阿瀬知川貨物線に関わる「謎の写真」に迫る(中編)

前回は四日市の歴史関係書籍の多くに掲載されている上写真のうち、特に四日市市史研究』第2号P.100に掲載されたものを取り上げ、写真の注釈とその本文の内容について考察した。その中で同写真の撮影時期について「大正5年頃」としながら、①当時の四日市鉄道本社は阿瀬知川沿いには建っていなかったらしいこと、さらに➁そもそも同貨物線自体阿瀬知川を渡橋していなかった可能性が高いこと、を当時の地番情報及び公文書の情報を基に言及し「写真の付随情報の真偽を問う」段階にある、と書いた。今回は逆に写真下注記やその他本文記載等の情報を全く考慮に入れないものとし、純粋に写真から見て取れる「視覚的情報」のみから撮影時期や撮影場所の特定ができるかどうかを検証していきたい。そのうえで双方からの検証と推測を経て(後編)にて結論を導き出そうと思う。

 

さて、上写真について、あくまで「僕個人の視点」だが、同写真から撮影箇所及び時期を特定しうる視覚的特徴をあえて大きく3箇所に絞り込んでみた(下画像①~③、赤線囲み部分参照)。

写真赤線囲み部で①車両特定、➁橋梁(?)の延長特定、③進行方向の特定を行う

特徴の内容を具体的に説明すると、

①付随客車中央の窓枠(9個)と上部に突き出た2箇所の突起物、及びほぼ満員に近い乗客

➁陸橋(?)鉄橋(?)の枕木部側面にある白い点

③先頭の蒸気機関車と煙突から吐き出される排煙の向き

といったところだ。

まず特徴①の根本的な問題、写真に写る付随客車が本当に四日市鉄道の客車どうかの検証に入る。幸いにも上写真と同様四日市市史研究』第14号「『幻の大正5年』四日市に生れた軽便の合同駅」(椙山満氏・著)P.112にて鉄道イラストレーターの小林泰生氏に描いてもらった三重・四日市両鉄道の当時の車両図が掲載されているので紹介する(※下画像)。

四日市市史研究』第14号P.112より。下が四日市鉄道の車両

 

このイラストの根拠となる車両情報をどこでどのように入手したかは不明だが、実は正式な図面が三重軌道三重県立博物館所蔵『三重鉄道敷設関係図面』内、四日市鉄道国立公文書館所蔵鉄道省文書』「三重鉄道4」件名22「四日市鉄道所属車輌乗入運転の件」内にそれぞれ当時存在した付随客車図面が残されており、イラストとの違いを確認することができる。比較のためこちらも一緒に掲載しておく(※下左右画像)。

右が三重軌道(大正5年作成)、左が四日市鉄道(昭和2年作成)の付随客車図面。

四日市鉄道に関しては写真・イラスト・青図面ともに客車窓枠は全て9個で共通しており、それ以外の箇所も車体にほとんど相違点は見られない。このことから写真に写る付随客車はほぼ四日市鉄道所属のものと断定して問題ないだろう。唯一の相違点といえば上部に突き出た2箇所の突起物が青図面では見られないくらいだが、これは三重軌道の客車側にも同様の差異(※青図面にはあるがイラストにはない)が言える。おそらくこの突起物は車内照明設備のカバー部分が車外に飛び出しているものと思われ、電化前の三重・四日市両鉄道の付随客車にはそれぞれ存在していたものと個人的に推測している(※図面・イラストにそれぞれ書かれていないのは作成時の客車が電化前か後かの差によるものと考えている)。いずれにせよ、これらの物証により写真に写る付随客車は四日市鉄道のものとほぼ確定したと言って良いと思う。…当初僕は阿瀬知川陸橋架橋と電化のタイミングの関係から「これは伊勢鉄道を撮影したものではないか」と推測していたが、特殊狭軌狭軌という線路幅からくる車両サイズの問題と上記図面との整合性を精査した結果、このような結論に至った。(前編)で主張した四日市鉄道のものではない」という推測は誤りだったことになる。ここでお詫びし訂正したいと思う。

なお、①の補足情報として「ほぼ満員に近い乗客」を指摘しているが、実はこれは撮影時期を特定しうる重要な要素の一つとして考慮に値する。何が言いたいかというと、「まだまだ鉄道の乗車賃が一般庶民にとって高価だった大正時代に写真のような「旅客だけ」でほぼ満席になるなどの混雑は到底考えにくく、そういう意味でこの車両は写真注釈にある通り「全線開業を祝賀するための(近隣住民含めた)招待・優待客を乗せた列車と考える方が自然だ」、という理屈だ。そういった理由で(まだ確定というわけではないが)、撮影時期に関して言えば四日市鉄道が湯ノ山~四日市市間を全線開通させた大正5(1916)年3月5日あるいはその前後日撮影の可能性が高い、という推測が成り立つ(※ただし撮影場所は未確定)。なおこの推測は、後に③の検証にもつながる。

