【緊急】室山駅の新たなる謎を発見

つい2週間前、「室山駅」について現時点での自身の見解と考察を書いたばかりだが、先日別件の調査で今年3月にリニューアル(耐震補強)工事を終え再開館した「旧郷村役場(現・四郷郷土資料館)」を訪問させていただいた際、話の流れで同資料館内に保存されている郷土資料を直接閲覧させていただく機会を得ることが出来た(☆同資料館関係者の皆様のご厚意、心より感謝申し上げます☆)。そこには主に江戸~昭和初期にかけて四郷周辺の経済を支えた「伊藤醤油部」その他地元民間企業の売上伝票など当時をうかがい知ることのできる多数の貴重な史料が所蔵されていた。その史料中から「室山駅」の変遷における新たな情報が出てきたので、緊急報告として前回ブログ記事と関連付けながらこれを紹介していきたいと思う。

 

まずは現地で発見した青図面を紹介する。

同図面には正式な工事名称は書かれていないが図面は「工場地域平面図」となっている

この図面は、当時の室山駅北側の「伊藤メリヤス㈱」工場から当時の三重交通八王子線室山駅上空及び天白川上を横断し、南岸の(元)伊藤製茶部工場敷地へ電線を架線したい旨の申請図面の一部であろうと推測される。図面中央部には天白川北岸の室山郵便局横から天白川南岸の河川敷付近まで赤ボールペンで南北に横断するラインと✖印(電柱か?)が引かれており、右下には「昭和二十三年吉日」「伊藤メリヤス株式会社」の文字が確認できる。実際の工事内容の詳細や実現の有無等は残念ながら不明だが、この図面中には衝撃的な様子が描かれている。

前回ブログで、「室山駅」の変遷を4つの時代に区分し昭和49(1974)年7月の水害まで稼働した④3代目室山駅を「昭和7(1932)年~昭和49年」としていた。さらに、その一つ前の③2.5代目室山駅(昭和3(1927)年~昭和7年)形成の際に

「それまで存在していた転轍機を撤去する際、(おそらく)同時に軌道(線路)敷を再び天白川最北岸に戻したのではないだろうか」

という仮説を立てつつ紹介したと思う。仮に前回の仮説が正しいとすれば昭和7年時点で八王子線線路は既に天白川北岸寄りに移設されているはずで、当然この図面が作成された昭和23(1948)年時点でも線路は室山駅プラットホームと天白川に挟まれる形に走っているはず・・・なのだが、図面をよく見て頂ければ分かる通り線路は未だプラットホームの北側を走っており、道路と接する形になっているのだ(下画像、赤丸部参照)。

この図面の通りなら、当時の室山駅ホームに行くには同線路を渡らねばならない

昭和23年といえば八王子線(日永~伊勢八王子)区間が電化される年でもあり非常に微妙な時期だ。残念ながらこの図面作成時期が電化される「前」なのか「後」かを正確に知る術はない。が、それでも間違いないのは「前」だろうが「後」だろうが同図面が作成される昭和23年までは室山駅ホームの北側を線路が通っていた可能性が高いことを示す重要な史料だ、ということだ。前回の自身の解釈がわずか2週間にして覆される(笑)という皮肉な発見に面白いやら申し訳ないやら複雑な心情が・・・。原因は戦後三重交通㈱」「三重電気鉄道㈱」「近畿日本鉄道㈱」と次々に管轄する鉄道会社が変わる八王子線の同時代の公文書調査と確認が行き届いていないため発生した誤りと思われ、これらに関してはいずれ公文書調査等により正確な時期や経緯が報告できるよう対処できればと思います。とりあえず現時点では正しいのかどうか不明ですが、前回ブログの内容は誤りの可能性も高いため、ここで謹んでお詫び申し上げます。

さて、そうなるとさらに面白い事実が浮かび上がってくる。現在でも在りし日の室山駅を撮影したものとして現・西日野駅前の看板にも紹介されている写真には、古枕木等を使用しいかにも「後付けしました」的な木製の延長プラットホームとその下に隠れる四日市方面に延びるコンクリート製スロープの様子が鮮明に写っている(※下画像参照)。

数多く残る室山駅の写真のうちの一枚。写真手前は既にカーブに差し掛かっている

このおかしなホーム形状はおそらく蒸気機関車での運行当時は客車2両連結だったためホーム長が足りていたが、電化されたことで駆動車両を含めた客車3両となり従来のホーム長では足らなくなってしまったために延長されたホーム形状」だと考えられる。つまり、室山駅のプラットホーム自体は線路の移設(蒸気機関車から電化へ)の過渡期を経てもなお場所自体は全く移動しておらず、乗降場所が北側から南(天白川)側に移動した(線路が移動しただけ)という風に考えるのが自然だろう。公文書の確認が出来ていないので最終的な結論はまだ出せないが、昭和23年の八王子線電化に伴い線路を室山駅ホームの南側を走るような形に移設、乗降場を反対面に移し木製ホームを延長するという変更工事が行われたのであろう。・・・が、地元郷土史等の伝承を見ても戦後最近の線路変更工事にもかかわらず「電化の際に室山駅乗降場の向きが変わった」「線路の位置が変わった」などという見聞や証言は不思議なことに今のところ全く見当たらず、実際にそういった工事が行われたかどうかの確証はない。これら戦後直後の変更の検証も今後の調査対象であろう。

 

とりあえず、緊急報告として挙げておこうと思う。当時の状況を知る方の証言などを頂戴できれば有難いのだが。

(※終わり)

室山駅の歴史に迫る(後編)【2024年版】

後編は前回紹介した「室山駅」の変遷4区分のうちの後半、

③正確な形状が不明な、2.5代目:室山停車場(昭和3(1928)年~昭和7(1932)年頃)

近鉄時代(廃線時)まで活躍した3代目:室山駅(昭和7年~昭和49(1974)年)

を解説していく。③~④への駅形状の変遷に関しては図面等も現存しないため、解釈の仕方には異論あるかも知れないが「一個人の見解」として読んでいただければ。

 

③2.5代目室山停車場が、その内容と判断が最も難しい時期だ。まずは根拠となる鉄道省文書』を見ていこう。昭和3年2月2日付「停車場構内変更並ニ増設届」がそれで、基本としては瓦斯倫自動客車(ガソリンカー)併用に伴う各停車場・停留場の乗降場設備等の規格(サイズ)変更がメインの内容となっている(※下右側画像、主文)。文書中には

