接近し並びに保光苑停留場を設け相互の連絡を…」

上記「…変更願書」添付の「設計変更理由書」。四日市鉄道との相互連絡が目的としている

と、「保光苑停留場」の名称が記載されている(※上画像、赤線囲み部)。大正元年10月頃といえば三重軌道㈱が日永~南浜田間を延伸開業、さらに四日市市街へと延伸しようと画策していた頃である。文中では同停留場の詳しい箇所(哩程)は書かれていないが、①三重・四日市両鉄道㈱線路が接近する約1哩付近とあること、➁停留場が諏訪公園の旧名である「保光苑」(※名称を変更するのは大正5年のこと)の名を冠していることから、場所的に諏訪付近であろうことは容易に想像できる。ちなみに僕個人の調べる限りでは今のところ「公文書」での同停留場名の記載があるのは唯一この文書のみだ。

 

しかしながら、実は過去に民間出版社が出版した鉄道雑誌内でもこの「保光苑停留場」の存在に言及した箇所があるレポート記事が存在している。それは昭和38(1963)年5月発行『鉄道ピクトリアル』5月号<臨時増刊>第145号・私鉄車両めぐり<第4分冊>、

『鉄道ピクトリアル』1963年5月号臨時増刊表紙。別冊として刊行、その4冊目。

P.64~73に掲載されている「三重鉄道三重線」というタイトルのレポート記事だ。執筆者は矢納重夫氏で昭和21(1946)年三重交通に入社、この当時も同社員であった(※同氏はこの前後年に同雑誌内にて三重交通神都線」「三重交通志摩線など立て続けに他の三重交通軌道線のレポート記事も掲載している)。同氏は上記の記事文中で

「大正2(1912)年5月7日、南浜田ー保光苑(後の諏訪)間が開通」

と記述しており、「保光苑停留場」が後の「諏訪」駅であると示唆する一文を残してくれている(※下画像、赤線囲み部参照)。なお、期日の5月7日は三重軌道㈱の同区間線路敷設工事竣工及び出願の期日であり、同区間の開業日を指すものではない。

「三重鉄道三重線」記事P.64(右画像)中、赤線囲み部を拡大したのが左画像。

昭和30年代というまだ明治・大正の面影が十分に残っていた時代に同停留場の存在に言及してくれた貴重な文献である。加えて同記事は当初三重・四日市両鉄道㈱の両線路が交叉する計画だったこと、四日市鉄道㈱側が当初は跨線橋を設置する予定で設計図まで作成していたことにまで言及しており、かなり信憑性の高い文献だったと思われるのだが、残念ながらそれ以外の記述部分に間違った情報が多々見受けられたため(勘違いか調査不足なのか、明治45年と大正元年の間に余分な1年の空白を作ったり(※明治45年7月30日明治天皇崩御、8月1日から大正元年となるため実は同じ1912年)、原稿からの誤植なのか日永~南浜田間開業が大正10年になっていたりしている(※実際は大正元年10月))か、記事の内容自体あまり重要視されることなく時代の渦中に葬り去られてしまったようだ。こちらも同様に現在に至るまで今のところ民間においての同停留場に関する記述も僕の知る所ではこの1か所のみである(※当雑誌に同停留場の記載がある事実をご教示いただいた盟友・U野氏に対しここで多大なる感謝の意を述べたい)。

 

僕は鉄道省文書』で両鉄道の「軌道交叉」の事実と同停留場の記述を発見して以降、「保光苑停留場=後の諏訪」だろうという仮説のもと、その証明をできる史料が残されていないかずっと探していた。そして今回もやはり、先々月にも紹介したうつべ町かど博物館にて閲覧できる鉄道省文書/三重軌道会社 自明治四三年 至る大正六年』を時間をかけて解読することで、ようやくその証明に「なり得る」史料を発見できた。ここで「なる」ではなく「なり得る」としたのは、その文書が鉄道院からの「照会通牒」であり正式な公的文書ではないからだ。そういう前提の下で以下史料を紹介する。前回(3月10日)当ブログで紹介した大正2(1913)年5月10日付「三重軌道線路一部変更並変更箇所工事施工ノ件」に対し、同年9月4日付で鉄道院が三重軌道㈱に対し5項目の照会事項を書いた通牒文だ(※下画像)。その通牒文末尾に「備考」として次の一文がある。