続いて、跨線橋に並ぶ枕木に付いた白い点。枕木間の離隔寸法が分かればこの跨線橋の延長がどのくらいあるのか=写真に写る河川?水路の幅がおおよそ計算できる(もちろん接合部等離隔が一定ではない箇所も存在するのも承知済み)。一般的な直線(地上)部と違い、橋梁や分岐(転轍機)部分はその都度枕木の離隔が異なるらしく図面毎にその間隔は明示されているようだ。残念ながら今のところ四日市鉄道の規定する「工事方法書」及びその図面は入手できていないが、幸い同時期・同じ特殊狭軌三重鉄道(軌道)版のものが三重県立博物館所蔵『三重鉄道敷設関係図面』内に「落合川橋梁」の図面が存在しているので、とりあえずそちらの寸法を参照する(※下画像)。

右図が落合川橋梁断面図。赤線部に枕木中心離隔寸法が書かれている(左:拡大した図)

図面には枕木中心間が「2'-1"」、つまり2フィート1インチ(=約64㎝)と記載されている。掲載の写真はサイズが小さいため正確に判別はできないが、それでも最低40箇所は白い点を確認することが出来る。この数値を参照しこの河川?運河?の幅員を計算すると、最低でも0.64m×40箇所=25.6m以上の幅員が必要となることが分かる。四日市鉄道沿線区間にこれだけの幅員を持つ河川?運河?は数えるほどしかなく、①院線四日市駅南端を流れる阿瀬知川、➁高角町付近を流れる三滝川支流の合川、③四日市桜町と菰野町境界付近を流れる三滝川支流の金渓川、の3箇所しかない。それぞれの橋梁幅員(※推測)をマピオン キョリ測で算出してみる(※下画像①~③)。

3箇所とも橋梁の正確な始点・終点が不明だが、幅員26m以上ある証明にはなり得るかと

3箇所とも基準以上の幅員を確保しており、かつ鉄道線路に対し交叉する(踏切道が存在しうる)方向に走る道路が最低1本は通っている。撮影箇所は少なくともすべての条件を満たす3箇所のうちのいずれかと断定しても良いであろう。

最後に③先頭の蒸気機関車と煙突から吐き出される排煙の向きについて。これは①の補足情報「ほぼ満員に近い乗客」と絡めることで写真の「撮影時期」の年数と季節、そして時間と場所を特定しうる要素を持っている。

少し前に①で「まだまだ鉄道の乗車賃が……写真注釈にある通り「全線開業を祝賀するための(近隣住民含めた)招待・優待客を乗せた列車」と考える方が自然だ」と書いたと思う。この車両が実際祝賀列車だとすれば、当然開通式後の列車のため午前中発車であることは間違いないだろう。さらに言えば最後の残り区間諏訪~四日市市間の開業祝賀なのだから、その始発地点は当然四日市市になるべきだと思う(この意見に異議を唱える人はいないと信じたい(笑))。つまり写真の機関車が走行している方向は北あるいは西、つまり菰野・湯ノ山方面に走行していることを証明している。なお、このことは蒸気機関車の吐き出す排煙が進行方向右側に流れていることからも立証できる。なぜなら四日市市含めた北勢地域の冬の季節は(地元の人間なら当然ご承知と思うが)、鈴鹿山地からの強い北西風あるいは西風(鈴鹿颪(おろし))が吹く土地柄のためだ。ここまで書けば、実はこの写真が阿瀬知川跨線橋上で撮られたものとする場合の「矛盾」に到達するのだが、その解説はまた(後編)でしようと思う。

とにかく、以上の検証から上写真から得られる撮影時期と場所の情報をまとめると

「大正5(1916)年3月(①、③)、四日市合同駅あるいは阿瀬知川駅より出発した四日市鉄道の全線開業祝賀列車(①)が、(近隣住民含めた)招待・優待客を乗せて湯の山方面に向け(③)阿瀬知川、あるいは矢合川、または金渓川を渡橋する(➁)様子

ということになる。(前編)でも言及したが、写真から見る視覚的情報のみからでも四日市鉄道の本社前」で撮影した、という根拠が全く見当たらないのである。もはやここまでくると四日市市史研究』第14号に掲載された写真とその注釈は、鉄橋を渡る四日市鉄道の祝賀列車写真を発見してしまった(笑)ことで、辻褄を合わせるために全線開業した「大正5年」という時期だけを頼りに(数年後伊勢鉄道が架橋する)阿瀬知川跨線橋を勝手に作り出し、しかもそのそば(南岸)にありもしない四日市鉄道の本社をでっち上げた、と解釈するしかない状況になっている。

 

次回、最終回(後編)では(前編)(中編)で取捨限定した情報を公文書史料に残された情報と照合してさらに絞り込みを行い、この写真がいつどこで撮影されたものなのか(個人的推測ながら)という「真実」に限りなく迫ってみたいと思う。 (後編へ続く)