昭和3年2月2日付「停車場構内変更並ニ増設届」。2頁目に「室山停車場」の変更項目が

室山停車場の変更点も列記されており、そこには

「室山停車場 配線変更乗降場ノ変更 上屋最近柱類の移転」

とある(※上左側画像、赤線囲み部参照)。残念ながら同文書に添付されていたであろう
(変更)青図面は現存しないため、どのような「配線変更」及び「乗降場変更」がなされたのか正確なところは不明だ。が、その後の昭和7年2月24日付提出の鉄道省文書』での同停車場の変更点(※この変更により昭和49年まで活躍する最終的な④「室山駅」が形作られることになる)とを照らし合わせることで、当時のおおよその変更内容が見えてくる。という事で、鉄道省文書』昭和7年2月24日付提出「停車場変更届」の内容を確認する。同文中では

「一、室山停車場下り対向四番転轍機を撤去し別紙図面の通り変更す」

とある(※下画像、赤線部参照)。同文書も同様別紙(変更)青図面は同梱されていないため正確な内容は不明だが、この時点の変更点は「下り対向4番転轍機撤去」と何らかの配線変更が行われた形跡がある(※本線上転轍機を撤去するのだから当然のこと)ようだ。

昭和7年2月24日付「停車場変更届」「四番転轍機撤去」のみで乗降場等に変更はない

ここで、改めて前編で紹介した大正5(1916)年作成の室山停車場設計青図面を提示しつつ昭和3年時と昭和7年時の変更点を確認していく。図面では上り(四日市方面方向=即ち西側)側には5番転轍機、下り(伊勢八王子方面)側には4番転轍機が設置されている(※下画像参照、黄丸が4番、赤丸が5番転轍機)。昭和7年2月24日付文書(※2度目の変更)の際は下り方面4番転轍機のみの撤去となっているため、最初の変更時である昭和3年2月2日付文書では上り方面5番転轍機のみ撤去した可能性が高いと考えられる。つまりこの時点

黄丸が4番、赤丸が5番転轍機。赤線が変更後の貨物側線の形状(※独自推測)。

では貨物側線が行き違いの避退側線の役割を終え、貨物車留置のみの行き止まり線路になったことを意味する(※上画像、赤線形状参照)。これはあくまで個人的想像だが、3年後の昭和6年には伊勢八王子停車場の貨物側線も撤去されており、昭和初期段階で既に「伊勢八王子停車場(下り)方面」への貨物輸送の需要はほぼなかった(※仮にあっても四日市方面へ運ぶ(上り)方面のみ)と言って良いだろう。が、依然室山停車場から四日市方面への貨物輸送は引き続きあったのかもしれない。それ故、昭和3年当時の最初の変更では貨物側線(※留置線)は残されたが室山停車場から伊勢八王子方面へ向かう(下り)側への分岐(5番)転轍機は撤去されたのでは、と考えられる。郷土史等で掲載されている

(室山駅に)引き込み線があった」

とする一部の証言はおそらくこの時期の室山停車場の形状を伝えたものだろう。さらにもう一文、

「乗降場ノ変更 上屋最近柱類の移転」

については、室山停車場「乗降場の位置変更及び乗降方向変更」「線路に最も近い貨物上屋支柱類撤去」を指していると思われる。これら内容をあえて分かりやすく簡潔に表現するならば、「一番北側の貨物側線を残しつつ、あとは全て天白川北岸に軌道を敷いていた三重軌道㈱時代の状態に戻すということになるだろう。前出「室山停車場」設計図面(※断面図)に変更箇所内容を加筆しその内容を要約すると以下の図のようになる(※下画像参照、あくまで個人的解釈なのでその点はご了承下さい)。これら変更

最北部の貨物側線を残したうえで、大きな変更内容は4箇所(赤、黄、桃、緑色)となる

による大きな利点は、通常運転している旅客用軌道が天白川北岸に寄ることで停車場両端の水沢街道横断踏切道がなくなり道路交通への支障が最低限となること。もちろん、残置された貨物側線からの貨物車牽引の際は踏切道により一時的に交通が遮断されるがそれほど頻繁な回数はなかったであろうと推測され、何より一般交通者との事故発生の可能性が激減しかつ円滑な運行が可能になったはずである。後に近畿日本鉄道となり昭和49(1974)年7月「49水害」の被害を受けるまで存続し続けた④3代目「室山駅」の線路及びプラットホームの原型はこの時完成されたものと思われる。なお、残る上屋最近柱類の移転に関しては、何処へどのような形で移転したかは不明だが、おそらく行き止まりになった貨物側線末端の上屋下部付近に移動したのではないかと推測される。

 

そして最後の④近鉄時代(廃線時)まで活躍した3代目:室山駅(昭和7年~昭和49(1974)年)の解説に移る。前出にて紹介した通り、改めて鉄道省文書』昭和7年2月24日付提出「停車場変更届」の内容を紹介する。

「一、室山停車場下り対向四番転轍機を撤去し別紙図面の通り変更す」

前出「停車場変更届」。次回でも触れるが、西日野停車場も同様に側線を撤去している

文書通り4番転轍機を撤去=文章では表現されていないが、残置されていた停車場最北部の行き止まり貨物側線(留置線)も、さらに貨物上屋も同時に撤去されたと考えるのが自然だろう。別添の変更図面が現存しておらずその詳細が掴めないことが残念な限りだが、おそらくこの時点で昭和時代まで続き現在も多くの方の記憶に残る近畿日本鉄道時代(=※最初期の三重軌道㈱時代)の「室山駅」と単線軌道の形が完成されたと考えられる。その後昭和23(1948)年に八王子線の電化が進み、従来より蒸気機関車+客車2両だった車輛編成が電動客車3両が可能な時代になると従前のプラットホーム長では長さが足らず乗客が乗降できない事態が発生、板張り木製ホームで延長されている姿(笑)などは現在でも写真に残されているのでご存じのはずだ。しかし基本ベースは同時代より何も変わっていないと思われるため今回の区分からは除外している。

 

 

以上が現時点での「室山駅」に関する現在の個人的見解だ。まだまだ調査途中であり、今後も新たな解釈と発見により内容が変化していくこのもあるだろう。ただし、途中で様々な形状変更があったとはいえ、大正5(1916)年から昭和7(1932)年までの約16年間「室山駅」「貨物側線があった」ことは疑いようのない事実なのだろう(※自分はこの目で見たわけではないので断定口調では言えない)。最初にも書いたが、それとわずか5年ほどしか存在しなかった①三重軌道㈱室山停留場との記憶違い、記憶の混同などはむしろ「あって当然」だろう。当時に写真や絵にして残していたならまだしも、時間の経過した人間の記憶ほど曖昧なものはないのだから。今回の前後編は、多くの「記憶」と「記録」を照らし合わせたうえでの一個人の私見だが、何かのお役に立てば。

 

