幻の「諏訪跨線橋」を検証してみる。

タイトルからして意味不明だと思う。そもそも「諏訪跨線橋とは何ぞや?…だろう。今回は、四日市鉄道㈱(※現在の近鉄湯の山線)が大正初期つまり鉄道敷設最初期に計画していたと思われる、現在の四日市市諏訪付近での三重軌道㈱(※後の三重鉄道㈱、現在の四日市あすなろう鉄道)との「立体交叉(オーバークロス)」について検証してみる。

 

当ブログでは何度も「三重軌道㈱と四日市鉄道㈱は諏訪付近で交叉する計画だった」と書いてきた。同時に、四日市鉄道㈱は「明治43(1910)年(軽便)鉄道敷設免許下付当時は諏訪付近で三重軌道㈱線路と跨線橋にて立体交叉(オーバークロス)する計画だった」とも追記していたと思う。その根拠となる鉄道省文書』を改めて提示する。下画像は国立公文書館所蔵鉄道省文書』第十門「私設鉄道及軌道 三 三重軌道・三重鉄道・元四日市鉄道 巻一 自明治四十三年至大正元年(※下画像、表紙)

鉄道省文書』表紙画像。これ以外に四日市鉄道分も含め十数冊以上保存されている

内の明治44年10月4日付「線路敷設工事施工許可願」添付の「工事方法書」第11項で、

「本鐡道起点ヨリ零哩四十二鎖六十節ニ於テ三重軌道株式会社線路ト交叉スルヲ以テ別紙第十五号図面之通リ跨線橋ヲ架設シ以テ相互運転之支障ヲ避ク而シテ其ノ構造ハ図面ノ通リ桁下拾参呎余ノ高ヲ保タシメタリ」(※下画像、赤線囲み部)

「工事方法書」全部で11条あり、その11条内で「跨線橋」の記載が見える

とあり、起点(四日市停車場)から42鎖60節(≒約857m)付近で「三重軌道㈱線路と交叉」し、別紙第15号図面の通り「跨線橋を架設し相互運転の支障を避ける」、そして「その構造は桁下拾参呎余(フィート、13フィート≒約3.96m)」と明記されている(※その後の内容変更で「施工面上拾四呎余(≒約4.26m)」に書き換えられている)。残念ながら同文書には文中にある別紙第15号(跨線橋)図面が現存していないためその形状や哩程などの詳細情報は知りえないが、三重軌道㈱との交叉点及び跨線橋高さの設定が明記されていることである程度形状の推測を立てることが出来る。これら情報含めその他「工事方法書」内に記載されている各種情報を照合し「幻の諏訪跨線橋の実態に迫ってみたい。

 

 

前出「工事方法書」の記載通り、跨線橋としての最高到達地点は「14呎(フィート)」、つまり約4.26m地点まで坂路を登り降りしなくてはならないわけだ。余談ではあるが、当時の三重軌道㈱所属車両中最大高・幅を持つのは「ボギー式客車」三重県立博物館所蔵『三重鉄道敷設関係図面』「ボギー式客車図」にてその詳細寸法を知ることが出来る(※下画像、同図一部を抜粋)。図面によれば客車の最大高は「10呎1吋(インチ)=約3.07m」とあるため跨線橋との離隔は1.20mほどの余裕があるように感じられるが、図面を見て頂いても分かる通りこの寸法には客車下に敷く線路及び枕木などの鉄道施設は加味されておらず、実際にはそれほど車両上部の余裕はなかったのではないかと推測される。

「ボギー式客車図」の一部。高さ10呎1吋、幅6呎4吋と記載がある(※赤丸部分)

それはともかく、とりあえず記述に「14呎余」とあるので跨線橋最高到達点を若干余裕を持たせた「4.30m」と定めることとし、跨線橋に至るまでの坂路形状の検証に取り掛かる(※登り、下りとも同形状・同勾配とする)。坂路線路勾配に関する記載も同じく国立公文書館所蔵されているであろう鉄道省文書』軽便鉄道法準拠の「工事方法書」に記載されていると思うが、残念ながら現在は後に差替えとなる最初の「軌道条例」での申請の際に提出した「工事方法書」しか手元に持ち合わせていないため、やむを得ずこちらにある記載の数値を引用する。その中の第3項「軌道軌条及軌間の項目中に「勾配ハ四十分ノ一ヲ以テ最急トス」(※下画像、赤線囲み部)とある。

