まずは、ことの始まりから。

何年ぶりの書き込みだろうか。

 

 

ずっとちまちまと調査は続けていた。が、やはり地元にいる限りはなかなか核心に迫りうる情報は得られない。調査を進めつつ、私個人が考える歴史の流れに沿った八王子・内部線及びその周辺の変遷についてのストーリーを、脱線しながらゆっくりと書こうと思う。ゆっくり書かないとすぐにまだ調査が十分に進んでいない時代に突入してしまうので(笑)。あくまでも私個人の仮想に基づくものであることをご承知願いたく。

 

 

時代は明治時代後半から、そして初期の物語の中心は、やはり八王子線が通っていた現・四日市市の一部である当時の「三重郡室山村・八王子村」付近から始めなければならないだろう。

 

この頃の室山村は、過去の記事でも書いた通り個人・会社を含め複数の味噌醤油・清酒醸造業、製糸紡績工場が立ち並ぶ一大産業地であった。しかし、現状ではそれらはあくまで近隣地域限定あるいは日本国内限定での話でしかない。それらを海外へ輸出し外貨を獲得するためには、伊勢湾から遠く離れた室山村から(当時の主たる大量物資輸送手段である)船舶が停泊する港湾(四日市港)へ運搬しなければならない。と同時に、製糸・紡績業の工程において必須の燃焼機関(ボイラー)稼働のための燃料―いわゆる「石炭」―の確保・運搬のためには「鉄道」の存在が不可欠、という結論に達するのは自然な流れというべきだろう。

 

かくして、室山村に鉄道を敷設する計画「室山四日市軽便鉄道計画」が立ち上がる。これが1908(明治41)年頃のことになる(※過去の記事に詳細あり)。その過去の記事でも取り上げた通り、直接的に「鉄道」の実物を見聞しその必要性を痛感したのは、伊藤製茶部主任・伊藤六治郎であろう。もっとも、蒸気機関である「鉄道」の存在は、当時まだ存命中の5世小左衛門や伊藤富治郎(5世小左衛門の次弟・小右衛門の3男、1893(明治26)年頃から「横浜生糸合名会社」の業務社員として横浜に居を構える)といった面々もその目で見た可能性はあるだろうが、それを「地元に敷設する」という必要性を感じたかどうかまでは疑問が残る。当時、その生産量のほとんどを海外へ輸出していた製茶部を担当していた六治郎だからこその発想、と考える方が自然である。ちなみに1872(明治5)年生まれの伊藤六治郎はこの頃35~37歳、現代で言えば体力的・精神的にも最も充実期と言える。このバイタリティーは十分あり得る。

余談だが、室山村の「製糸産業の祖」のツートップとして認知度も高いのが前述した「製糸」の伊藤小左衛門(5世)と、「紡績」の伊藤伝七(10世)のいわゆる"ダブル伊藤”であり、その実績・経済的な理由からか「鉄道」敷設も彼らの功績と誤解されがちだが、こと前述の「鉄道」敷設に関してのみ言えば、この二人はそこまで積極的な関与はないと断言していいと私個人は考えている(名前の世襲制度がこの誤解をややこしくする)。というのも、「鉄道」を敷設するはるか以前の1879(明治12)年に既に死去している5世小左衛門は言うまでもなく、10世伊藤伝七はこの鉄道敷設計画が持ち上がったであろう1900年代には既に名古屋・津など日本各所に分工場を持つ日本屈指の紡績会社(三重紡績)社長となっており、地元とはいえ一地方の軽便鉄道敷設に強烈にこだわる理由はないからである(一応、取締役として経営の一端を担ってはいたが)。

 

さて、ここまで文章として読んだ我々が仮に「鉄道敷設」の必要性を理解できたとしても、果たして当時の現地の人間が、世間が、その発言をまともに取り合ってくれるかどうか、である。

明治中期には四日市に私鉄の関西鉄道、その後国有化され国鉄(省線・院線とも)が走っていたため、世間的には既に「鉄道」というものは認知されてはいたであろうが、それを敷設するためには莫大な費用が掛かることは誰の目にも明らかなことである。

さらに、言い出しっぺの伊藤六治郎だが、過去の記事にもある通り宗家・5世伊藤小左衛門の4番目の弟(4世小左衛門の四男)・所左衛門の三男(※本当は四男なのだが、兄にあたる金次郎が10歳で死去しているため三男とする)である。一応製茶部主任であり肉親ではあるが、親族的序列で言えばかなり末席に値する位置であり、仮に六治郎個人の意見として発したとすれば、通常の思考で考えれば失笑の上に一蹴されてもおかしくない提案といえる。しかし、鉄道は現在でも存在している。

 

なぜ、「伊藤一族の末端」と表現してもおかしくない伊藤六治郎がそれを成しえたのであろうか。伊藤六治郎について、少し語らねばなるまい。

 

続く