「諏訪停車場の連動装置については、四日市鉄道の主任技術者に■■する■■〇保光園停留場は諏訪停車場の構内となるをもって之を廃止するものと認めたり」(※■は解読不明文字、左下画像参照)

大正2年9月4日付の鉄道院照会通牒(※右画像)。赤線部を拡大・解読したのが左画像。

とある。正式な文書ではないため担当者の速記というかクセ字(笑)の影響でいまだ一部解読不可能な文字があるものの、担当者は文中ではっきりと「保光苑停留場は諏訪停車場の構内に含まれるものと認めこれを廃止する」と明記している。この一文だけで「保光苑停留場」の存在、そして「=諏訪停車場」の2つの事実を証明するには十分すぎる証拠だろう。最終的にこの件も含めた前記変更申請は翌年4月2日付で認可される。

つまり一連の流れを僕個人の独自解釈の時系列順でまとめると、まず三重軌道㈱大正2年5月16日南浜田~「保光苑停留場」間を開業、その後同停留場~院線四日市駅間の線路変更申請に伴い同年9月四日市鉄道㈱の諏訪停車場の構内に吸収、「合同乗降場」の一部となる。その際三重軌道㈱「保光苑停留場」「江田停留場」に変更した、という流れと考えられる。ただ現時点で停留場名を「保光苑」から「江田」に変更した正確な時期は判明していないが、大正3年7月の公式文書では既に「江田停留場」の記述が見られる(※下画像、赤線囲み部参照)ことからおそらく前出の大正3年4月の変更申請の際

大正3年7月10日付「工事方法書一部変更願」。「江田停留場」の記載が見える

には名称変更も同時になされたと考えるのが自然だろう。結論としては、大正2年5月~大正3年4月までのわずか1年弱だけ「保光苑停留場」は実際に存在していたと思われるが、4か月後の大正2年9月以降には四日市鉄道㈱の諏訪停車場の一部に組み込まれたため事実上「諏訪停車場」という認識しかなされなかった可能性が高い、というところだろう。

 

また一つ、細かすぎて実際の四日市市の歴史には反映されないであろう新事実が明らかになった(笑)。でも、こうして一つずつ小さな事実を積み重ねることが大事なのではと思います。ここに書いたことを信じるか信じないかは、あなた次第です(笑)。

・・・最後に、かなり過去のものでしたが参考文献資料として提示させていただいた『鉄道ピクトリアル』出版先「鉄道図書刊行会」様に対し心より感謝とお詫び申し上げます。以上

 

 

 

 

 

 

三重軌道が諏訪新道への敷設を断念したのはいつ?

三重軌道㈱が当初は諏訪新道に軌道を敷設しようと計画していたことは、この場でこれまで何度となく解説してきた。最終的には、諏訪新道よりやや南側の空閑地を買収し四日市鉄道㈱と並走する形で新設線路を敷設するという形に落ち着くわけだが、三重軌道㈱はいったいどのタイミングで諏訪新道への軌道敷設をあきらめ、新設線路の敷設へと方針転換をしたのだろうか。

これに関しては、昨年7月1日付の当ブログ「幻の四日市連合駅成立の真実。(前編)」内では「大正2(1913)年5月11日に三重・四日市両鉄道間で協定書(※下画像参照)が交わされたことで、三重軌道㈱四日市鉄道㈱と同様に専用線路での敷設に切り替えたと思われる…が、三重軌道㈱はそれ以降も諏訪新道への軌道敷設をあきらめていなかったのではと思われる節が多々ある…(中略)」と書いた。

大正2年5月11日付両社間での「協定書」。第1項文内に「三重軌道変更線」とある。

この時はまだ大宮鉄道博物館が所蔵する鉄道省文書』全ての史料の解読が十分ではなく、その時期を特定できる文書を見つけ出すことが出来ていなかったが、先月紹介したうつべ町かど博物館で同文書の閲覧が自由にできるようになったことでようやくこれらの情報に関する史料を発見することができたので、それを紹介していこう。

