「あすなろう鉄道八王子線」開業前の貴重な史料を新発見

現在四日市市内を走る「四日市あすなろう鉄道八王子線」の日永~西日野間は、同鉄道の起源となる「三重軌道株式会社」が明治43(1909)年10月18日付四日市~四郷村間の「軌道敷設特許」下付を受け、2年後の大正元(1911)年8月15日に日永~八王子(※後の伊勢八王子駅)間を開業。当初から天白川北岸よりやや離れた内陸部を通る現在の線路位置で約115年間ほぼ場所を変えることなく現在も運行を続ける唯一の区間である(※注:正確には同年10月日永~南浜田区間も同様だが、同区間は現在「内部線」内に取り込まれているためここでは除外する)。

 

同区間は開業当初より「専用線路」、つまり「道路」「線路」を完全分離した現在の一般的な鉄道線と同仕様で建設されたものだが、実は明治43年の敷設特許下付時点での最初期計画段階では日永~西日野間も以西の西日野~八王子間と同様、天白川北岸いわゆる「水澤街道」上に軌道(線路)を走らせる計画であったことが分かっている。これを証明するのは、過去に何度も紹介している大宮鉄道博物館所蔵『鉄道省文書 三重軌道会社 自明治四十三年至大正六年』内の「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採択ノ理由」という文書で、同書中第十項の部分に明記されている。そこには、

明治42年10月21日付「軌道敷設特許願」添付の「国道里道…採択の理由」

「十 自三重郡日永村大字日永字天白4411番地先 至同郡四郷村大字室山字八反田603番地先 理由 この里道は天白川に沿いたる堤塘(※ていとう、堤防の事)にして其の高さ15尺以上あり、また・・・(中略)(※下画像、赤線囲み部参照)

前出「国道里道…採択の理由」第十項部分のみを拡大した画像

とあり、日永から室山八反田(※後の伊勢八王子駅付近)までの区間全てを「里道使用」(※既存道路、ここでは水澤街道のことを指す)する計画とされていたのだ。が、その翌年「遺憾ながら再調査をなさしむるの必要を生じ」(※『同』書内明治44年4月「工事認可願書提出延期願」より)たため、津市に事務所を構える鉄道技師・神田喜平氏を招聘し改めて敷設計画の再測量を実施。その結果、日永~八王子区間の水澤街道上への軌道敷設計画のうち日永~西日野間が敷設不可能なことが判明する(※軌道敷設に必要な最低道幅確保が困難なため)。再測量の結果を踏まえ三重軌道㈱は明治44年5月20日付で「軽便軌道敷設線路変更許可願」を再提出、ここで初めて同区間を「専用線路」、つまり現在も運行中の内陸部を走るルートに転換することになったわけだ(※下画像、赤線囲み部参照、第三項中で諏訪~西日野間が全て「専用線路」となっている)。

「軽便軌道敷設線路変更許可願」添付の「…採択の理由」。第四項(青線囲み部)は西日野~八王子間を指す

「軽便…許可願」提出以降、同区間における敷設工事の様子や進捗状況を知ることのできる史料等はこれまで見つかっていなかったのだが、今回それに関係すると思われる新史料が発見されたのでそれを紹介する。

 

新史料は四日市市本町にある「本町プラザ」5階「旧土地台帳閲覧室」に所蔵されている『土地願届ニ関スル綴 自明治三十九年至大正元年』内に明治45年2月(日付無)付「堤塘使用願」という文書が保存されている。

旧土地台帳閲覧室所蔵「土地願届ニ関スル綴自明治39年至大正元年」表紙


同書中「使用の目的」欄には

「三重軌道株式会社軌道の沿道埋立の為、土砂運搬の軌道に要する通路を充つる為」(※画像、赤線囲み部参照)

明治45年2月(※日付無)付「堤塘使用願」、全4ページ中の前半2ページ部分。

とある。現時点でまだ文書内容の完全解読には至っていないが、文書に記載された期日から推測するにおそらく西日野~日永間及びそれ以北(~赤堀~南浜田)の「専用線路」区間の軌道敷作成(埋立)に必要な盛土採取・運搬のため、天白川南岸の日永丘陵(※現在の日永団地周辺)を起点にした『土砂運搬用の仮設軌道』敷設に伴う天白川堤塘の横断とその使用に関する申請書であろうと考えられる。「専用線路」用路盤形成のためそれに沿う形で「仮設軌道」を敷設したのだろう、三重軌道㈱が本格的に日永~八王子間の軌道敷設工事に着手するのは明治45年3月1日からであることは分かっているため、同文書記載の期日とも時期的にピッタリ符合する。

この文書で重要なのは、仮に文書通りであれば「専用線路」作成(埋立)に必要な土砂運搬のために現在の日永団地付近まで臨時の「仮設軌道」を別途敷設していた可能性が非常に高いことだ。

「堤塘使用願」添付の手書きの平面図(下が北方向)。現在の日永~西日野間に沿うように仮設用運搬軌道が敷かれ、さらに天白川を斜めに横断している様子が分かる

 

