
前回(中編)では、上写真から見える視覚的情報のみから撮影時期と場所の絞り込みを試みてみた。前々回(前編)での矛盾点指摘分も加味すれば、上写真はおそらく『四日市市史研究』第2号P.100内の紹介文にあるような「大正5(1916)年3月」に「阿瀬知川鉄橋上で」撮影された「開業祝賀列車」ではないことはほぼ確定、といえる。
では、なぜ『四日市市史研究』ではこのような誤った解釈に至ったのか。これには著者である椙山満氏自身によるミスリードが大きく関係している。実は同レポート文中、この写真の直前P.99においてこのような一文が書かれている。
「…写真⑦は四日市駅構内南はづれに架る阿瀬知川鉄橋の西側に1888(明治21)年建てられた関西鉄道本社事務所。1907(明治40)年10月に鉄道が国有化されたのちは後述の四日市鉄道の本社となった。」(※抜粋、なお年号は英数字に変換)
前編でも指摘した通り、四日市鉄道は創立当初本社位置を「四日市市袋町107番屋敷」とし、その後大正4年5月「濱田1425番地」に移転している(※(前編)記述を参照の事)。当時の阿瀬知川北岸付近は字名こそ「濱田」であったが、番地は3900~4000番台であり到底本社位置を示す地番とは符合しえない。同レポート文を執筆した当時の椙山氏は、国立公文書館所蔵の公文書及び『官報』の商業登記はもちろん、四日市市が所有する旧土地台帳も確認せず、四日市鉄道の正確な本社住所(位置)を把握しないままこの文章を書いた可能性が高いといえる(※もっとも、縦断検索機能が充実している現代と違い当時『官報』商業登記欄までつぶさに確認する手段はなかったろうが、少なくとも四日市市の旧土地台帳や国立公文書館の公文書を閲覧・確認できる環境にはあったはずで、そういう意味での同氏及び市史編纂委員会による調査不足の感は否めない)。