鉄道博物館鉄道省文書』内の「三重軌道線路…施工の件」の1枚目(右)と2枚目(左)。

上画像は大宮鉄道博物館所蔵鉄道省文書』内の「三重軌道線路一部変更並変更箇所工事施工ノ件」だ。パッと画像だけ見ても何が書いてあるか全く読み取れないだろう(笑)と思うので、同文書画像の対象部分を順番が分かるように付けた番号とともに切り取りつつ時系列と経緯を解説していきたい。

 

①まず、三重軌道㈱大正2年5月10日付で「線路一部変更ノ件」という文書を三重県(知事)経由で鉄道院に対し提出する(※下画像赤線部分)。これは同じ鉄道省文書』内に保存されている「特許線路一部変更願」という名前の文書のことと思われる。

大正2年5月10日付で提出したことを示す箇所。()書きで「三重県経由」とも書かれている

ちょうどこの翌日が、一番最初で紹介した三重・四日市両鉄道間で交わされた全3項目の「協定書」だ。この協定書の本来の大きなポイントは四日市鉄道㈱側が抱える課題であった諏訪付近での三重軌道㈱との「立体交叉」、これが「水平交叉」に変更された部分だったのだが、やはり「三重軌道変更線」という部分も重要だったことになる。

➁この文書を受け三重県知事が同年8月13日付で「三重軌道株式会社線路一部変更ノ件進達」及び「変更箇所工事施工ノ件進達」(番号第2646号の2)名称の文書2通を鉄道院に提出したと思われる(※下画像赤線部分)。

三重県知事が提出した文書とその日付が読み取れる。文章一部には「進達」の文字もある

こういった一連の流れを経て、内閣総理大臣・内務大臣及び鉄道院監督局・土木局が三重県知事及び三重軌道㈱に対する許可・認可文書の草案を大正3年4月2日付で作成する。それが前出の左右2枚の画像というわけだ。その中で、三重軌道㈱に対して

③「明治43年10月18日監第1413号をもって下付したる命令書第1条中第1号~第3号を左の通り変更し第4号を第2号に繰り上げる」(※下画像・赤線囲み部を現代語訳)

三重軌道㈱が明治43年に提出した「命令書」の一部を内容変更することを許可している

と書かれている。ちなみに文中の「明治43年10月18日監第1413号」の「命令書」は、三重軌道㈱が軌道敷設特許下付時の際に提出した全6項目の軌道敷ルート一覧(※下画像参照)のことを指すが、その後明治44年5月20日付でこの軌道敷ルートの改変が行われ、

明治43年10月作成「命令書」軌道敷一覧(一部)。この後明治44年に3号以降が変更される

6号まであった第3号以下を、

「三、前号終点より三重郡四郷村大字西日野字東浦36番地に至る新設軌道敷

 四、前号終点より三重郡四郷村大字室山八反田3番地先に至る里道」

と変更、全4項目に変更になっている(※下画像、赤線囲み部参照)。

 

明治44年5月20日付で三重軌道が提出した「出願線路変更ノ件」に対する鉄道院の認可書

つまり、当初は全6項目だったものが明治44年5月段階で全4項目に変更になっており、前出大正3年4月2日付での鉄道院による認可文書の草案

明治43年10月18日監第1413号をもって下付したる命令書第1条中第1号~第3号を先の通り変更し第4号を第2号に繰り上げる」

は、大正2年5月段階全4項目のものがさらに省略、全2項目になったことを示している。

④第1号「三重県四日市市大字濱田字北起…ニ至ル新設軌道敷」(※下画像、赤線囲み部)

第1号起点にあたる「大字濱田字北起3972番-1」は阿瀬知川北岸の貨物駅を指す。

そして第2号「前号終点より三重郡四郷村大字室山八反田3番地先に至る里道(※前出第4号)」となった、というわけだ。

 