添付された手書きの平面図からも現在の西日野駅付近を経由して天白川を斜めに横断し日永丘陵へと向かう「仮設軌道」の様子がよく分かる。地元の方ならすぐに想像が付くかもしれないが、もしこれが事実だとすれば、現在の笹川通りから南西方向へポリテクセンター三重を経て南部丘陵公園に伸びている道路の一部は、実はこの「仮設軌道」の名残ではないかとすら思えてしまう(※地図参照)。

現在の西日野駅付近地図。駅から天白川、さらに笹川通りを超え不自然に南西方向に延びる道路がある。「仮設軌道」の痕跡かと想像させる

 

さらにはこの時使用された「仮設軌道」用の廃レールが、後に日永駅舎等に転用されるのではないか、という根拠のない想像(笑)まで掻き立ててくれる。さらに同書『土地願届ニ関スル綴 自明治三十九年至大正元年』内には、他にも八王子~室山間埋立に際し近隣の天白川床から土砂を採取・使用する届出書類なども残されており、三重軌道㈱開業前の工事の様子を断片的ながらうかがい知ることができる。これまでは『伊勢新聞』に掲載された関連記事以外の第三者的情報しかなかったが、今後さらなる史料調査によってはより詳細な内容が掴めるかもしれない。これは三重軌道㈱の歴史研究において第一級の新発見ではないだろうか。

 

 

・・・最後に、同史料を閲覧した者として一点だけ苦言を呈しておく。

今回発見された新史料は、現在は本町プラザ5階「旧土地台帳閲覧室」内に所蔵されているものだが、本来は一昨年(令和7年)8月まで【管轄地区内の土地情報】という括りで四郷地区市民センター内にて保管されていた史料群だったそうだ。つまり部外者である自分にとっては今回の新発見はほとんど偶然の産物のようなもので、同史料が一昨年「旧土地台帳閲覧室」で集中管理されるような状態になっていなければ恐らく発見できなかったものだろうからだ。・・・しかしながら、それ以前でも四郷地区居住民ならば請求すればこれらを閲覧する事が可能であった(※もっとも、四郷地区住民もこのような史料が存在した事すら知らなかっただろうが…)し、さらに言えば平成初期に現在の最新版であるところの『四日市市史』が編纂された際には当時市管轄下の四郷市民センター内所蔵の同文書を編纂委員の権限(?)で確認することだって可能だったはずだ。にもかかわらず、これまでこういった史料の存在が明るみになってこなかったのは、やはり「四日市あすなろう鉄道」をただの「特殊狭軌」「軽便鉄道」と決めつけ、本来の起源である三重軌道㈱そして以降の経緯というものに着目してこなかったこれまでの歴史観念に問題があったということに尽きるのではないだろうか。この程度の史料の発見及び啓発は、自分のような部外者でなく本来であれば在郷郷土史家や郷土資料館あたりが担うべきものではないかと思うのだが。

 

引き続き、調査継続をしていこうと思う。続報はまた何か月後かに(笑)。

【終わり】

 

阿瀬知川貨物線「謎の写真」に新事実

2024年5月~6月にかけて『阿瀬知川貨物線に関わる「謎の写真」に迫る』と題し、ある1枚の写真に隠された「矛盾」とその「謎」についての個人的考察を書いた事があった(※詳細は同過去記事(前・中・後編)を参照)。当時はその個人的考察を証明できる明確な物証がなかったために結果的には推測の域を出ない曖昧な状態のままでとどめざるを得なかったが、今回は当時の考察が正しかったことを証明してくれる「かもしれない」新史料を発見したので、それを紹介しつつ改めて「謎の写真」についてもう一度考察していきたい。

 

 

 

四日市市史研究 第2号』「四日市の陸上交通」(椙山満氏/著)P.100掲載の写真

上写真は前出過去記事にて何度も提示してきた「大正5(1916)年四日市鉄道㈱の祝賀列車を阿瀬知川鉄橋上で撮影したもの」とされている写真だ。同写真についてこれ以上の詳細な解説は今回あえて省かせてもらう(※知りたい方は前出過去記事を参照)が、同写真に対し2024年当時に自分が提唱した個人的考察を簡単にまとめると、

①写真は少なくとも(※掲載されていた四日市市史研究』誌上で指摘されている)大正5(1916)年3月の四日市駅乗入れ時の祝賀列車を撮影したものではないと思われる

➁同時に、四日市鉄道㈱本社前で撮影されたものでもないと思われる

③同時に、阿瀬知川鉄橋上で撮影されたものでもないと思われる

大正2年9月24日あるいは25日、湯ノ山発諏訪行の四日市大祭臨時列車を神森~桜村停留場間の金渓川橋梁を渡る様子を西岸から撮影したものではないか

という4点になるかと思う。今回発見した新史料は、さすがに➁④のような撮影場所の特定といった具体的証明ができるほどの重要なものではない(笑)のが残念だが、少なくとも①➁③の考察が正しかったことを証明してくれるものにはなり得るのではないかと思っているので、その辺りも含め検証していきたい。