有難うございました。次回は「西日野駅」の予定です。 (終わり)

 

 

 

 

室山駅の歴史に迫る(前編)【2024年版】

第2回は前回の終点・伊勢八王子駅(現・四日市あすなろう鉄道八王子線)の一つ手前、「室山駅」の歴史について「前・後編」の2回に分けて迫っていきたいと思う。…なお、これ以降も同様に東方向へ、つまり起点駅(四日市駅)方面へと順次紹介していくことにする(※途中「番外編」を挟む予定)。

 

「室山駅」も前回の伊勢八王子駅同様、最初期の大正元(1912)年8月三重軌道㈱開業時の区間中に設けられた駅の一つだ。前項でも触れた通り、三重軌道㈱八王子線の終着駅・八王子停車場が開業直前まで一時的に「室山」という仮名称を使用していた時期があるが、最終的には実現していないのでここでは無視することにする。そのうえで同駅の歴史的変遷を区分すると

①初代:室山停留場(大正元年~大正5(1916)年頃)

➁2代目:室山停車場(大正5年頃~昭和3(1928)年頃)

③正確な形状が不明な、2.5代目:室山停車場(昭和3年~昭和7(1932)年頃)

近鉄時代の廃線まで活躍し続けた3代目:室山駅(昭和7年~昭和49(1974)年)

という四時代に分けることが出来るかと思う。それぞれの時代の室山駅について、公文書等の史料とともに解説していく。

 

①初代:室山停留場は、大正元(1912)年8月~大正5(1916)年12月にかけての三重軌道㈱時代に天白川沿いに設置されていた「西日野」同様の簡易な乗降場のみの「停留場」だったと推測される。形状は現在でも写真が残されている当時の「西日野」「清水橋」停留場同様、線路(北側)と天白川(南側)に挟まれる形で乗降場があったのみと考えられるが、それら停留場の詳細な形状を示す公文書的史料は現在のところ発見できていない。唯一、当時停留場が設置されていたであろう位置(哩程)を示す図面が存在するが、図面の性質上あえてここでは紹介せず次項➁で説明することとする。なお、一部郷土史等の書籍で当時の室山停留場「引き込み線」「貨物側線」があったとする記載が多々見受けられるが、少なくとも三重軌道㈱「室山停留場」時代にはそれらの設備は存在していなかった可能性が高く、おそらくは前述した開業前の八王子停車場、もしくは三重鉄道㈱移管後で後述する➁室山停車場との記憶の混同と考えられる(※詳細に関しては➁を参照)。…もっとも、この停留場自体が開業後わずか5年ほどの期間しか設置されていなかったうえ、当時の一般庶民が乗車賃も高かった当時の路線に頻繁に乗車していたとは考えにくく、記憶にも記録にも鮮明に残っていないのは仕方がないことかもしれない。

 

➁2代目:室山停車場は、大正5(1916)年12月に軽便鉄道として三重鉄道㈱が開業した際に設置された貨物側線設備を備えた停車場だ。こちらの停車場の詳細はきちんと図面で残されており、三重県立博物館所蔵『三重鉄道敷設関係図面』中に当時作成したと思われる室山停車場の設計図面(平面図・断面図)が残されている(※下画像参照)。

「室山停車場」の「平面図」と「断面図」。立派な貨物駅建屋が作られる計画だった

同図面では、本来天白川北岸を沿うように走っていた旧軌道をいったん内陸部(北側)へ移動させ、さらにその北側に貨物用避退側線及び倉庫と上屋を設けようとしている。同時に軌道と並走していた「水沢街道」も停車場部分のみを南側(※天白川北岸、本来軌道が敷かれていた場所)に寄せ、停車場東西で軌道と交叉させ踏切道を設けるような形状に変更している。これらはもちろん貨物建屋を設け駅構内敷地を広く取るための措置だ。それに対し、旅客用乗降場はその2線路と天白川に挟まれた最南端側に設けられ片屋根の待合所もないような簡素な構造となっている(※後に鉄道院側から待合所的な設備を設置するよう指示が出ている)。この形状だけでも三重鉄道㈱移管後の運行形態がいかに貨物運輸に重点を置いていたかがうかがえる。ちなみに、三重鉄道㈱は同年12月1日付で軽便鉄道として再開業する訳だが、この設計変更図面は開業約1か月半前の同年10月12日付認可で、とても12月開業に間に合うような規模の改修内容(ほぼ新築(笑))ではない。その結果、開業を優先するため当初「停車場」扱いで申請していた同駅を同年11月16日付で再度「停留場」に申請し直す(既存の室山停留場、あるいは乗降場のみを優先し施工する)ことで開業に間に合わせている。(※下画像「工事方法認可申請書」及び「理由書」参照)。

大正5年11月16日付「工事方法変更認可申請書」。室山・西日野両停車場について言及

同申請書添付の「理由書」。「急速ヲ要シ候事…一旦停留場トシ運輸開始」とある

これら文書の存在から、同年12月の三重鉄道㈱再開業時には2代目室山停車場は実際はまだ全体(特に貨物駅建屋等)が完成していなかった可能性が非常に高く、さらにその後の同停車場工事の完成報告を示す公文書が現時点で見つかっていないため、同停車場がいつ完成しいつ開業を始めたかも現在のところ不明なまま、というのが実情だ。これは図面にあるような貨物建屋を含めた同停車場が本当に図面通り完成し実際運用していたのかどうか、正確な経緯を確定させるためには今後の更なる調査と新史料発掘が急がれるところだ。

なお、上図面にもある通り室山停車場の中心哩程は起点より「3哩21鎖」とあり、同図面右端には三重軌道㈱時代の①初代・室山停留場があったと思われる箇所の「元停留場位置」(※3哩23鎖)の記載がある。この図面中の記載から①初代・室山停留場は➁2代目室山停車場より約40m西側にあったことが同時に分かる。

※…余談だが、今年3月リニューアル(耐震補強工事)オープンした四郷郷土資料館が改修される以前の同資料館には「三重軌道開通」と称された室山駅周辺の地図が掲示されていた(※現在は展示されていない、下画像参照)。「三重軌道開通」と書かれているが、形状から見てもこれは三重鉄道㈱時代の2代目室山停車場のことだろうと推測される。表記的には観覧者に対し時代錯誤を生じさせる誤記載にはなっていたが、前出設計図面にはない当時の周辺店舗や伊藤醤油部・笹野酒造部等工場の立地情報が書かれたもので、郷土史料としては一定の価値のある貴重な地図であると言えよう。

耐震補強改修前の四郷郷土資料館内で展示されていた室山駅を紹介するパネル。

 