余計に分かりにくくなった、という人が多いだろう(笑)。ざっくり説明してしまえば、

●大正2(1913)年5月10日に三重軌道㈱が諏訪~院線四日市駅間を新設軌道敷に変更、四日市鉄道㈱と並走する(※ただし敷設位置は四日市鉄道㈱線路の北側、水平交叉は存続)

大正2年8月13日、三重軌道㈱の申請を受け三重県知事が鉄道院に設計変更を報告

大正3年4月2日付で線路設計変更の許認可の草案を提示(※立案は3月26日)

●同年4月4日、三重県知事及び三重軌道㈱へ通達(上画像の⑤赤線囲み部日付)

というのが大まかな流れになる。つまり、三重軌道㈱が諏訪新道への軌道敷設から四日市鉄道㈱との新設軌道敷での並行へと正式に路線変更したのは大正3年4月4日の許認可通達を受けた日、ということになるだろう(※もちろん三重軌道㈱側としては大正2年5月10日時点で断念したとし、その日を境に線路敷設対象となる敷地買収に取り掛かっているはずであろう)。

確証の持てる史料の存在が分からず、ずっと三重軌道㈱の諏訪新道への軌道敷設断念のタイミングを特定できずにいたが、うつべ町かど博物館での鉄道省文書』閲覧が実現したおかげでようやく時期の特定にたどり着くことができた。大変な労力を使って同史料を博物館にもたらして下さったU野氏に対し、心から感謝の意を表したいと思う。

 

以上

 

 

 

 

 

 

うつべ街かど博物館は四日市随一の博物館。

四日市市采女町にある「うつべ町かど博物館」

杖衝坂の中腹に建つ博物館全景。写真下の白いコンクリート道路部分が旧東海道

地元・内部地域の歴史や文化を伝える旧東海道沿いの古民家を利用し運営している、地域住民手作りのミニ博物館だ。毎週金曜と日曜の午前中だけ開館している(※不定期で月曜と水曜にも開館している場合もあるようだが)、どこの地元にもあるようなお世辞にも大きいとは言えない(失礼(汗))郷土の資料館だ。が、実はこの「うつべ町かど博物館」、地元を走る四日市あすなろう鉄道」に関する資料のみに関して言えば、現時点で間違いなく四日市市随一の博物館であることをご存じだろうか。・・・いや、正確には四日市市随一の博物館に「なった」、と表現するべきだろう。

同館には講演会を拝聴するなど過去に何度も訪問させていただいているが、先日連絡を受け再訪した。今回の目的は今回紹介する鉄道省文書 第一門 監督 第一種 四 軌道  イ 特許 三重軌道会社 自明治四十三年至大正六年 巻一』の複写版だ。2月現在、まだファイルのタイトルが完成していないのか手書きの貼り紙状態で本棚中に収められている状態になっていた(※下写真、同館にて撮影)。

資料館内の保管状態。隣の「三重鉄道」は国立公文書館の公文書が一部収蔵されている

こちらは過去の記事でも何度も提示し紹介している、埼玉県大宮市の鉄道博物館に所蔵されている公文書の簿冊(※同博物館では実物ではなくマイクロフィルムとして撮影されたものを閲覧するようになっている)のコピーである。これは四日市あすなろう鉄道の現役運転士でもあり、同鉄道の歴史研究も行っている当館所属の上野理志氏がわざわざ現地まで足を運び、2日間にわたり390枚、ページ数にして700ページ以上に及ぶ公文書の全ページを印刷し持ち帰ってきたものである。文章にして表現するのは簡単だが、その努力と労力がどれだけ大変なものであるかは実際に現地に行った人間でしか分からない。それだけでも尊敬に値するのだが、氏の功績はこれにとどまらない。この公文書資料を持ち帰り、地元の博物館に存在すること自体が四日市市にとってどれほどものすごいこと」なのか、分かるだろうか。