その新史料とは、四日市市本町・諏訪新道沿いにある四日市大入道さんminiミュージアム館長・水谷宜男様個人所蔵の四日市鐵道沿線案内 附菰野ラジウム温泉案内』という小冊子。いわゆる当時の観光案内パンフレットで、中には当時の四日市港の写真や湯の山温泉を含む四日市鉄道沿線の観光地案内、沿線鉄道路線図などが掲載・紹介されている。巻末奥付を見ると四日市鉄道㈱内沿道案内編纂部発行、発行日は大正4(1915)年9月15日、編纂・発行の責任者は「宇野義男」氏となっている(※下画像参照)。宇野義男氏四日市鉄道㈱設立の際の創立事務員でもあり、当時は四日市鉄道㈱支配人という立場にあった人物であった。当時の鉄道会社における「支配人」という役職がどのような役割を担っているのかまでは知らないが、当時の新聞記者の取材対応したりしているところからおそらく「事務方のトップ」的な立ち位置だったのだろうと想像する。

四日市鐡道沿線案内』表紙。同町かど博物館に行けば実物を見ることが出来る

 

同冊子巻末奥付(拡大)。発行者・宇野義男氏は当時四日市市北条町に住んでいたようだ。

同冊子内の沿線略図。当時の四日市鉄道線路と現在の近鉄湯の山線路と比較できる

さて、宇野氏の経歴はともかく(笑)この冊子内には「阿瀬知川貨物線」の写真の謎を解くうえで非常に重要な写真が紛れ込んでいる。それが冊子冒頭1~3P、「はしがき」と題し編者(=宇野義男氏)が四日市菰野湯の山温泉の魅力を簡単に語る一文の2P目右上部分に掲載された1枚の写真だ。百聞は一見にしかず、下画像をよく見てもらいたい。

同冊子「はしがき」2~3P目の見開き。右上に掲載された写真に注目。

上画像、写真部分のみを拡大したもの。この写真、どこからどう見ても…

 

同冊子に掲載された写真、これは誰がどう見ても最初に紹介した四日市市史研究』内に掲載されていた写真と同一のものと見て間違いないだろう。しかもご丁寧に写真下には「(四日市鐵道本社前)」という注釈文まで付いているというおまけ付きだ。これがどういう意味を持っているのか、もうお分かりだろう。

 

まず、四日市鉄道㈱が諏訪~院線(現JR)四日市駅西側の(三重軌道㈱との合同)停車場・「四日市市」駅間を延伸開業させるのは同冊子発行の約半年後、大正5(1916)年3月5日のことである。大正4年発行の冊子に同写真が掲載されているのだから、まずここでこの列車が四日市市史研究』注釈文にあるような四日市駅乗入れを祝う祝賀列車」というそもそもの前提が崩れ、同時に同写真が大正4年9月以前に撮影されたもの」であることを証明している。まず4つの個人的考察のうち

①写真は少なくとも(掲載されていた四日市市史研究』誌上で指摘されている)大正5(1916)年3月の四日市駅乗入れ時の祝賀列車を撮影したものではないと思われる

が証明された。さらに言えば、大正5年3月にようやく院線(現JR)四日市駅前への開業にこぎつけたばかりの状態なのにそれ以前にさらに南進し阿瀬知川に鉄橋架設が成し得るわけがないし、そもそも前掲の画像四日市鉄道沿線略図」においても四日市鉄道㈱線路は鉄橋を架け阿瀬知川南岸まで延伸する計画にはなっていない(※下画像、黄丸部分参照)。

前出「…沿線略図」四日市市駅付近の拡大図。阿瀬知川駅は阿瀬知川を越えていない

極めつけは国立公文書館所蔵鉄道省文書』「三重鉄道(元四日市鐡道)3・大正3~5年」内の阿瀬知川貨物線に関係する件名No.043「側線敷設の件」内の公文書群で、阿瀬知川貨物線の敷設工事は事実上三重軌道㈱による単独施工によるものであり、四日市鉄道㈱側は大正5年10月11日付で「三重軌道㈱との共同使用」という形での四日市市~阿瀬知川貨物駅間側線敷設が認可されるという事実が判明している。つまり大正5年10月以前に四日市鉄道㈱が阿瀬知川貨物線上を走行できた事実がないし、そもそも阿瀬知川に鉄橋自体が存在しないのだ。これにより、

③同時に、阿瀬知川鉄橋上で撮影されたものでもないと思われる

の考察も証明されたことになる。②に関する考察は過去記事でも住所地番から当時の四日市鉄道㈱本社位置の特定を試みてはいるが、四日市市本庁管轄の地区(浜田地区を含む現在の四日市市街中心部)昭和10年代以前の旧土地台帳が存在しない(※四日市空襲で焼失したのかもしれない)ため、当時と現在の地番及び所有者の照合は難しく現時点ではおそらく解決を見ることは出来ないだろう。ただ、当時の本社所在地の住所は既に確定(※四日市市濱田1425番地)しており、少なくとも当時の同番地周辺に写真にあるような鉄橋を必要とする広い河川が流れていないことは確実なためそういう意味では間接的に