今回は、大正元年三重軌道㈱①室山停留場昭和3年三重鉄道㈱➁室山停車場までを紹介した。次回「後編」は、昭和3年以降について書いていく。

伊勢八王子駅の歴史に迫る【2024年版】

三重軌道㈱八王子線(現在の四日市あすなろう鉄道八王子線)の歴史についての研究調査を開始したのが2019年あたりだったろうか・・・それから約5年経過しました。ここらで備忘録的意味合いも兼ね、一度これまでの調査結果をまとめてみようかと思い立ちました。・・・というのも、当ブログの自分の記事自体が、その都度入手した最新情報や見解を紹介することによりその内容や解釈が変化し続けているため、過去の記事を見て自分自身も混乱している(笑)事態に陥っているからだ。5年という節目(?)に自分自身での現時点での調査結果とそれに対する(個人的)歴史的解釈をはっきりさせておこう、というわけだ。

三重軌道㈱という「併用軌道」の(※三重軌道㈱軽便鉄道ではない)歴史を簡単に解説するには、最もイメージしやすいと思われる沿線の「駅」設立の歴史を一つずつ紹介しつつ当時の時代と歴史背景を書くのが分かりやすいと思う(そのついでに同時に現時点での自分の個人的解釈も合わせて書くことにする)。第1回目は、同鉄道の設立経緯的にも初期段階で最も西側にあったかつての八王子線の終点駅、「伊勢八王子」から始めたいと思う。

 

三重軌道㈱(現在の四日市あすなろう鉄道)の新旧含めた「営業路線」中最も西側に位置(※注1)し、かつ最も最初期に開業した駅が「伊勢八王子」駅だ。同駅が現在の四日市あすなろう鉄道八王子線」にあたる路線の終点「停車場」として正式開業したのは大正元(=明治45=1912)年8月14日となっている(※ただ、現時点で『官報』鉄道省文書』といった公式文書中で開業日を明記した文書は未だ発見できていない)。が、大正2年発行四日市市統計要覧』『土木局統計年報』等の書籍では同開業日が明記されているうえ、さらに伊勢新聞大正元年8月15日付記事では同開業日の日付に加え各停留場や運転間隔・所要時間・運賃や開業日当日の一番列車情報なども詳しく掲載しており、

伊勢新聞大正元年8月15日付記事「三重軌道開業」この新聞記事のみが詳細を伝える

さらに開業式等の式典は先の明治天皇崩御により「御大喪中に付謹慎を表し」開催しない旨まで報じている(※上画像参照)。これは現時点で開業当時の状況が良く分かる唯一の史料でもあり、これら一連の記載からこの日を正式な開業日と判断して間違いないだろう。ちなみに、記事文中にもある通り開業当時の同駅名称は一般によく知られている「伊勢八王子」ではなく「八王子」である(※「八王子村」でもない)。この後駅名が「伊勢八王子」へと変更されるには昭和時代になるまで待たねばならない。

そして八王子駅設立に関係する情報は、実は大正元年の開業以前よりも新聞で報道されていたことが分かっている。当初から終点駅として計画されていた同駅は機関車庫や客車庫、転車台等多くの設備を備えた大規模な「停車場」となる予定となっており、開業1年以上前の明治44年4月11日付伊勢新聞記事「三重軌道重役会」内では

「…室山停車場(六反歩)の埋立及び線路工事に着手し終点より漸次起点(四日市駅前)に及ぼす筈にて…」(※下画像、赤線囲み部参照(一部))

とあり、この時点で八王子駅敷地埋立工事に着手している様子が報道されている。

伊勢新聞明治44年4月11日付記事「三重軌道重役会」

なお、記事文中では「室山停車場(六反歩)」と表現されているため、後に途中駅として開業する「室山駅」周辺を埋め立てていると勘違いするかもしれないが、実はこれが八王子駅のことを指しており、前述の「室山」駅のことではない。これは明治44年当時三重軌道㈱の計画設計段階では終点駅名称を「室山」としていたことによるもので、このことは同年5月20日三重軌道㈱提出の「軌道敷設工事施工願」内の添付書類「停留場表」で終点駅名称が「八王子」ではなく「室山」となっていることからも確認できる(※下画像参照、赤線囲み部)。同表では、計画最初期17か所もの停留場を設ける

「軌道敷設工事施工願」内「停留場表」。終点の表記が「室山」になっている

予定になっていたが、最終的には停車場3か所・停留場10か所の計13か所に落ち着いている。が、これら駅名称は開業直前の翌明治45年7月末頃まで変更されることなくそのまま使用されていたようで、開業直前に改称されたと思われる。その結果、開業直前の急な駅名変更、さらに開業後同駅名をそのまま中間駅の名称に流用してしまったため、後年発行された一部の企業社史の年譜等情報では同じ駅であるはずの「当時の八王子駅と室山駅」「別々の駅」と勘違いしてしまった状態の記載が散見される。その一例としては昭和39(1964)年三重交通社史編纂委員会発行『20年のあゆみ』で、同書内では

三重交通㈱社史編纂委員会発行『20年のあゆみ』P.19より。

「明治45年7月に日永~室山間が完成、続いて1か月後に室山~伊勢八王子間が完成」と記載されている(※上画像、赤線部参照)。前述したように正式開業日は8月14日であり、「7月日永~室山間開業」を伝える公的情報は一切存在していない。一時期ではあるが同路線を経営していた三重交通でさえ、このように間違えて記載してしまう要因となったと思われる新聞記事がある。明治45年7月20日付の伊勢新聞に掲載された「江勢道路全線踏査の一行」という写真記事がそれで、これは三重県知事ら江勢道路全線踏査視察団一行が正式開業前の7月14日に「室山(※もちろんこれは実際は八王子駅を指す)~日永」間を試乗した際に「室山(※同上)停車場」で撮影した集合写真(※下画像参照)を掲載したものだ。この写真記事と「当時の八王子駅と室山駅」との誤解が重なり、7月日永~室山間開業8月室山~伊勢八王子間開業という「事後的な誤解釈」が生まれたものと推測される。確かに、「当時の八王子駅と室山駅」が同じ駅だったという事実を知らない状態で後年この写真を見れば、十中八九誰もが同様の誤解釈をするだろう。…と同時に、これは「(大正初期)当時の室山駅には貨物専用のホームも存在した」という「室山駅」に対する間違った解釈も生み出す結果になる。この誤解釈については次節の