現在の四日市市の歴史を語る著作物として正式なものは四日市市史』である。全20巻刊行され、第1巻は昭和58(1983)年刊行、最終(最新)刊20巻「年表・索引編」は平成14(2002)年1月に刊行されている。つまり、現在の四日市市において正式な歴史検証はほぼ西暦2000年代以前で止まっているということになる。実際、四日市市史』史料近代編(第11~13巻)を見ても、国立公文書館に所蔵されている四日市鉄道」「三重鉄道」関連の公文書は掲載されているものの、今回の公文書内容が紹介されている箇所は全く存在しない。それもそのはず、今回の公文書は国立公文書館には所蔵されていないうえ、その存在が研究者によって公式に明らかにされたのは僕の知りうる限りでは平成10(1998)年に三木理史氏が著された「近代日本の地域交通体系研究」という論文が初出となっており、四日市市史』近代編完成後に存在が知られるようになった可能性が高いと思われる(※これはあくまで僕の個人的解釈ですが)。つまり、現在うつべ町かど博物館で展示されているものは四日市市の正史でも紹介されていない、新発見の歴史史料」ということが出来る。

 

四日市市の正式な歴史に示されていないため事実上「新発見」となる史料で四日市市立博物館」四日市市立図書館」にも存在しない、さらには東京・千代田区にある国立公文書館に行っても所蔵されていないため見られない、埼玉県の鉄道博物館に行って「のみ」閲覧ができる当時の正式な「公文書」が、(複写物とはいえ)「うつべ町かど博物館」で簡単に見ることが出来のだ。

東京にある国立の資料館に行っても見られない史料がここに来れば閲覧できる。この公文書(コピー)一つの存在だけで「うつべ町かど博物館」が四日市市随一の博物館だと、個人的に断言できる。・・・ただ、当の公文書の内容が理解できる=解読できるかどうかでその価値も変わってしまうだろうが(笑)。難しい漢字が分からない小学校低学年の子ども達には難しいかもですが、四日市市軽便鉄道の歴史を知りたい方にとっては第一級の史料であることは間違いないだろう。

交通博物館が保存する実際の同文書表紙(特別の許可を頂き撮影。関係者様に感謝)。

 

最後に。

個人的な意見だが、この史料の持つ価値はそれこそ新たな四日市市史』を再編すべき事象をも含んでいるほど重要な内容を持っているものと感じる。複写物とはいえ、現在の四日市市形成に至る歴史に大きく関わるこのような貴重な史料は、本来は上野氏のような一個人が苦労して入手するものではなく、市当局側が全力を賭して入手すべきものなのではないかと個人的には考える。その存在を認知し自治体側が直接動けば、場合によっては実際の公文書の実物レプリカを作成して博物館等で展示・自由に閲覧することだって可能なはずだ。国立公文書館に所蔵されている公文書に対しても同様のことが言えるが、四日市あすなろう鉄道そのもの自体がどういった経緯で完成されてきたのかといったような歴史認識のアップデート」及び検証が平成時代(※しかも間違った認識状態)のまま更新されていない部分に、同鉄道を市の文化遺産・観光資源と位置づけている現状での大きな問題があるのではないだろうかと思う。間違った認識のまま進んでいけば必ず同じ過ちを犯すことはまさに「歴史」が証明してくれていますから。あくまで個人的意見ですが。

おそらく「うつべ町かど博物館」は、これからもこの第一級の歴史史料とともに四日市市随一の資料館として穏やかに運営されていくだろう。このことに四日市市民、そして四日市市が気付くのはいつのことになるだろうか、楽しみで仕方がない。(…こんな貴重な史料を、しかも入場無料で閲覧できるなんて、本当に奇跡でしかない…(涙))

 

是非時間を取って閲覧しに行くことをおすすめします。

四日市鉄道㈱誕生は、明治44年5月27日。

前回記事に対して、大正5(1916)年3月に湯ノ山~四日市間を開業させた四日市鉄道㈱(※現在の近鉄湯の山線)が誕生したのはいつになるのだろう。三重軌道㈱と同様に会社設立年月日を調べてみると、明治44(1910)年6月15日付『官報』商業登記欄に明治44年5月27日」とある(※下写真参照)。つまり三重軌道㈱より約5か月ほど後ということになる。いきなりの解答だが、これが正式な設立日とみて間違いないと思う。