大正4年1月8日付「工事竣工期限延期申請書」。まだ本社は袋町107番屋敷のままだ。
僕自身は(後に国有化される)関西鉄道の事に関してそれほど詳しくないので詳細は不明だが、椙山氏は関西鉄道本社事務所が阿瀬知川西岸付近にあったことを知っていたのだろう。同氏はおそらく、大正5年8月28日三重軌道が開業させた「阿瀬知川貨物駅(駅舎)」を元関西鉄道本社事務所跡地と結び付けたことで、同地を四日市鉄道本社と勝手に解釈したのではなかろうか。こうした「元関西鉄道本社事務所跡=四日市鉄道本社」という誤った認識にとらわれたままの状態で同5年3月の四日市鉄道諏訪~四日市市間開業、さらにかつて貨物線が阿瀬知川岸まで延びていたという事象を知っていたならば、写真に写り込んだ鉄橋を見た時に多少根拠が乏しくとも「これは阿瀬知川(貨物線)鉄橋ではなかろうか」という推測に行きつくのも無理からぬところというべきか。
ところが、それはあり得ない。…そもそも「貨物専用線」である阿瀬知川線路上を乗客を乗せ旅客車両が走行するはずがないのだ。
現時点で僕個人が導き出したこの写真の撮影時期と場所の最終的結論は、
①大正2年9月の諏訪~湯ノ山間開業時
➁桜村~神森停留場(※当時)間の金渓川を渡る鉄橋上
で撮影された写真だと推測している。仮にもし大正5年3月の諏訪~四日市市間開業時の撮影であったとしても、撮影場所は変わらず➁金渓川鉄橋上と考えている。…白状してしまう(僕自身反省すべきところだ)が、実は前回(中編)記事を書いた時点での撮影時期・場所の推測位置と、今回の撮影時期・場所の結論とは全く変わっている。
①の撮影時期を説明する前に、まず大正5年時の撮影ではない根拠を提示しなければなるまい。そのためには(これは全く知られていないことだが)そもそも阿瀬知川貨物線は三重・四日市両鉄道がそれぞれ独自に敷設した線路ではなく①両社で共同使用すること、かつ➁その敷設工事の主導権は三重軌道側が握っていたことを知っておかねばならない。一連の流れを時系列順で解説すると、まず三重軌道が大正5年8月28日付で起点の阿瀬知川貨物駅(0哩0鎖)までを敷設・開業させた直後、四日市鉄道が9月2日付で「四日市市停車場内側線新設ノ件」という申請書を提出する。この申請が四日市鉄道における諏訪~四日市間開業後の貨物側線敷設に対する初の行動になるのだが、これに対し四日市鉄道は鉄道院より同月12日付で以下通牒文を受ける(※右下画像、赤線囲み部参照)。
「本件は四日市市停車場側線新設とあれども三重軌道阿瀬知川起点零哩零鎖より28鎖附近に至る本線及其の支線に乗入れを為すものにあらずや(ではないのか)」
同通牒文の内容から自社での貨物線新設が難しいと知るや、同月18日付で三重軌道との貨物側線共同使用協定を締結(※左下画像「協定書」参照)、
左画像:9月12日付鉄道院の照会通牒、右画像:三重軌道との貨物線共同使用協定書
両社署名の協定書を添付するとともに同月20日付で先に提出した四日市市停車場構内側線に関する一連の新設申請を却下する「却下願」を提出する(※右下画像参照)。最終的にこれら四日市鉄道の阿瀬知川貨物側線に関する申請は「協定書」通り三重軌道が敷設した貨物側線を両社で共同使用する方式で10月11日付で認可される(※左下画像参照)。当然、その内容はあくまで三重軌道により申請敷設された側線計画を逸脱するものではなく、その中に阿瀬知川鉄橋を架橋するような内容は盛り込まれていない。
右画像:側線新設申請の「却下願」、左画像:認可書、中央に「十月十一日」の日付
これら一連の公文書の流れから見ても四日市鉄道が大正5年9月以前に阿瀬知川鉄橋上で同写真を撮影することはまず不可能であるし、万が一にも四日市鉄道がその後追加申請を行い独自に阿瀬知川鉄橋を架設し(※そのような物証はないが)祝賀列車を走らせるとしてもその時期は大正5年10月以降しかなりえないわけで、同年3月の諏訪~四日市市間旅客営業線開業またはその後の貨物線開業の祝賀行事としてはあまりに時期外れと言わざるを得ない。残る10~12月の期間だが、実はこの期間四日市市市内では10月8日浜町で「ペスト」が初確認されて以降、年末にかけ一時市内中心部はほぼ「ロックダウン」状態となるほどの「ペスト」騒動が起こっており、そんな非常事態時に写真のような客車が満員の乗客であふれかえる様相になるはずがない。以上の理由から「①大正5年」中に「➁阿瀬知川鉄橋上」で同写真を撮影するのは100%不可能であり、撮影時期か場所のどちらか、もしくは両方の条件が異なる以外この写真は成立しえないと考えられる。そしてその時期が大正2年であることの根拠は、次の➁の解説に直結してくる。
次に、なぜ撮影場所を➁「桜村~神森停留場(※当時)間の金渓川を渡る鉄橋上」と推測したかを解説する。
前回(中編)の検証文中では「蒸気機関車の吐き出す排煙」の方角と「開業祝賀列車だから当然始発駅は四日市市駅であるべき」という2点の理由から写真に写る列車の進行方向を菰野・湯ノ山方面(西及び北方向)と推測した。が、僕自身この時点でもともと紐付けされていた「大正5年3月」という「時期」情報に無意識に流されていることに気付く。「時期(季節)」から、「方角」と「進行方向」を決めつけてしまったのだ。改めて全ての情報を見直した結果、同じく椙山氏著『四日市市史研究』第2号「四日市の陸上交通」P.100内のある一文にヒントを得る。そこには
「…菰野~湯の山間は上り坂なので客車は一両しかひけなかったが、それ以外の平地は二両まで。」(※下画像、赤線部分参照)。