「軌道条例」準拠の際の「工事方法書」第3項。曲線半径も最小「壱鎖」との記載がある。

この「1/40勾配」を鉄道用語のパーミルで表すと「40パーミルとなるわけだが、(※パーミルを知っている前提で進めます(笑)分からない方は各自で調べて下さい)非力なコッペル蒸気機関車軽便鉄道と考えればかなりの急勾配ではないかと思える。こんな最急勾配を諏訪跨線橋渡橋に実際使用したのかどうかは定かでないが、設置する箇所が諏訪付近という当時最も地価高騰の激しい立地条件、さらに線路東側の先には起点駅である院線四日市停車場が控えており直線距離的にもそれほど余裕がないことから、ほぼ最急かそれに近い勾配を有していた可能性が高かったのではないかと考えられる。そういった要因も踏まえ最急勾配の「1/40勾配」を基準として坂路含めた跨線橋全体の距離計算したのが以下の図である。

跨線橋の計算表(推定)。あくまでも最もコンパクトな設計であり、現実味は薄い(笑)

図解が小さくて大変申し訳ないが、簡単に言えば「最低220mの距離があれば三重軌道㈱の線路はオーバーパス出来る」という結果になっている。東側は院線四日市駅が近いとはいえこの程度の距離であれば十分架設可能な範囲だろう。無論、この数値はあくまで最小限度の話で、実際には客車や貨車を連結させ坂路を登らなければならないので跨線橋部・坂路部とももう少し余裕を持たせた設計であったことは間違いないのではないだろうか。これら数値を踏まえ、最後に三重軌道㈱との線路交叉点=起点(院線四日市駅前)から「42鎖60節(≒約857m)」を基準として「諏訪跨線橋がどの辺りに架設される予定だったのかを見ていこう。

 

四日市鉄道㈱の起点四日市市停車場」をどの位置に設定していたのかを正確に知る術は今のところないが、後に三重軌道㈱と合同駅舎を設置した院線四日市駅西側(現在のハローワーク付近)を起点として「42鎖60節(≒約857m)」マピオンキョリ測にて計測したものが下地図である。(※許可は頂いてませんがマピオン有難うございます)

起点位置設定により多少位置がズレる。実際にはやはり当時諏訪駅があった付近だろう

起点位置設定により多少誤差が出るため正確な位置とは言い難いが、後に三重・四日市両鉄道㈱により合同の「諏訪停車場」が開設される箇所とほぼ一致していることが分かるだろう。現在でいうと有馬ビル付近、店舗名だと「珈琲屋諏訪栄町焙煎所」付近、ということになるだろうか。ともかく、ここを基準点として「諏訪跨線橋がどの辺りまで出来る予定だったのかを現在の市街地上に図示したものが下画像だ。

赤丸部が三重軌道との軌道交叉(予定)点。東西に約108m伸ばした線が黄・桃色の線。

上図はあくまで三重軌道㈱との軌道交叉点から坂路水平距離(約108m)をただ直線距離で図示したに過ぎず、跨線橋部の水平距離(約3.80m)は図中では考慮していない。さらには跨線橋道中に旧国道(旧東海道)も跨っているため、実際はさらに坂路を含めた跨線橋の全体距離は長くなっていただろうと容易に想像できる。仮にそれを省いたとしても東側は現在の国道1号線上付近まで延び、西側に至っては諏訪公園西端を越えるほどの距離を必要としていることが分かる。四日市鉄道㈱が計画当初、三重軌道㈱との軌道交叉による旅客連絡の必要性を考慮しこの付近に停留場を設けようとしていたが、立体交叉の存在はその計画をほぼ無意味化するものであったといえる。三重軌道㈱との後の交渉で立体交叉から水平交叉へとその計画を変更したのもある意味当然であっただろう。

 

このように、四日市鉄道㈱「諏訪跨線橋計画は旧東海道と諏訪町内という立地条件の問題により早い段階で計画から立ち消えになってしまった、まさに「幻の跨線橋というべきものでした。現在では桑名市内に残る三岐鉄道北勢線の西桑名~馬道駅間に近鉄・JR両線を跨ぐ「関西線跨線橋というナローゲージ跨線橋が存在しますが、もしかしたら四日市市内にも同様に同じようなナローゲージ跨線橋が存在していたかも?…という時期があったかもしれないということを考えると少しワクワクしてきます(笑)。こういったどうでも良いことを真剣に考えるのは時間の無駄でもありますが、同時に本当に楽しいですね(笑)。お付き合いいただき有難うございました。

以上