明治44年6月15日付『官報』商業登記欄より。ページ跨ぎで見にくく申し訳ない

ただ、他のネット記事や書籍等で四日市鉄道㈱設立の歴史に関する記載を調べた場合、明治42年12月とするものもあったりと正確なところが判然としないと感じられるところがあるかと思う。これら情報を個人的ながら分かりやすく解説していきたいと思う。

 

まず、現在認知されている四日市鉄道㈱設立に関する情報のほぼ全ては発起人の一人であった菰野町の実業家・伊藤新十郎氏が著した菰野四日市軽便鉄道敷設日誌』という日記内の記述が元となっている(※下写真、表紙/菰野町郷土資料コーナー所蔵)。

菰野四日市軽便鉄道敷設日誌』表紙。赤線囲み部に注目


この表紙内の一文にも書いてあるところだが、そもそも四日市鉄道㈱の起源である菰野四日市間の鉄道敷設計画は明治41年10月27日」に発起したことになっている(※写真赤線囲み部)。もちろんこの時は単純に有志が計画を立ち上げた日というだけで、何ら具体的な陣容など何も決まっておらず「絵に描いた餅」状態であった。この後、伊藤新十郎氏は津市に支店を持っていた大日本軌道㈱の伊勢支社社長・玉井丈次郎氏の支援を受けつつ綿密にその計画と経営陣容を固め明治42年12月16日四日市市役所経由、12月17日三重県庁宛に菰野四日市軽便鉄道敷設申請書」を進達する(※下写真、新十郎による申請書写し、表紙)。

前出『…敷設日誌』内、申請書の写し(表紙部分)。

菰野町の広報誌等ではこの申請書提出をもって現在の湯の山線の始まり」と表現しているが、同申請書ではまだ「四日市鉄道㈱」の表記は登場しておらず、代わりに「軌道起業目論見書」中で会社名称を伊勢三重軌道株式会社」とする、としている(※下写真、赤線囲み部)。さらに写し書内では既に存在していた伊勢鉄道㈱」との重複を避けるためか冒頭の「伊勢」を消去して「三重軌道㈱」と修正し、既に申請済の三重軌道㈱とまさかの「名称被り」をしていたことが分かる。

『同』書内「起業目論見書」。「伊勢」の部分を消している様子が見える

敷設申請後、この完全なる「名称被り」がどの辺りで指摘を受け修正したのかは同日記内記述の完全なる解読を待つ他ないが、翌年5月12日付の鉄道院からの呼び出し照会連絡があった際には四日市軌道㈱」の名称に変わっていることから、かなり早い段階で指摘を受け改称をしたことが想像される(※下写真、赤線囲み部)。

『同』書内、鉄道院からの照会通牒の写し。「四日市軌道㈱」の記載が見える

この鉄道院からの呼び出し内容は、もともと「軌道条例」に準拠して申請していた四日市軌道㈱」の敷設申請は近日中に施行される軽便鉄道法」での申請に切り替えた方が良いというアドバイスを含めたものだった。これを受け、同年8月8日付で軽便鉄道敷設免許願」を提出。「軌道」から「軽便鉄道」に変わったため、この申請の際は社名が四日市鉄道㈱」に変更されている(※下写真、赤線囲み部)。

『同』書内「軽便鉄道敷設免許願」の写し。四日市「軌道」と「鉄道」の記載がある

以上の史料から、四日市鉄道㈱明治42年12月の軌道敷設申請以降、明治43年8月の軽便鉄道敷設免許申請に至るまでに①伊勢三重軌道→➁三重軌道→③四日市軌道→④四日市鉄道といった名称の変遷を見ることが出来る(※①→➁はあったかどうか微妙だが)。

 

どの部分からを四日市鉄道㈱としてのスタートと考えるかどうかは人それぞれと思う。が、間違いなく言えることは、実際には三重軌道㈱側にも四日市鉄道㈱同様に発起設立までの経緯があるわけで、単純にその詳細が不明なだけで設立日を『官報』内の商業登記日とするのはあまりにもフェアではないと感じるのは自分だけだろうか。一部の四日市市歴史研究の冊子内ではあたかも四日市鉄道㈱の方が三重軌道㈱よりも早く設立され鉄道が敷設されたかのような誤解を与えかねない表現になっているものもある。早い遅いという順番はどちらでも良いように感じられるが、こと四日市市の鉄道の場合は後の四日市~諏訪間の「軌道交叉」問題も絡んでくるため、きちんと基準を設定したうえで正しい順番で表現しておかないと後の歴史経緯の説明に矛盾が生じるのだ。