明治45年7月20日付『伊勢新聞』掲載写真。「室山驛にて撮影」の記載が見える

「室山駅」の解説の段に譲るが、大正初期に作成されたと思われる当時の旧公図図面を見ても「室山駅」周辺では八王子駅のような「停車場」を設置するための敷地を確保していないことがはっきり分かる。逆に、前述の旧公図図面では八王子駅が存在していた箇所にははっきりと「停留場用地」と書かれた箇所が約六反歩分あり、新聞も含めた一連の記述に間違いがないことが証明されている(※下画像、旧公図参照。赤線部分が旧伊勢八王子駅があった箇所。「停留場用地」の文字も明記されている(赤丸部))。

旧伊勢八王子駅付近の旧公図図面(※2枚の図面を重ねたもののためやや分かりづらいが)

その後大正5(1916)年7月19日、軽便鉄道としての「三重鉄道㈱」が設立され、三重軌道㈱が敷設した軌道線路を継承し同年12月1日付で正式に運輸開始する。この公告は三重軌道㈱時代も含め初めて『官報』に掲載された(※同年12月8日付「通運」欄)最初の正式な公告だが、この公告の際に駅名が八王子駅から「八王子村」駅に改称されたということになっている。この後さらに「伊勢八王子」駅に改称されるのは、過去記事にて紹介した通り昭和2~3年のことになる。(※2023年4月19日記事「伊勢八王子駅名改称に関する新情報が取れた」を参照の事)

あとの経歴は皆様ご存じの通り。昭和49(1974)年7月水害により天白川沿いの西日野~伊勢八王子間線路が完全に破壊され、休止期間を経て2年後に正式廃線「八王子」の名前は路線名としてその名を残すのみとなっている。  

次回は「室山駅」となります。   (終わり)

 

 

(注1):三重鉄道㈱時代に鈴鹿支線」として大正8(1919)年日永~鈴鹿郡深井澤村間の軽便鉄道敷設免許が下付されており、同鉄道の計画線路も含めた営業線全区間中では「伊船停車場」が最も西側に位置していたことになる(資金難により実現はしなかったが)。なお、後に合併する四日市鉄道㈱(現在の近鉄湯の山線)も含めるとその終点である湯の山(温泉)駅が最も西側に位置すると思われるが、三重軌道㈱直系の鉄道会社路線ではないため今回は除外している。

 

 

 

 

約2か月何も書いてない…

ここ数年は毎度のことながら、今年の夏も猛暑でしたねえ。7月~8月にかけては毎日暑すぎて、本業の仕事をした後の休日に四日市法務(支)局へ調査作業に赴くことは出来てもFacebookの方に経過記事を残すのが精いっぱい(笑)で、ブログを更新する体力などほとんど残っておりませんでした(※年齢の影響もあるだろうか(汗))…。こんな中ブログも更新しつつ、さらに別の場所でつぶやいたりするといった具合に全時間帯・全方位でSNSを駆使する他の皆様は一体どのように体力配分をなさっているのか・・・全く恐ろしい限りです。見習いたいけど自分は到底できそうにありません(笑)。

現在は、前述通り7月から9月にかけて四日市市法務局にて請求・入手した大正初期の四日市市内の旧公図(土地)情報から三重軌道㈱が当時買収したと思われる「軌道用地」の精査を行っている最中です。これらがまとめ終わる頃には季節的にもやや涼しくなり(日没時間も早まることから労働時間も短くなることで)体力的な余裕も生まれることと思います、その際にはまた紹介していこうと思います。

・・・というか、100余年経った今でもこうして一素人の一般民(他市在住)が簡単(?)に大正初期の市内の旧公図(土地情報)を入手できているというのに、『四日市市史』を四半世紀前に編纂した同市史編纂委員会諸氏の面々は一体何をしていたのでしょう(笑)。これを見れば、どんな素人でも三重・四日市両鉄道が当時阿瀬知川に跨線橋を架設していない(※『四日市市史研究』書内にて紹介された四日市鉄道㈱が阿瀬知川を渡る祝賀列車を走らせた写真が存在する訳がない)ことが分かります。別に古代・近代の歴史を軽んじる意図は毛頭ないですが、せめて直系の祖父母世代にも関わりうる100年前程度の歴史に関しては十分精査してほしいと感じます。

 

阿瀬知川南岸の三重・四日市両鉄道貨物専用線を示す旧公図。この図面からも同貨物線が阿瀬知川を越え敷設されていないことが明確に分かる

こういった現象からも「大東亜戦争」(※敢えてそう書いている)以前と以後を境に歴史と先人達に対する畏敬というか尊敬というか、ともかくそういったものに対する考え方が大きく変わっていることに否応なく気付かされます(※気のせいだろうか(笑))。現在を生きる我々は歴史と先人の足跡から学ばねばならない。個人的意見ですが。

なるべく近いうちに更新したいと思います。

阿瀬知川貨物線に関わる「謎の写真」に迫る(後編)

前回(中編)では、上写真から見える視覚的情報のみから撮影時期と場所の絞り込みを試みてみた。前々回(前編)での矛盾点指摘分も加味すれば、上写真はおそらく四日市市史研究』第2号P.100内の紹介文にあるような「大正5(1916)年3月」「阿瀬知川鉄橋上で」撮影された「開業祝賀列車」ではないことはほぼ確定、といえる。

では、なぜ四日市市史研究』ではこのような誤った解釈に至ったのか。これには著者である椙山満氏自身によるミスリードが大きく関係している。実は同レポート文中、この写真の直前P.99においてこのような一文が書かれている。

「…写真⑦は四日市駅構内南はづれに架る阿瀬知川鉄橋の西側に1888(明治21)年建てられた関西鉄道本社事務所。1907(明治40)年10月に鉄道が国有化されたのちは後述の四日市鉄道の本社となった。」(※抜粋、なお年号は英数字に変換)

前編でも指摘した通り、四日市鉄道は創立当初本社位置を四日市市袋町107番屋敷」とし、その後大正4年5月「濱田1425番地」に移転している(※(前編)記述を参照の事)。当時の阿瀬知川北岸付近は字名こそ「濱田」であったが、番地は3900~4000番台であり到底本社位置を示す地番とは符合しえない。同レポート文を執筆した当時の椙山氏は、国立公文書館所蔵の公文書及び『官報』の商業登記はもちろん、四日市市が所有する旧土地台帳も確認せず、四日市鉄道の正確な本社住所(位置)を把握しないままこの文章を書いた可能性が高いといえる(※もっとも、縦断検索機能が充実している現代と違い当時『官報』商業登記欄までつぶさに確認する手段はなかったろうが、少なくとも四日市市の旧土地台帳や国立公文書館の公文書を閲覧・確認できる環境にはあったはずで、そういう意味での同氏及び市史編纂委員会による調査不足の感は否めない)。