➁同時に、四日市鉄道㈱本社前で撮影されたものでもないと思われる

という考察の証明にもなるのではないかと考えられる。むしろ、四日市市史研究』等後年発行された多くの写真集や書籍でこのような誤った情報が流布されているのはこの四日市鐵道沿線案内 附菰野ラジウム温泉案内』内の写真の注釈文が元凶なのではないか、と推測しているくらいだ。

残る④はあくまで個人的推測で今回の新史料でそれを証明する材料はないが、現在も過去も四日市鉄道㈱線路中に架設された鉄橋は数えるほどしかなく、以降の調査研究にて新史料が発見されれば事実が判明する日が来るかもしれない。

 

とりあえず、現在のところ図書館・資料館等で保管されている四日市市に関する写真集や書籍内に書かれた同写真に関する記載内容のほとんどが誤った情報であることを証明することが出来た。・・・が、残念ながら既に出版済みの書籍内容を修正・変容させる手段は皆無であり、結果これ以降も四日市市内外の現代の子どもたちは学校の自由研究や課外学習等で写真集・書籍内に書かれた誤情報を参考に間違った歴史を紡いでいくのだろう。

 

 

 

 

 

(終わり)

三重軌道㈱の歴史講演会開催

2025年12月7日(日)、じばさん三重5階にて四日市あすなろう鉄道㈱の現役運転士にして四日市案内人協会理事、さらにうつべ町かど博物館副館長でもありなおかつ四日市あすなろう鉄道㈱の前身である三重軌道㈱における歴史研究の第一人者である上野理志氏による講演会が開催される(※下画像参照、案内チラシ)。

この講演はおそらく、これ以降の四日市市における現在の鉄道事情…特に前身が軽便鉄道だった現在の四日市あすなろう鉄道㈱内部八王子線及び近鉄湯の山線を含めた近鉄四日市駅周辺の市街地形成の経緯と歴史への認識に一石を投じる貴重なものになることは間違いないと思われる。

 

上野理志氏の講演会の案内チラシ画像。予約申込等は不要。

 

 

 

…ここからは、あくまでも個人的意見だが(※講演者・上野理志氏とも関係ない)。

ただ、もしこの講演内容が現在の誤った四日市市の一般的な歴史認識に対してどれだけ革新的な内容であった(まだ開催されてもいないので内容は分からないが(笑))としても、残念ながら根本的な問題を解決するまでには至らないだろう、というのが僕の個人的な見解だ。

現在四日市市が明示している最新の歴史的解釈(公式見解)としては、2002年までに全20巻を出版した『四日市市史』が最新となっており、しかも同市史には残念ながら三重軌道㈱に関する記述はほとんど皆無に等しい。要するに『市史』自体が「正確に分からないものは最初から掲載しない」うえ、三重軌道㈱が創設当初計画した「軌道条例」による鉄道敷設計画自体、実際にはそのほとんどの区間が実現しないまま終わってしまったためほとんど事実上「最初からなかった」ものと解釈できかねない内容となってしまっているのだ(※存在はしていたが「=三重鉄道㈱と同義」で、歴史上さほど影響のあるものではないといった感じの解釈と読み取れる)。

しかし、現実はそうではない。これまで何度も解説・紹介してきたように実際には三重・四日市両鉄道㈱の延伸工事(+軌道交叉)が存在したことで、大正2年以降約3年近く諏訪駅近辺でストップし続けた結果、同駅周辺に旅客・貨物の停滞が発生し通常以上に駅周辺へ商店等が密集する契機となっている。そもそも、当初計画では三重・四日市両鉄道㈱は共に諏訪付近では乗降場のみの簡易な「停留所」しか設置する予定でしかなく、仮に予定通り院線(現JR)四日市駅前まで順調に延伸が進んでいたとすれば諏訪駅は現在知られているようなターミナル駅にはならず「旧東海道近くの単なる小さな停留所(※しかもそれぞれ設置位置が少しずつ離れている)」となっていた可能性が高く、結果現在のその他近隣の旧東海道沿い同様に閑散な街道となっていた危険性もあるのだ。これら明治末期~大正初期に起こった一連の両鉄道㈱による線路敷設の騒動は全て大正5年以降の三重鉄道㈱時代に起きた事象ではなく、その前身の三重軌道㈱時代に起きたものであり、それはそのまま昭和初期の伊勢電気鉄道㈱=善光寺カーブ・天理教カーブの発生、そして近畿日本鉄道㈱による廃止・短絡化といった四日市市内における鉄道の変遷と歴史、そして現在の諏訪商店街の形成とも密接につながっている。経済都市を自称(?)する四日市市が出版した『市史』がこれら一連の内容を把握掲載していない(※擁護しておくが、あくまで当時の市史編纂員諸氏の史料調査・探索が不十分であったが故の未掲載であり故意によるものではない)のは、公的歴史書としてもはや価値が無いと言わざるをえない、と個人的には考える。