四日市鉄道㈱誕生は、明治44(1911)年5月27日(設立登記日)である。を是非正式としてほしい。

 

以上

三重軌道㈱誕生は、明治43年12月が正解。

新年最初の記事は、ストレートかつ簡単な話題から始めようと思う。

 

現在の四日市あすなろう鉄道はいつ誕生したのだろう。そんな素朴な疑問を抱いた方はまず間違いなくスマホ片手に「■ikipedia」等で検索をかけて調べるだろう。あるいはそういう端末を持っていない小学生などは地元・四日市の図書館等に行って調べるかもしれない。そうして出た検索結果を見てみる。

「1911年(明治44年)12月28日 三重軌道が設立。」(※「■ikipedia」年表部分を抜粋)

同市立図書館では同鉄道の歴史についてのリーフレットが置かれている(※下写真)。

2021年2月2日~28日 同図書館地域資料室 プチ展示 リーフレットより

明治43年 『三重軽便鉄道会社』 四郷村有志により創設

 明治44年  『三重軌道株式会社』に改称」(※リーフレット一部を抜粋)

図書館のリーフレットに関しては既に3年近く前のもののため現在とは異なる可能性はあるが、少なくともつい最近まではこれが一般的認識であるとされているのは分かっていただけると思う。

 

実際はどうなのか。三重軌道㈱の設立登記の記載が『官報』にもきちんと掲載されているので確認してみよう(※下画像)。

1911(明治44)年1月16日付『官報』商業登記欄より「株式会社設立登記」

「株式会社設立登記

 …一 設立ノ年月日 明治四十三年十二月二十八日 

 …右 明治四十四年一月九日登記」

とある。

設立年月日のうち月日だけが合っているため情報の信憑性を微妙に高めているように感じられるが、もはや説明不要なほど(笑)にネットからの情報が、図書館で得られる情報が完全な間違いであることが一目瞭然である。なお図書館リーフレット内の「三重軽便鉄道会社」の記述に関しては、四日市市役所所蔵の「参事会議事録」内に残る「明治四十三年度第一号議案」が前年12月23日に出されていることが確認されているため、明治43年時点では既に三重軌道㈱であったことが証明されている(※下画像)。そもそも現在に至るまで公文書含め「三重軽便鉄道会社」と記載されている史料は存在していない。

明治43年1月15日付四日市市参事会提出第一号議案決議書。既に「三重軌道」の記載がある

以上を見ての通りオンライン上でもオフライン(現実)上でもそもそもスタート時点から間違っているのだ。さらに困ったことには、現代においてはその誤った情報を見た他のネットブロガーがさらに波及させてしまう結果となる。こんな状態では当の四日市市民に、ましてや今の子ども達に正しい歴史が伝わる訳がない。

 

なぜ、事実を知っている自分がこれら記述を修正しないのか。

 

もしこれを読んだ方がいたとしたら、必ずそう言うだろうと思う。

簡単な話である。ネット内でまとめられた情報のみ安易に検索した情報だけを妄信し、それを記事にしてしまうような方達はそもそも四日市の鉄道の歴史について本当に知ろうとしていない、ただその一時の情報減・話題として活用しているだけであり真実を語ろうという意思がない、そこには一切の信憑性がないからだ。当然それはネット記事を読む側にも同様のことが言える。書いてある情報をそのまま鵜呑みにしてはいけないことは、これまでも散々警告されてきているはずである。先に紹介した『官報』の画像など国立国会図書館デジタルライブラリー」「三重軌道」で検索すればすぐ閲覧できるものでありネット情報の記載誤りがすぐに判断できるのだから。少し大袈裟な表現かもしれないが、これもある意味で一種の「ネット(情報)詐欺」と言えるのかもしれない。…まあ、そんな主張をネット上で展開するのも矛盾しているが(笑)。

