四日市鉄道㈱誕生は、明治44年5月27日。

前回記事に対して、大正5(1916)年3月に湯ノ山~四日市間を開業させた四日市鉄道㈱(※現在の近鉄湯の山線)が誕生したのはいつになるのだろう。三重軌道㈱と同様に会社設立年月日を調べてみると、明治44(1910)年6月15日付『官報』商業登記欄に明治44年5月27日」とある(※下写真参照)。つまり三重軌道㈱より約5か月ほど後ということになる。いきなりの解答だが、これが正式な設立日とみて間違いないと思う。

明治44年6月15日付『官報』商業登記欄より。ページ跨ぎで見にくく申し訳ない

ただ、他のネット記事や書籍等で四日市鉄道㈱設立の歴史に関する記載を調べた場合、明治42年12月とするものもあったりと正確なところが判然としないと感じられるところがあるかと思う。これら情報を個人的ながら分かりやすく解説していきたいと思う。

 

まず、現在認知されている四日市鉄道㈱設立に関する情報のほぼ全ては発起人の一人であった菰野町の実業家・伊藤新十郎氏が著した菰野四日市軽便鉄道敷設日誌』という日記内の記述が元となっている(※下写真、表紙/菰野町郷土資料コーナー所蔵)。

菰野四日市軽便鉄道敷設日誌』表紙。赤線囲み部に注目


この表紙内の一文にも書いてあるところだが、そもそも四日市鉄道㈱の起源である菰野四日市間の鉄道敷設計画は明治41年10月27日」に発起したことになっている(※写真赤線囲み部)。もちろんこの時は単純に有志が計画を立ち上げた日というだけで、何ら具体的な陣容など何も決まっておらず「絵に描いた餅」状態であった。この後、伊藤新十郎氏は津市に支店を持っていた大日本軌道㈱の伊勢支社社長・玉井丈次郎氏の支援を受けつつ綿密にその計画と経営陣容を固め明治42年12月16日四日市市役所経由、12月17日三重県庁宛に菰野四日市軽便鉄道敷設申請書」を進達する(※下写真、新十郎による申請書写し、表紙)。

前出『…敷設日誌』内、申請書の写し(表紙部分)。

菰野町の広報誌等ではこの申請書提出をもって現在の湯の山線の始まり」と表現しているが、同申請書ではまだ「四日市鉄道㈱」の表記は登場しておらず、代わりに「軌道起業目論見書」中で会社名称を伊勢三重軌道株式会社」とする、としている(※下写真、赤線囲み部)。さらに写し書内では既に存在していた伊勢鉄道㈱」との重複を避けるためか冒頭の「伊勢」を消去して「三重軌道㈱」と修正し、既に申請済の三重軌道㈱とまさかの「名称被り」をしていたことが分かる。

『同』書内「起業目論見書」。「伊勢」の部分を消している様子が見える

敷設申請後、この完全なる「名称被り」がどの辺りで指摘を受け修正したのかは同日記内記述の完全なる解読を待つ他ないが、翌年5月12日付の鉄道院からの呼び出し照会連絡があった際には四日市軌道㈱」の名称に変わっていることから、かなり早い段階で指摘を受け改称をしたことが想像される(※下写真、赤線囲み部)。

『同』書内、鉄道院からの照会通牒の写し。「四日市軌道㈱」の記載が見える

この鉄道院からの呼び出し内容は、もともと「軌道条例」に準拠して申請していた四日市軌道㈱」の敷設申請は近日中に施行される軽便鉄道法」での申請に切り替えた方が良いというアドバイスを含めたものだった。これを受け、同年8月8日付で軽便鉄道敷設免許願」を提出。「軌道」から「軽便鉄道」に変わったため、この申請の際は社名が四日市鉄道㈱」に変更されている(※下写真、赤線囲み部)。

『同』書内「軽便鉄道敷設免許願」の写し。四日市「軌道」と「鉄道」の記載がある

以上の史料から、四日市鉄道㈱明治42年12月の軌道敷設申請以降、明治43年8月の軽便鉄道敷設免許申請に至るまでに①伊勢三重軌道→➁三重軌道→③四日市軌道→④四日市鉄道といった名称の変遷を見ることが出来る(※①→➁はあったかどうか微妙だが)。

 

どの部分からを四日市鉄道㈱としてのスタートと考えるかどうかは人それぞれと思う。が、間違いなく言えることは、実際には三重軌道㈱側にも四日市鉄道㈱同様に発起設立までの経緯があるわけで、単純にその詳細が不明なだけで設立日を『官報』内の商業登記日とするのはあまりにもフェアではないと感じるのは自分だけだろうか。一部の四日市市歴史研究の冊子内ではあたかも四日市鉄道㈱の方が三重軌道㈱よりも早く設立され鉄道が敷設されたかのような誤解を与えかねない表現になっているものもある。早い遅いという順番はどちらでも良いように感じられるが、こと四日市市の鉄道の場合は後の四日市~諏訪間の「軌道交叉」問題も絡んでくるため、きちんと基準を設定したうえで正しい順番で表現しておかないと後の歴史経緯の説明に矛盾が生じるのだ。

四日市鉄道㈱誕生は、明治44(1911)年5月27日(設立登記日)である。を是非正式としてほしい。

 

以上