大正4年1月8日付「工事竣工期限延期申請書」。まだ本社は袋町107番屋敷のままだ。

僕自身は(後に国有化される)関西鉄道の事に関してそれほど詳しくないので詳細は不明だが、椙山氏は関西鉄道本社事務所が阿瀬知川西岸付近にあったことを知っていたのだろう。同氏はおそらく、大正5年8月28日三重軌道が開業させた「阿瀬知川貨物駅(駅舎)」を元関西鉄道本社事務所跡地と結び付けたことで、同地を四日市鉄道本社と勝手に解釈したのではなかろうか。こうした「元関西鉄道本社事務所跡=四日市鉄道本社」という誤った認識にとらわれたままの状態で同5年3月の四日市鉄道諏訪~四日市市間開業、さらにかつて貨物線が阿瀬知川岸まで延びていたという事象を知っていたならば、写真に写り込んだ鉄橋を見た時に多少根拠が乏しくとも「これは阿瀬知川(貨物線)鉄橋ではなかろうか」という推測に行きつくのも無理からぬところというべきか。

ところが、それはあり得ない。…そもそも「貨物専用線」である阿瀬知川線路上を乗客を乗せ旅客車両が走行するはずがないのだ。

 

現時点で僕個人が導き出したこの写真の撮影時期と場所の最終的結論は、

大正2年9月の諏訪~湯ノ山間開業時

➁桜村~神森停留場(※当時)間の金渓川を渡る鉄橋上

で撮影された写真だと推測している。仮にもし大正5年3月の諏訪~四日市市間開業時の撮影であったとしても、撮影場所は変わらず➁金渓川鉄橋上と考えている。…白状してしまう(僕自身反省すべきところだ)が、実は前回(中編)記事を書いた時点での撮影時期・場所の推測位置と、今回の撮影時期・場所の結論とは全く変わっている

①の撮影時期を説明する前に、まず大正5年時の撮影ではない根拠を提示しなければなるまい。そのためには(これは全く知られていないことだが)そもそも阿瀬知川貨物線三重・四日市両鉄道がそれぞれ独自に敷設した線路ではなく①両社で共同使用すること、かつ➁その敷設工事の主導権は三重軌道側が握っていたことを知っておかねばならない。一連の流れを時系列順で解説すると、まず三重軌道が大正5年8月28日付で起点の阿瀬知川貨物駅(0哩0鎖)までを敷設・開業させた直後、四日市鉄道が9月2日付で四日市市停車場内側線新設ノ件」という申請書を提出する。この申請が四日市鉄道における諏訪~四日市間開業後の貨物側線敷設に対する初の行動になるのだが、これに対し四日市鉄道鉄道院より同月12日付で以下通牒文を受ける(※右下画像、赤線囲み部参照)。

「本件は四日市市停車場側線新設とあれども三重軌道阿瀬知川起点零哩零鎖より28鎖附近に至る本線及其の支線に乗入れを為すものにあらずや(ではないのか)」

同通牒文の内容から自社での貨物線新設が難しいと知るや、同月18日付で三重軌道との貨物側線共同使用協定を締結(※左下画像「協定書」参照)、

左画像:9月12日付鉄道院の照会通牒、右画像:三重軌道との貨物線共同使用協定書

両社署名の協定書を添付するとともに同月20日付で先に提出した四日市市停車場構内側線に関する一連の新設申請を却下する「却下願」を提出する(※右下画像参照)。最終的にこれら四日市鉄道阿瀬知川貨物側線に関する申請は「協定書」通り三重軌道が敷設した貨物側線を両社で共同使用する方式で10月11日付で認可される(※左下画像参照)。当然、その内容はあくまで三重軌道により申請敷設された側線計画を逸脱するものではなく、その中に阿瀬知川鉄橋を架橋するような内容は盛り込まれていない。

右画像:側線新設申請の「却下願」、左画像:認可書、中央に「十月十一日」の日付

これら一連の公文書の流れから見ても四日市鉄道が大正5年9月以前に阿瀬知川鉄橋上で同写真を撮影することはまず不可能であるし、万が一にも四日市鉄道がその後追加申請を行い独自に阿瀬知川鉄橋を架設し(※そのような物証はないが)祝賀列車を走らせるとしてもその時期は大正5年10月以降しかなりえないわけで、同年3月の諏訪~四日市市旅客営業線開業またはその後の貨物線開業の祝賀行事としてはあまりに時期外れと言わざるを得ない。残る10~12月の期間だが、実はこの期間四日市市市内では10月8日浜町で「ペスト」が初確認されて以降、年末にかけ一時市内中心部はほぼ「ロックダウン」状態となるほどの「ペスト」騒動が起こっており、そんな非常事態時に写真のような客車が満員の乗客であふれかえる様相になるはずがない。以上の理由から「①大正5年」中に「➁阿瀬知川鉄橋上」で同写真を撮影するのは100%不可能であり、撮影時期か場所のどちらか、もしくは両方の条件が異なる以外この写真は成立しえないと考えられる。そしてその時期が大正2年であることの根拠は、次の➁の解説に直結してくる。

 

次に、なぜ撮影場所を➁「桜村~神森停留場(※当時)間の金渓川を渡る鉄橋上」と推測したかを解説する。

前回(中編)の検証文中では蒸気機関車の吐き出す排煙」の方角と「開業祝賀列車だから当然始発駅は四日市市駅であるべき」という2点の理由から写真に写る列車の進行方向を菰野・湯ノ山方面(西及び北方向)と推測した。が、僕自身この時点でもともと紐付けされていた「大正5年3月」という「時期」情報に無意識に流されていることに気付く。「時期(季節)」から、「方角」「進行方向」を決めつけてしまったのだ。改めて全ての情報を見直した結果、同じく椙山氏四日市市史研究』第2号「四日市の陸上交通」P.100内のある一文にヒントを得る。そこには

「…菰野~湯の山間は上り坂なので客車は一両しかひけなかったが、それ以外の平地は二両まで。」(※下画像、赤線部分参照)。

『…研究』P.100の一部を拡大。※同誌掲載の写真では一部がカットされており本来写真右端に写っているはずの蒸気機関車や自転車、電柱などがはっきり確認できなくなっている

と書かれている。が、同写真に写る祝賀列車はどう見ても客車3両(それ以上?)を牽引しており、しかもどの車両も(大正初期にもかかわらず)通常営業運転時では考えられないほどの立ち乗り客がいる満員状態だ。こんな状態の列車が本当に上り勾配の菰野・湯ノ山方面へ向け走行できるだろうか?…常識的に考えれば、「この列車は下り勾配であり惰性でも進むことが出来る菰野四日市市方面へ向かう列車」なのではないかとなるのではなかろうか。となると、写真を撮影した際に車両の進行方向と橋梁との位置関係(※写真右側が東、左側が西方向。手前道路は河川敷西側となる)でこの画角になりうる場所がどこになるのか。再度➁矢合川③金渓川の橋梁測量地図を提示する。