ただ、図書館のリーフレットの件に関しての記載はさすがに看過できないので何らかの対策を講じたいとは考えているのだが、いわゆる「市公認」歴史認識を覆させなければならないこととなるのでそう簡単にはいかない(何の肩書もない他市在住の素人研究家が口を挟めるのか…)ので歯がゆいのが実情だ。何とかならないもんかのう。

 

しまった、簡単な話題にするつもりだったのに、ものすごく重い話になってしまった。まあ良いか。      以上

ご挨拶:今年1年有難うございました

2023年もあと少しで終わります。

今年は4月から7月にかけて国立公文書館及び大宮鉄道博物館への公文書閲覧が実現したことによって、県内図書館だけではどれだけ調査してもほとんど詳細がつかめなかった三重軌道㈱創立当初~三重鉄道㈱への移管開業あたりの歴史、期間で言うと明治末期~大正5年にかけての四日市市内の特殊狭軌鉄道の成立の経緯が見えてきました。

 

・・・思えば、きっかけは些細な疑問からでした。旧西日野駅の駅舎の写真が時期によって違っている、といった視覚的な疑問は本ブログの最初に書いた通りですが、本格的な調査研究を始めたきっかけはこれとは別の理由でした。

とある事情で現在の四日市あすなろう鉄道の歴史について調べる機会があり、当初は駅舎等の視覚的情報を中心に調査していたのですが、それと同時に歴史についての情報も様々な書籍やネット記事から集めていたところ、大正2(1913)年の「南浜田~諏訪間開業」という記載が「南浜田~諏訪間開業」という2つの異なる記載に分かれていることに気付いたことに始まります。

「諏訪」「諏訪の駅位置が違うことはそれまでの調査で既に分かっていたが、そもそも三重軌道㈱時代に「諏訪」という名称の駅が別にあった等という記載がどこにもないため、この名称の違う2つの駅が同一のものなのか、違う場所にあった別々のものだったのかをはっきり知りたいというのが出発点でした。

この疑問については、三重県立図書館で伊勢新聞の当時掲載された記事を読むことですぐに解明できました。同新聞の大正2年6月7日付「三軌と官鉄聯(連)路線」という記事です。以下に記事全文を掲載します。

「三重軌道にては諏訪駅開始以来旅客数頓に増加し収入従前に三倍するの盛況を呈しつつあるが同駅より一直線に東海道を横切り東方関西線へ乗入るべき連絡線は諏訪新道に沿ひて南方約二十間の地点に路線敷地を買収すべく既に東海道の国道東西両側の隣接地三百四十四坪の買収を終り目下手続き中なり」

記事文内で「(諏訪)駅より一直線に東海道を横切り」と明確に表現しています。つまり大正2年6月時点で三重軌道㈱線路はまだ旧東海道を横断しておらず東海道西側の諏訪公園近辺で途絶えていることを意味しており、旧東海道の南東側にあったとされている「諏訪駅が存在する可能性を全否定するものと考えて良いと思います(※もっとも、記事内容に関しては後半部分に三重軌道㈱ではなく四日市鉄道㈱のものと思われる情報も混在しており、多少正確性に欠けるのも事実です)。

ではなぜ「諏訪」「諏訪、異なった2つの記載が混在しているのか。当然の疑問と言えるでしょう。少なくとも、四日市あすなろう鉄道など同鉄道の歴史に直接または間接的に関係している企業等の沿革・社史では現在でも「諏訪」としています。これに関しては現時点でまだ調査途中ではありますが、「ある時期」の「ある書物」を境に「諏訪」から「諏訪に表現が変わっている可能性が高いらしいことだけを今は伝えておきたいと思います。全ての関連書籍の調査を終え、確実な情報となった時に改めて詳しく解説したいと思います。

 

冒頭に書いた通り今年は三重軌道㈱の創立初期、現在に至ってもあまり一般には知られていない歴史や経緯を知ることが出来ました。2024年の本ブログは、年頭から三重軌道㈱創立に始まる明治末期からの同鉄道の歴史を紹介していきたいと思います。

 

以上