三重軌道が諏訪新道への敷設を断念したのはいつ?

三重軌道㈱が当初は諏訪新道に軌道を敷設しようと計画していたことは、この場でこれまで何度となく解説してきた。最終的には、諏訪新道よりやや南側の空閑地を買収し四日市鉄道㈱と並走する形で新設線路を敷設するという形に落ち着くわけだが、三重軌道㈱はいったいどのタイミングで諏訪新道への軌道敷設をあきらめ、新設線路の敷設へと方針転換をしたのだろうか。

これに関しては、昨年7月1日付の当ブログ「幻の四日市連合駅成立の真実。(前編)」内では「大正2(1913)年5月11日に三重・四日市両鉄道間で協定書(※下画像参照)が交わされたことで、三重軌道㈱四日市鉄道㈱と同様に専用線路での敷設に切り替えたと思われる…が、三重軌道㈱はそれ以降も諏訪新道への軌道敷設をあきらめていなかったのではと思われる節が多々ある…(中略)」と書いた。

大正2年5月11日付両社間での「協定書」。第1項文内に「三重軌道変更線」とある。

この時はまだ大宮鉄道博物館が所蔵する鉄道省文書』全ての史料の解読が十分ではなく、その時期を特定できる文書を見つけ出すことが出来ていなかったが、先月紹介したうつべ町かど博物館で同文書の閲覧が自由にできるようになったことでようやくこれらの情報に関する史料を発見することができたので、それを紹介していこう。

鉄道博物館鉄道省文書』内の「三重軌道線路…施工の件」の1枚目(右)と2枚目(左)。

上画像は大宮鉄道博物館所蔵鉄道省文書』内の「三重軌道線路一部変更並変更箇所工事施工ノ件」だ。パッと画像だけ見ても何が書いてあるか全く読み取れないだろう(笑)と思うので、同文書画像の対象部分を順番が分かるように付けた番号とともに切り取りつつ時系列と経緯を解説していきたい。

 

①まず、三重軌道㈱大正2年5月10日付で「線路一部変更ノ件」という文書を三重県(知事)経由で鉄道院に対し提出する(※下画像赤線部分)。これは同じ鉄道省文書』内に保存されている「特許線路一部変更願」という名前の文書のことと思われる。

大正2年5月10日付で提出したことを示す箇所。()書きで「三重県経由」とも書かれている

ちょうどこの翌日が、一番最初で紹介した三重・四日市両鉄道間で交わされた全3項目の「協定書」だ。この協定書の本来の大きなポイントは四日市鉄道㈱側が抱える課題であった諏訪付近での三重軌道㈱との「立体交叉」、これが「水平交叉」に変更された部分だったのだが、やはり「三重軌道変更線」という部分も重要だったことになる。

➁この文書を受け三重県知事が同年8月13日付で「三重軌道株式会社線路一部変更ノ件進達」及び「変更箇所工事施工ノ件進達」(番号第2646号の2)名称の文書2通を鉄道院に提出したと思われる(※下画像赤線部分)。

三重県知事が提出した文書とその日付が読み取れる。文章一部には「進達」の文字もある

こういった一連の流れを経て、内閣総理大臣・内務大臣及び鉄道院監督局・土木局が三重県知事及び三重軌道㈱に対する許可・認可文書の草案を大正3年4月2日付で作成する。それが前出の左右2枚の画像というわけだ。その中で、三重軌道㈱に対して

③「明治43年10月18日監第1413号をもって下付したる命令書第1条中第1号~第3号を左の通り変更し第4号を第2号に繰り上げる」(※下画像・赤線囲み部を現代語訳)

三重軌道㈱が明治43年に提出した「命令書」の一部を内容変更することを許可している

と書かれている。ちなみに文中の「明治43年10月18日監第1413号」の「命令書」は、三重軌道㈱が軌道敷設特許下付時の際に提出した全6項目の軌道敷ルート一覧(※下画像参照)のことを指すが、その後明治44年5月20日付でこの軌道敷ルートの改変が行われ、

明治43年10月作成「命令書」軌道敷一覧(一部)。この後明治44年に3号以降が変更される

6号まであった第3号以下を、

「三、前号終点より三重郡四郷村大字西日野字東浦36番地に至る新設軌道敷

 四、前号終点より三重郡四郷村大字室山八反田3番地先に至る里道」

と変更、全4項目に変更になっている(※下画像、赤線囲み部参照)。

 

明治44年5月20日付で三重軌道が提出した「出願線路変更ノ件」に対する鉄道院の認可書

つまり、当初は全6項目だったものが明治44年5月段階で全4項目に変更になっており、前出大正3年4月2日付での鉄道院による認可文書の草案

明治43年10月18日監第1413号をもって下付したる命令書第1条中第1号~第3号を先の通り変更し第4号を第2号に繰り上げる」

は、大正2年5月段階全4項目のものがさらに省略、全2項目になったことを示している。

④第1号「三重県四日市市大字濱田字北起…ニ至ル新設軌道敷」(※下画像、赤線囲み部)

第1号起点にあたる「大字濱田字北起3972番-1」は阿瀬知川北岸の貨物駅を指す。

そして第2号「前号終点より三重郡四郷村大字室山八反田3番地先に至る里道(※前出第4号)」となった、というわけだ。

 

余計に分かりにくくなった、という人が多いだろう(笑)。ざっくり説明してしまえば、

●大正2(1913)年5月10日に三重軌道㈱が諏訪~院線四日市駅間を新設軌道敷に変更、四日市鉄道㈱と並走する(※ただし敷設位置は四日市鉄道㈱線路の北側、水平交叉は存続)

大正2年8月13日、三重軌道㈱の申請を受け三重県知事が鉄道院に設計変更を報告

大正3年4月2日付で線路設計変更の許認可の草案を提示(※立案は3月26日)

●同年4月4日、三重県知事及び三重軌道㈱へ通達(上画像の⑤赤線囲み部日付)

というのが大まかな流れになる。つまり、三重軌道㈱が諏訪新道への軌道敷設から四日市鉄道㈱との新設軌道敷での並行へと正式に路線変更したのは大正3年4月4日の許認可通達を受けた日、ということになるだろう(※もちろん三重軌道㈱側としては大正2年5月10日時点で断念したとし、その日を境に線路敷設対象となる敷地買収に取り掛かっているはずであろう)。

確証の持てる史料の存在が分からず、ずっと三重軌道㈱の諏訪新道への軌道敷設断念のタイミングを特定できずにいたが、うつべ町かど博物館での鉄道省文書』閲覧が実現したおかげでようやく時期の特定にたどり着くことができた。大変な労力を使って同史料を博物館にもたらして下さったU野氏に対し、心から感謝の意を表したいと思う。

 

以上