よって、これらの問題の根本的な解決・・・三重軌道㈱の存在とその価値を認めることは、小学校の教科書内容を改定するのと同様そのまま現在の「四日市市の公式の歴史認識を改変」=新たな『四日市市史』を編纂・出版する必要があるわけだが、既に新図書館建設に膨大な予算を注ぎ込もうとしている現在、さらに新たな『四日市市史』を編纂し直すような予算などあろうはずもない(笑)。結果、現在の四日市市(の公式見解)にとっては今回の講演会で発表されるであろう三重軌道㈱に関する歴史の新発見内容は「無視」一択となることだろう。・・・それでも、今回開催される講演会に一人でも多くの市民に参加して頂き、三重軌道㈱ひいてはこれまで知られていなかった四日市市の歴史を知って頂く機会とすることでいつか新しい『四日市市史』が再出版され、これから生まれ来る子どもたちに正しい四日市市の歴史を伝えられる日が来ることを期待せずにはいられない。

・・・四日市市の本当の歴史が書き換えられる日は、いつ訪れるのだろうか。やはり新図書館竣工の後になるのだろうか(笑)。

 

 

 

何度も言うが個人的見解なので、気にしないように。

小左衛門家墓石を探訪する(後編)

小左衛門墓石を背にして本来の参道であったはずの正面石積み階段を下りる。というか、下りる前から目の前に広がる風景は既に奥深い森になっていて昼間なのに薄暗い。

墓所を背にした際の光景。石積み階段は十数段あるため崖のようにも見える

階段を降りると左右に行けそうな道があるが、下りて右側は草木が生い茂っており参道のような形跡は見られない。おそらく本来は往路の際に通ってきた細道とつながっていたのであろうが、経年により段差が崩れたのか何か理由は分からないがとても人が通れるような状態ではない。といって、下りて右側の参道だって前編で書いたように登り口の先がジャングル化しているのだから結果は分かっている(笑)のだが、とりあえず仕方なく階段を下りた左側の参道を進むことにする。

下り坂になっている参道(?)は予想通り、1分も歩かないうちに落葉のカーペット状態。落葉を撤去すれば敷石が敷かれているのかもしれないが、見た目は完全に草木の間にわずかに広くくぼんだ人の通れる道がある、といった感じだ。ハイキングや登山をされている方であればきっとよく見慣れた光景なのだろうが・・・自分はただ墓参に来ただけなのだが。下写真が行程中で最も参道らしい光景だったので撮影した。

階段から数十mほどしか進んでない。まあ参道らしいと言えば参道らしいと言える(笑)

さらに進むと参道は右に曲がる。その先でそれまで上写真のような参道っぽい雰囲気はすぐになくなり、急に”獣道”のような様相に変化した。下りながら左右に彎曲し、竹林と雑草が今まで以上に迫ってきており道幅も急激に狭くなっている。わずかに誰か?が通っていたのであろうっぽい形跡のある雑草が低く少なくなっている箇所を選び進んで

 

仮に無事下りられても車は丘陵上に止めたまま。絶対この道では戻らないけど(笑)

みる。もはや実際に歩いた自分でも自信がない(笑)のだが、多分上写真中央の赤矢印部分を左に下ったのではなかったかと思う。以降も先へ進めそうな箇所を選びただ進んでいっただけのため、残念ながらもうこの付近でこの写真に写る”獣道”が実際に墓所への参道だったのかどうかの確証はない(笑)。せめてロープでも何でも何か目印になるようなものがあれば推測もできるのだが・・・地元の方なら判別も出来るかもしれないが、自分にはとても無理です。というか、そもそも自分が今どの辺にいるかが分からない。

先へは進んでみるがこれが正解なのかどうかも分からなくなってきた。

 

つまり、竹林が邪魔をして(おそらくは)左側に見えるであろう室山町付近の風景が見ることができず方向感覚はともかく高低(標高)差、自分がどの程度下ってきたのかが全く分からないのだ。一応さらに先へ進んで(下って)みるが、最後は目の前にわずかに見える日永町?室山町?八王子町?の景色とともに生い茂る雑草と竹林によって完全に行く手を阻まれてしまった。この先が前編で踏破を断念した登り口参道につながっているのかどうか、その検証はできないまま引き返すことにした。

最後は”獣道”すらなくなり、参道かどうかも判別できなくなってしまった

 

今回の探訪ではっきりしたことは、前編にて紹介した「四郷ふるさとの道」駐車場に掲示されていた案内地図では徒歩で小左衛門墓所を訪問しようとする県内外観光客は現地にはたどり着けない、ということだ。もちろん、自分が通ったように県道から迂回し「秋の小径」を経由して行く方法もあるだろう。が、であれば舗装道路に案内板を敷いてまで設けた何のための「四郷ふるさとの道」なのだろう。【四郷風致地区】の散策路として整備したと思うのだが、案内板に従った道路では実際には「秋の小径」へ行けないのだ。

「四郷ふるさとの道」駐車場東の登り口道路にある案内板。この先がジャングル参道(笑)

室山町にある四郷郷土資料館では、戦前の修身教科書でも紹介された5世伊藤小左衛門の功績と明治産業の歴史等が紹介されている。さらに同資料館入口にも「四郷ふるさとの道」駐車場にあるものと同じ案内地図が掲示されており、同様に小左衛門墓所も明記されている。案内地図の通り、「四郷ふるさとの道」を使い資料館で紹介してくれていた小左衛門墓所を訪ねようと思ってもたどり着けない。そして、妙なことに墓所の実際の位置は室山町ではなく隣の八王子町に建っている。全てが矛盾だらけに感じるのは自分だけだろうか。