➁・③どちらの橋梁も河川敷西側に細い路地が確認できるが、③の金渓川は角度が…

上図では➁矢合川③金渓川どちらにも河川敷西側に細い道路が確認でき、どちらも合致するように感じられる。が、写真の構図上道路と線路はほぼ直角に近い角度で交叉していなければ写真のような画角にはなり得ないため、③金渓川は道路と橋梁の交叉角度の関係で候補から外れてしまうことになる(※下写真参照)。

現在の金渓川西側河川敷の踏切付近写真(正面ほぼ東)。画角的に難しいことが分かる

が、上写真はあくまで「現在の」金渓川橋梁の写真だ。同橋梁が存在する現在の近鉄湯の山線高角~桜駅間は、昭和39(1964)年3月に特殊狭軌(762㎜)から標準軌(1,435㎜)への改軌と同時に駅間短絡工事も実施しているGoogleマップで同橋梁付近を確認すると、この短絡工事前に線路が敷設されていたらしきルートが現在の湯の山線の線路から分岐しているかのように記載されている。まだこの短絡工事に関する公文書の確認はしていないため断定はできないが、おそらくこのルートが大正2年の開業当初線路が敷設されていた箇所ではないかと推測する(※下画像参照)。

大正2年開業当初の推定ルートを赤線で記入したもの。金渓川と直角に交叉している

この推測通りであれば、線路と金渓川はほぼ直角で交叉していることになるし、写真の列車の進行方向及び線路向こうに延びていそうな細い路地と踏切のような設備の存在にも説明がつく。対して➁矢合川の方は、現在の航空写真を確認しても線路向こうの東側に細い路地が過去存在していたような痕跡すらなく、写真に写るような河川敷西側の踏切のような設備の説明が付けられない(※下画像参照)。

現在の矢合川西側河川敷付近の写真(赤丸部分が推定撮影箇所)。道らしい道が全くない

以上の根拠(推測の域を出ないが(笑))をもって、問題の写真の撮影時期と場所についての最終的な(個人的)結論をまとめると、

 

「大正2(1913)年9月24日あるいは25日、湯ノ山発諏訪行の四日市大祭祝賀臨時列車が神森~桜村停留場間の金渓川橋梁を渡る様子を金渓川西岸から撮影したもの」

 

という表現になる。…もはや開業祝賀列車ですらなくなってしまった(笑)。理由は、牽引している客車側面に花飾りや旗幟等開業祝賀を示す目立った装飾が見受けられないのと沿道から同列車を見送る一般民衆もいないことからそう判断した。現時点でこれが最もこの写真の真実に近い解釈だと思っている。

もちろんこの見解はあくまで個人的なものであり、同書解説にある通り実際はやはり阿瀬知川鉄橋上で撮影されたものなのかも知れない。しかし、その解説を裏付けるための情報・証拠が乏しいこともまた事実であり、仮にそれを主張するのであればそれ相応の根拠を示すことが必要となるだろう。現時点で同レポートを執筆した椙山氏は既に逝去されており、執筆当時に根拠とした情報の内容確認をする術はない。実際、この写真は「見る人が「おかしい」と思わなければ、何も不自然ではない写真」なのだ。ただきちんと当時の情報を集めれば、実はこれが不自然な写真であることに自ずと気付ける。自ら調べることをするかしないか、だ。  以上(長くなってしまった)

阿瀬知川貨物線に関わる「謎の写真」に迫る(中編)

前回は四日市の歴史関係書籍の多くに掲載されている上写真のうち、特に四日市市史研究』第2号P.100に掲載されたものを取り上げ、写真の注釈とその本文の内容について考察した。その中で同写真の撮影時期について「大正5年頃」としながら、①当時の四日市鉄道本社は阿瀬知川沿いには建っていなかったらしいこと、さらに➁そもそも同貨物線自体阿瀬知川を渡橋していなかった可能性が高いこと、を当時の地番情報及び公文書の情報を基に言及し「写真の付随情報の真偽を問う」段階にある、と書いた。今回は逆に写真下注記やその他本文記載等の情報を全く考慮に入れないものとし、純粋に写真から見て取れる「視覚的情報」のみから撮影時期や撮影場所の特定ができるかどうかを検証していきたい。そのうえで双方からの検証と推測を経て(後編)にて結論を導き出そうと思う。

 

さて、上写真について、あくまで「僕個人の視点」だが、同写真から撮影箇所及び時期を特定しうる視覚的特徴をあえて大きく3箇所に絞り込んでみた(下画像①~③、赤線囲み部分参照)。

写真赤線囲み部で①車両特定、➁橋梁(?)の延長特定、③進行方向の特定を行う

特徴の内容を具体的に説明すると、

①付随客車中央の窓枠(9個)と上部に突き出た2箇所の突起物、及びほぼ満員に近い乗客

➁陸橋(?)鉄橋(?)の枕木部側面にある白い点

③先頭の蒸気機関車と煙突から吐き出される排煙の向き

といったところだ。

まず特徴①の根本的な問題、写真に写る付随客車が本当に四日市鉄道の客車どうかの検証に入る。幸いにも上写真と同様四日市市史研究』第14号「『幻の大正5年』四日市に生れた軽便の合同駅」(椙山満氏・著)P.112にて鉄道イラストレーターの小林泰生氏に描いてもらった三重・四日市両鉄道の当時の車両図が掲載されているので紹介する(※下画像)。

四日市市史研究』第14号P.112より。下が四日市鉄道の車両

 

このイラストの根拠となる車両情報をどこでどのように入手したかは不明だが、実は正式な図面が三重軌道三重県立博物館所蔵『三重鉄道敷設関係図面』内、四日市鉄道国立公文書館所蔵鉄道省文書』「三重鉄道4」件名22「四日市鉄道所属車輌乗入運転の件」内にそれぞれ当時存在した付随客車図面が残されており、イラストとの違いを確認することができる。比較のためこちらも一緒に掲載しておく(※下左右画像)。