『…研究』P.100の一部を拡大。※同誌掲載の写真では一部がカットされており本来写真右端に写っているはずの蒸気機関車や自転車、電柱などがはっきり確認できなくなっている
と書かれている。が、同写真に写る祝賀列車はどう見ても客車3両(それ以上?)を牽引しており、しかもどの車両も(大正初期にもかかわらず)通常営業運転時では考えられないほどの立ち乗り客がいる満員状態だ。こんな状態の列車が本当に上り勾配の菰野・湯ノ山方面へ向け走行できるだろうか?…常識的に考えれば、「この列車は下り勾配であり惰性でも進むことが出来る「菰野→四日市市方面へ向かう列車」なのではないか」となるのではなかろうか。となると、写真を撮影した際に車両の進行方向と橋梁との位置関係(※写真右側が東、左側が西方向。手前道路は河川敷西側となる)でこの画角になりうる場所がどこになるのか。再度➁矢合川、③金渓川の橋梁測量地図を提示する。
➁・③どちらの橋梁も河川敷西側に細い路地が確認できるが、③の金渓川は角度が…
上図では➁矢合川、③金渓川どちらにも河川敷西側に細い道路が確認でき、どちらも合致するように感じられる。が、写真の構図上道路と線路はほぼ直角に近い角度で交叉していなければ写真のような画角にはなり得ないため、③金渓川は道路と橋梁の交叉角度の関係で候補から外れてしまうことになる(※下写真参照)。

現在の金渓川西側河川敷の踏切付近写真(正面ほぼ東)。画角的に難しいことが分かる
が、上写真はあくまで「現在の」金渓川橋梁の写真だ。同橋梁が存在する現在の近鉄湯の山線高角~桜駅間は、昭和39(1964)年3月に特殊狭軌(762㎜)から標準軌(1,435㎜)への改軌と同時に駅間短絡工事も実施している。Googleマップで同橋梁付近を確認すると、この短絡工事前に線路が敷設されていたらしきルートが現在の湯の山線の線路から分岐しているかのように記載されている。まだこの短絡工事に関する公文書の確認はしていないため断定はできないが、おそらくこのルートが大正2年の開業当初線路が敷設されていた箇所ではないかと推測する(※下画像参照)。

大正2年開業当初の推定ルートを赤線で記入したもの。金渓川と直角に交叉している
この推測通りであれば、線路と金渓川はほぼ直角で交叉していることになるし、写真の列車の進行方向及び線路向こうに延びていそうな細い路地と踏切のような設備の存在にも説明がつく。対して➁矢合川の方は、現在の航空写真を確認しても線路向こうの東側に細い路地が過去存在していたような痕跡すらなく、写真に写るような河川敷西側の踏切のような設備の説明が付けられない(※下画像参照)。

現在の矢合川西側河川敷付近の写真(赤丸部分が推定撮影箇所)。道らしい道が全くない
以上の根拠(推測の域を出ないが(笑))をもって、問題の写真の撮影時期と場所についての最終的な(個人的)結論をまとめると、
「大正2(1913)年9月24日あるいは25日、湯ノ山発諏訪行の四日市大祭祝賀臨時列車が神森~桜村停留場間の金渓川橋梁を渡る様子を金渓川西岸から撮影したもの」
という表現になる。…もはや開業祝賀列車ですらなくなってしまった(笑)。理由は、牽引している客車側面に花飾りや旗幟等開業祝賀を示す目立った装飾が見受けられないのと沿道から同列車を見送る一般民衆もいないことからそう判断した。現時点でこれが最もこの写真の真実に近い解釈だと思っている。
もちろんこの見解はあくまで個人的なものであり、同書解説にある通り実際はやはり阿瀬知川鉄橋上で撮影されたものなのかも知れない。しかし、その解説を裏付けるための情報・証拠が乏しいこともまた事実であり、仮にそれを主張するのであればそれ相応の根拠を示すことが必要となるだろう。現時点で同レポートを執筆した椙山氏は既に逝去されており、執筆当時に根拠とした情報の内容確認をする術はない。実際、この写真は「見る人が「おかしい」と思わなければ、何も不自然ではない写真」なのだ。ただきちんと当時の情報を集めれば、実はこれが不自然な写真であることに自ずと気付ける。自ら調べることをするかしないか、だ。 以上(長くなってしまった)