この何かねじれのようなものを感じる疑問は、江戸末期から昭和初期に3代にわたって生きたそれぞれの伊藤小左衛門ら(5世~7世)の実際の生き様と歴史、そして当時の地元住民との関係を知らなければ、おそらくは分からない。良い事のみばかりを伝えるのが子孫への正しい伝承ではない。伊藤小左衛門氏の存在は八王子町の丘の上の墓所同様、いずれ歴史の波中に消えていく運命なのかもしれない。

・・・最後、話がそれてしまった(笑)。

 

(※終わり)

小左衛門家墓石を探訪する(中編)

「四郷ふるさとの道」駐車場を出て東側、南北に走る2車線の三重県道8号(環状1号)線を北上し、登り坂を下った左側に「秋の小径」の入口はある。入口に「秋の小径 のぼり口」と書かれた青い看板が立っているが、駐車場を出て北上する車線の方からだと下り坂の終点付近でUターンをする形状になっているため看板も見辛くやや入りづらい。

「秋の小径」入口前。奥に建つ青い看板が目印(※反対車線の歩道より撮影)

看板の拡大写真。

…詳しいことは知らない(笑)が、おそらくこの「秋の小径」は基本的にウォーキングなど徒歩移動前提の道路らしく自動車が進入・通行できる仕様にはなっていない。よって道中には駐車場等はないようだ(※ただ道路整備の必要上舗装されているし整備車両の入る道幅は確保されている)。自分も奥へは不必要に入らず、他車両の通行の妨げにならないよう途中やや道幅が広くなった箇所に自動車を停め墓地を目指すことにした。既に小径の左右は草木が生い茂っている。訪問当時(6月)は既に気温が高い時期だったが、木陰だったのが幸いしそれほど暑さは感じない。

入口から50mほど入った道脇に駐車。さらに10mほど奥に進んだところで撮影。

「秋の小径」は左右に蛇行しながら少しずつ登り勾配になっている。左右は竹林となっており、路肩には茶色くなった竹の落葉が敷き詰められている。さらに奥に進むと、道路右側に建つ「秋の小径 東入口より200m ボランティア八王子」の看板が目に付く。そのさらに少し先、小径が右カーブを描く手前左側に建つ電柱のそばに階段が数段作られていた。近くにコンクリート境界柱は立っているが、それ以外は周囲に何かしらの案内看板等は見当たらなかった。

小径右側に建つ「東入口より200m」の看板。その先の右カーブ手前の左側に電柱が建つ

電柱そば左側に登る階段が見える。行先の案内板などは特にない

階段を登ると左側に白いフェンスで囲まれた変圧器のような倉庫のような建築物が見えた。来る途中左側にソーラーパネルが見えていたのでその関連設備機器だろう。周囲を囲む白いフェンスと木々の間から遠くに墓石が見えている。あれが小左衛門墓石に違いない。フェンス右横を通って墓地に向かった。

階段を登り切り左側を向く。白いフェンスと木々の間から墓石がわずかに見える。

ソーラーパネルが林立するフェンス右横の細道をアップダウンしながら墓石へと進む。だがここにきて初めて階段とともに足元には敷石が並べられており、ようやくいかにも参道っぽい雰囲気を醸し出していた。高低差があるためか、目の前に見えているはずの墓石だがまだ結構な距離感があるように感じた。

墓石(写真中央)へ向かい敷石と階段が延びる。写真の通り参道は結構な高低差がある

上写真の参道最下部まで到達する。結構な段差で一時的に墓石がほとんど見えなくなるほどの高低差だ。眼前の左右に蛇行する階段を登れば墓地に到着するが、写真の通り石積みやコンクリートではなく土留めのみで作られた階段のため、おそらく悪天候時は足元が非常に危険な状態になるだろう。ましてやこの高低差では足腰の弱い高齢者となれば参拝は容易ではないのではないだろうか。

参道の最下部。生い茂る草と段差でわずかに墓石の頂上部しか見えない(写真中央)

ようやく小左衛門墓所に到着。駐車場からのジャングル踏破を断念(笑)したこともあり移動時間も含むとここまで1時間近くはかかっただろうか。墓石正面には参拝者の立ち位置を示すかのように平長石が置かれ、墓所周辺はさすがに雑草などもなく美しく整備されていた。ただ背後に白いフェンスとソーラーパネルが無造作に並び、写真的にはやや無粋ではあるが仕方ないといったところか。パネルが設置される以前は墓石背後も竹林で覆われていたのかもしれない。

左が伊藤家累代墓、右が5世小左衛門兄弟(小右衛門、小三郎、所左衛門)共同墓

前編で紹介した案内地図にもあった通り、今回通ってきた参道は墓所正面に出てくるわけではなく墓所の裏手に回り込み上写真左横側から登って墓所に入る形になっている。当然ながらこれほどの規模の墓所に横から入るのが正規ルートであるはずがなく、別に墓所正面に至る本来の参道があったと考えるべきで、それがおそらく前編で踏破を断念した(笑)墓参ルートだったのだろう。実際、墓所正面には石積み作りの階段が存在しており、参道らしき細道が延びているのを確認している。