右が三重軌道(大正5年作成)、左が四日市鉄道(昭和2年作成)の付随客車図面。

四日市鉄道に関しては写真・イラスト・青図面ともに客車窓枠は全て9個で共通しており、それ以外の箇所も車体にほとんど相違点は見られない。このことから写真に写る付随客車はほぼ四日市鉄道所属のものと断定して問題ないだろう。唯一の相違点といえば上部に突き出た2箇所の突起物が青図面では見られないくらいだが、これは三重軌道の客車側にも同様の差異(※青図面にはあるがイラストにはない)が言える。おそらくこの突起物は車内照明設備のカバー部分が車外に飛び出しているものと思われ、電化前の三重・四日市両鉄道の付随客車にはそれぞれ存在していたものと個人的に推測している(※図面・イラストにそれぞれ書かれていないのは作成時の客車が電化前か後かの差によるものと考えている)。いずれにせよ、これらの物証により写真に写る付随客車は四日市鉄道のものとほぼ確定したと言って良いと思う。…当初僕は阿瀬知川陸橋架橋と電化のタイミングの関係から「これは伊勢鉄道を撮影したものではないか」と推測していたが、特殊狭軌狭軌という線路幅からくる車両サイズの問題と上記図面との整合性を精査した結果、このような結論に至った。(前編)で主張した四日市鉄道のものではない」という推測は誤りだったことになる。ここでお詫びし訂正したいと思う。

なお、①の補足情報として「ほぼ満員に近い乗客」を指摘しているが、実はこれは撮影時期を特定しうる重要な要素の一つとして考慮に値する。何が言いたいかというと、「まだまだ鉄道の乗車賃が一般庶民にとって高価だった大正時代に写真のような「旅客だけ」でほぼ満席になるなどの混雑は到底考えにくく、そういう意味でこの車両は写真注釈にある通り「全線開業を祝賀するための(近隣住民含めた)招待・優待客を乗せた列車と考える方が自然だ」、という理屈だ。そういった理由で(まだ確定というわけではないが)、撮影時期に関して言えば四日市鉄道が湯ノ山~四日市市間を全線開通させた大正5(1916)年3月5日あるいはその前後日撮影の可能性が高い、という推測が成り立つ(※ただし撮影場所は未確定)。なおこの推測は、後に③の検証にもつながる。

続いて、跨線橋に並ぶ枕木に付いた白い点。枕木間の離隔寸法が分かればこの跨線橋の延長がどのくらいあるのか=写真に写る河川?水路の幅がおおよそ計算できる(もちろん接合部等離隔が一定ではない箇所も存在するのも承知済み)。一般的な直線(地上)部と違い、橋梁や分岐(転轍機)部分はその都度枕木の離隔が異なるらしく図面毎にその間隔は明示されているようだ。残念ながら今のところ四日市鉄道の規定する「工事方法書」及びその図面は入手できていないが、幸い同時期・同じ特殊狭軌三重鉄道(軌道)版のものが三重県立博物館所蔵『三重鉄道敷設関係図面』内に「落合川橋梁」の図面が存在しているので、とりあえずそちらの寸法を参照する(※下画像)。

右図が落合川橋梁断面図。赤線部に枕木中心離隔寸法が書かれている(左:拡大した図)

図面には枕木中心間が「2'-1"」、つまり2フィート1インチ(=約64㎝)と記載されている。掲載の写真はサイズが小さいため正確に判別はできないが、それでも最低40箇所は白い点を確認することが出来る。この数値を参照しこの河川?運河?の幅員を計算すると、最低でも0.64m×40箇所=25.6m以上の幅員が必要となることが分かる。四日市鉄道沿線区間にこれだけの幅員を持つ河川?運河?は数えるほどしかなく、①院線四日市駅南端を流れる阿瀬知川、➁高角町付近を流れる三滝川支流の合川、③四日市桜町と菰野町境界付近を流れる三滝川支流の金渓川、の3箇所しかない。それぞれの橋梁幅員(※推測)をマピオン キョリ測で算出してみる(※下画像①~③)。

3箇所とも橋梁の正確な始点・終点が不明だが、幅員26m以上ある証明にはなり得るかと

3箇所とも基準以上の幅員を確保しており、かつ鉄道線路に対し交叉する(踏切道が存在しうる)方向に走る道路が最低1本は通っている。撮影箇所は少なくともすべての条件を満たす3箇所のうちのいずれかと断定しても良いであろう。

最後に③先頭の蒸気機関車と煙突から吐き出される排煙の向きについて。これは①の補足情報「ほぼ満員に近い乗客」と絡めることで写真の「撮影時期」の年数と季節、そして時間と場所を特定しうる要素を持っている。

少し前に①で「まだまだ鉄道の乗車賃が……写真注釈にある通り「全線開業を祝賀するための(近隣住民含めた)招待・優待客を乗せた列車」と考える方が自然だ」と書いたと思う。この車両が実際祝賀列車だとすれば、当然開通式後の列車のため午前中発車であることは間違いないだろう。さらに言えば最後の残り区間諏訪~四日市市間の開業祝賀なのだから、その始発地点は当然四日市市になるべきだと思う(この意見に異議を唱える人はいないと信じたい(笑))。つまり写真の機関車が走行している方向は北あるいは西、つまり菰野・湯ノ山方面に走行していることを証明している。なお、このことは蒸気機関車の吐き出す排煙が進行方向右側に流れていることからも立証できる。なぜなら四日市市含めた北勢地域の冬の季節は(地元の人間なら当然ご承知と思うが)、鈴鹿山地からの強い北西風あるいは西風(鈴鹿颪(おろし))が吹く土地柄のためだ。ここまで書けば、実はこの写真が阿瀬知川跨線橋上で撮られたものとする場合の「矛盾」に到達するのだが、その解説はまた(後編)でしようと思う。

とにかく、以上の検証から上写真から得られる撮影時期と場所の情報をまとめると

「大正5(1916)年3月(①、③)、四日市合同駅あるいは阿瀬知川駅より出発した四日市鉄道の全線開業祝賀列車(①)が、(近隣住民含めた)招待・優待客を乗せて湯の山方面に向け(③)阿瀬知川、あるいは矢合川、または金渓川を渡橋する(➁)様子

ということになる。(前編)でも言及したが、写真から見る視覚的情報のみからでも四日市鉄道の本社前」で撮影した、という根拠が全く見当たらないのである。もはやここまでくると四日市市史研究』第14号に掲載された写真とその注釈は、鉄橋を渡る四日市鉄道の祝賀列車写真を発見してしまった(笑)ことで、辻褄を合わせるために全線開業した「大正5年」という時期だけを頼りに(数年後伊勢鉄道が架橋する)阿瀬知川跨線橋を勝手に作り出し、しかもそのそば(南岸)にありもしない四日市鉄道の本社をでっち上げた、と解釈するしかない状況になっている。

 

次回、最終回(後編)では(前編)(中編)で取捨限定した情報を公文書史料に残された情報と照合してさらに絞り込みを行い、この写真がいつどこで撮影されたものなのか(個人的推測ながら)という「真実」に限りなく迫ってみたいと思う。 (後編へ続く)