今回は敷地左側やや後方にある階段から登ってきた(赤矢印付近に階段がある)

墓所正面にある石積作りの階段。木々の陰と苔生した様子が荘厳な雰囲気

 

次回、後編では本来の参道であったはずのルートを「探検」してみる(笑)。

(※続く)

 

 

 

 

 

小左衛門家墓石を探訪する(前編)

6月のある日、四郷地区にある「伊藤小左衛門家累代の墓石」を訪ねた。三重軌道㈱及び伊藤小左衛門家関連の調査で四郷郷土資料館を訪ねた際、現地に建っていた四郷地区案内図にも墓地所在地が書かれておりいつか訪問しようとは思っていたが、墓石自体には既知情報しか記されていないことを事前に知っていたためこれまでは放置(笑)していた。今回機会を得て初訪問した訳だが、まさに「探訪」と表現するにふさわしい墓参をさせて頂いた(笑)。

 

伊藤小左衛門の墓石は、かつて製絲場・製茶場や本宅のあった室山町でなく隣の八王子町にある。「神楽酒造」前の道路を西へ直進し、八王子町内にある墓地に最も近い公衆トイレ併設の「四郷ふるさとの道駐車場」に車を停めここから歩いて目的地を目指す。現地に行けば分かるが、駐車場のすぐ北側は小高い丘陵地帯になっており、墓地はこの丘陵上にあるとすぐ想像できる。ちなみに、下画像が現地駐車場に掲示されている案内地図。中央やや左、現在地を示す赤丸部分からすぐ左折し細道を進む(登る)と目的地、と案内されている。

八王子町にある「四郷ふるさとの道駐車場」に掲示されている案内板。赤丸部が墓地

案内通り、駐車場前の道路を東進するとすぐ左側に細道が現れる。入口角には看板屋さんの建物と駐車場、交差点の足元には四郷ふるさとの道を示すプレートが設置されており、この細道を登れば良いとすぐ分かる親切仕様になっている。この調子なら30分もあれば墓参を済ませて帰宅できそうだ。

駐車場すぐ東側にある四郷ふるさとの道入口。道路には案内プレートもある

・・・と思ったが、細道に入って50mも進まないうちに舗装された道路は途切れ、その前方には信じられない光景が広がっていた。木々の枝葉や雑草が左右から迫り、人一人がやっと通れるような幅の落葉に覆われた”獣道”が延びている。足元の落葉からわずかに顔を見せている階段?のように整備された建造物の並び(画像でもほぼ判別出来ない(笑))だけが、ここが「四郷ふるさとの道」ですよ~と主張しているように思える。

入口から徒歩約10秒、看板屋さんの建物前を過ぎるとすぐ”獣道”になっている

「いや、無理でしょ・・・」

そんな状態とは予想もしてないから虫刺されスプレーも長袖シャツ(※かぶれ防止)も鎌も持ってきてないよ(草刈りもする気はない)。でも案内板にあるのだからと無理やりさらに直進してみるが、予想通りその先は獣道すら途絶えもはや完全にジャングル状態で前身不可能、仕方なく引き返すことに。小左衛門墓地を訪問したい人にとって、駐車場のあの案内板は”初見殺し”だな(笑)・・・まあわざわざ県内外からそれだけのために訪問する人はいないということなのかもしれない。誠に遺憾だが、目的地北側にある「秋の小径」側から墓地を目指すことにし、再度自動車で移動することにした。

遊歩道となっている「秋の小径」。赤矢印の道から墓地を目指す

行ったり来たりを繰り返していたので、ここまでで既に30分近くを費やしている。

 

次回、「秋の小径」から墓地まで。(※続く)

西日野駅の歴史に迫る【2025年版】

2025年になりました(笑)が、引き続き現時点での調査結果報告を続けてまいります。

今回は西日野駅。現在では四日市あすなろう鉄道㈱八王子線の終点駅となっているが、ご存じの通り以前は終点・伊勢八王子駅までの分岐後の中間駅の一つで、こちらも室山駅同様に何度かの形状変更を経て現在に至っている。実は西日野駅の変更の経緯や時期は前出の室山駅とほぼ同様で、唯一決定的に違うのは同駅が「設置位置を変え現在も存続している」という点だ。今回も同駅を歴史的に区分してみる。ほぼ室山駅と変わらないが、一応。

初代:西日野停留場(大正元(1912)~大正5(1916)年頃)

2代目:西日野停車場(大正5年頃~昭和3(1928)年頃)

③乗降場を変更した、正確な形状が不明な2.5代目西日野停車場(昭和3年頃~昭和7(1932)年頃)

3代目西日野駅(昭和7年頃~昭和49(1974)年7月25日)

4代目西日野駅(昭和51(1976)年~現在)

に大きく分けられると思われる。このうち①~④に関しては前出室山駅の変更経緯とほぼ同様の理由で、➁の停留場から停車場への変更も同じく三重県立博物館所蔵『三重鉄道敷設関係図面』にて貨物側線を備えた➁2代目西日野停車場の形状を見ることが出来る(※下画像参照)。ただし、同駅は当初から室山駅のような貨物用建屋までは併設されておらず、あくまで行違い用の避退側線の役割も兼ねたような側線のみの設備になっているようだ。なお、線路北側を並走する道路「水沢街道」を挟んだ向かい側に待合所が設けられているらしきことも同図面から分かる。

『三重鉄道…図面』内に記された西日野停車場の設計図面。位置は変更ないようだ

しかしながら、西日野駅は軌道線区間(天白川沿い)を走る八王子線に設置された停車場の形状を後世に伝える歴史的価値という意味では非常に重要な役割を持っている。それは駅形状の変更に関する視覚的史料(写真)が現存しているという点だ。昭和時代まで残っていた天白川沿いの西日野・室山駅ホームは線路を挟むような形で設置されていたが、上図面を見ていただいても分かる通り少なくとも①~③までの歴史区分時代は駅ホームは軌道線路の北側、つまり天白川と線路に挟まれるような形でホームが設けられていたと考えられる(室山駅も同様)。西日野駅にはこれを裏付ける当時の写真が残されており、「出征兵士の見送り」写真として四日市市の郷土写真集等でも広く紹介されている(※下画像参照、出典先三重交通50年のあゆみ』P.30 より)。

写真下説明文では撮影時期は(昭和7年)としているが書籍により撮影時期が若干異なる

左端には線路南側に設置されたホームと待合用屋根らしき建造物が見える。電柱(?)の後ろにはホームに沿うように落下防止用の柵らしきものが見えるため、写真には写っていないがおそらくその先(南側)には天白川が流れているのだろう。後に番外編として紹介するが、西日野駅室山駅間に一時期設置された「清水橋停留場」の写真と共に天白川沿いの軌道線路時代の駅形状を現代に伝える写真としての価値は非常に高いものであり、開業当時から昭和時代の水害による廃線・短絡、そして現代に至るまで八王子線全ての時代変遷を視覚的に追求できる唯一の停車場として西日野駅の存在はなくてはならないものであるといえよう。

 

現在の西日野駅前の案内板に掲示されている、昭和49(1974)年7月25日に発生したいわゆる「49水害」前日まで営業していた駅ホーム南側に線路が走る西日野駅の姿はまだ多くの人の記憶に残っていることと思う(※下画像参照、現駅前案内板より)。

旅客用屋根が片屋根に変わっている。線路が南側になった時に設置されたものだろう

が、実は国立公文書館所蔵の鉄道省文書』を紐解いてみても、西日野駅がいつ上写真のような形状に変更されたのか正確な時期を特定することは出来ていない。昭和7年④3代目西日野駅時代に貨物側線が撤去されたことまでは判明している(※同年2月24日付「停車場変更届」、文書画像は前出「室山駅の歴史に迫る(後編)【2024年版】参照」)のだが、変更時の図面が現存しないため駅ホームはそのまま流用したのか、あるいは配置変更したのかどうかまでの断定には至っていないのが現状だ。新たな史料発見か先達の新証言が待たれるところである。

また④3代目西日野駅時代は、細かく言えば「非電化(蒸気・瓦斯倫)」「電化」の時代にも分けられる。長く未電化状態だった日永~伊勢八王子間も戦後昭和23(1948)年ようやく電化されるが、開業当初からの利用客不足は相変わらずで昭和40年代初頭には廃線の覚書まで交わされていたほどであった。そんな状況下での前出「49水害」により、天白川沿いを走っていた八王子線線路敷は濁流によって一部路床下部まで完全に流出しレールが宙吊りになってしまうほどの壊滅的な破壊と被害を受けたことで一気に廃線への流れとなった。水害後約3年間の「休止」という状態を経て旧西日野駅伊勢八王子駅間は廃線となり、昭和51年に現在の位置まで線路を短絡化した状態で⑤4代目西日野駅は再開業することとなり現在に至っている。

 

戦後経済成長とともに自動車全盛の時代であった昭和30~40年代の八王子線は、その存在により現地の道路幅を大きく狭めており周辺住民たちにとって「大きな交通障害」そのものであった。当時を写した写真でも狭い道路を歩行者が歩く中を大型路線バスがそのすぐそばを走行しているような危なっかしい光景が見られるし、実際そのような類の証言も残っている。水害という偶発的災害が契機にはなってはいるが、いずれにせよ最終的には同じ結果(廃線)になっていただろう。それが当時の周辺住民の民意であったろうし、そこに間違いはないとは思う。…が、仮に現在も八王子町(伊勢八王子駅)まで線路が残っていたとしたらどうだっただろうか。現在の笹川団地高花平団地も、廃線後開校した四郷高校も、現在も四郷地区に住んでいる住民らの四日市市街への交通手段も、今とは少し違った様相になっていたかもしれない。そんなことを思うのであった。

 

有難うございました。次回は番外編、八王子線区間にかつて存在した廃駅たちの紹介にしようかと思います。(※終わり)