三重軌道・幻の「保光苑停留場」について

大正元(1912)年から5年まで存在していた三重軌道㈱。今回は昨年7月1日付の当ブログ「『幻の四日市連合駅』成立の真実。(前編)」内でほんの少しだけ登場した三重軌道㈱初期のわずかな期間のみ存在したと思われる「保光苑停留場」について書いていく。

 

とは書いたものの、おそらくほとんどの方が「?」となる話題だろうと思う。それもそのはず、その停留場の存在に関する記述や情報等は四日市市公式の歴史書ともいえる四日市市史』には書かれていないうえ、当時の公文書史料・後年の関連書籍に登場するのも数えるほどしかないまさに「幻」と言っても過言ではない停留場なのだ。そのわずかな情報のうちの一つ、前出ブログ記事で紹介した鉄道省文書』史料を改めて提示する。

下画像は大正元(1912)年10月29日付三重軌道㈱提出「三重軌道特許線路一部変更願書」の主文。詳細の説明は省くが、諏訪付近で四日市鉄道㈱の予定線路に影響を及ぼす箇所があるが両社協議し同鉄道の承諾を得ているので別紙工事方法書及び図面の一部変更の件を至急認可してほしい、といった趣旨の内容だ。

大正元年10月29日付「三重軌道…変更願書」当時は九鬼紋七氏が両社の社長を務めている。

この願書内に別紙添付と書かれている図面は残念ながら存在しないが、「工事方法書」「理由書」は残されている。その添付内「設計変更理由書」文中で

「…一哩付近に於て四日市鉄道線に接近し並びに保光苑停留場を設け相互の連絡を…」

上記「…変更願書」添付の「設計変更理由書」。四日市鉄道との相互連絡が目的としている

と、「保光苑停留場」の名称が記載されている(※上画像、赤線囲み部)。大正元年10月頃といえば三重軌道㈱が日永~南浜田間を延伸開業、さらに四日市市街へと延伸しようと画策していた頃である。文中では同停留場の詳しい箇所(哩程)は書かれていないが、①三重・四日市両鉄道㈱線路が接近する約1哩付近とあること、➁停留場が諏訪公園の旧名である「保光苑」(※名称を変更するのは大正5年のこと)の名を冠していることから、場所的に諏訪付近であろうことは容易に想像できる。ちなみに僕個人の調べる限りでは今のところ「公文書」での同停留場名の記載があるのは唯一この文書のみだ。

 

しかしながら、実は過去に民間出版社が出版した鉄道雑誌内でもこの「保光苑停留場」の存在に言及した箇所があるレポート記事が存在している。それは昭和38(1963)年5月発行『鉄道ピクトリアル』5月号<臨時増刊>第145号・私鉄車両めぐり<第4分冊>、

『鉄道ピクトリアル』1963年5月号臨時増刊表紙。別冊として刊行、その4冊目。

P.64~73に掲載されている「三重鉄道三重線」というタイトルのレポート記事だ。執筆者は矢納重夫氏で昭和21(1946)年三重交通に入社、この当時も同社員であった(※同氏はこの前後年に同雑誌内にて三重交通神都線」「三重交通志摩線など立て続けに他の三重交通軌道線のレポート記事も掲載している)。同氏は上記の記事文中で

「大正2(1912)年5月7日、南浜田ー保光苑(後の諏訪)間が開通」

と記述しており、「保光苑停留場」が後の「諏訪」駅であると示唆する一文を残してくれている(※下画像、赤線囲み部参照)。なお、期日の5月7日は三重軌道㈱の同区間線路敷設工事竣工及び出願の期日であり、同区間の開業日を指すものではない。

「三重鉄道三重線」記事P.64(右画像)中、赤線囲み部を拡大したのが左画像。

昭和30年代というまだ明治・大正の面影が十分に残っていた時代に同停留場の存在に言及してくれた貴重な文献である。加えて同記事は当初三重・四日市両鉄道㈱の両線路が交叉する計画だったこと、四日市鉄道㈱側が当初は跨線橋を設置する予定で設計図まで作成していたことにまで言及しており、かなり信憑性の高い文献だったと思われるのだが、残念ながらそれ以外の記述部分に間違った情報が多々見受けられたため(勘違いか調査不足なのか、明治45年と大正元年の間に余分な1年の空白を作ったり(※明治45年7月30日明治天皇崩御、8月1日から大正元年となるため実は同じ1912年)、原稿からの誤植なのか日永~南浜田間開業が大正10年になっていたりしている(※実際は大正元年10月))か、記事の内容自体あまり重要視されることなく時代の渦中に葬り去られてしまったようだ。こちらも同様に現在に至るまで今のところ民間においての同停留場に関する記述も僕の知る所ではこの1か所のみである(※当雑誌に同停留場の記載がある事実をご教示いただいた盟友・U野氏に対しここで多大なる感謝の意を述べたい)。

 

僕は鉄道省文書』で両鉄道の「軌道交叉」の事実と同停留場の記述を発見して以降、「保光苑停留場=後の諏訪」だろうという仮説のもと、その証明をできる史料が残されていないかずっと探していた。そして今回もやはり、先々月にも紹介したうつべ町かど博物館にて閲覧できる鉄道省文書/三重軌道会社 自明治四三年 至る大正六年』を時間をかけて解読することで、ようやくその証明に「なり得る」史料を発見できた。ここで「なる」ではなく「なり得る」としたのは、その文書が鉄道院からの「照会通牒」であり正式な公的文書ではないからだ。そういう前提の下で以下史料を紹介する。前回(3月10日)当ブログで紹介した大正2(1913)年5月10日付「三重軌道線路一部変更並変更箇所工事施工ノ件」に対し、同年9月4日付で鉄道院が三重軌道㈱に対し5項目の照会事項を書いた通牒文だ(※下画像)。その通牒文末尾に「備考」として次の一文がある。

「諏訪停車場の連動装置については、四日市鉄道の主任技術者に■■する■■〇保光園停留場は諏訪停車場の構内となるをもって之を廃止するものと認めたり」(※■は解読不明文字、左下画像参照)

大正2年9月4日付の鉄道院照会通牒(※右画像)。赤線部を拡大・解読したのが左画像。

とある。正式な文書ではないため担当者の速記というかクセ字(笑)の影響でいまだ一部解読不可能な文字があるものの、担当者は文中ではっきりと「保光苑停留場は諏訪停車場の構内に含まれるものと認めこれを廃止する」と明記している。この一文だけで「保光苑停留場」の存在、そして「=諏訪停車場」の2つの事実を証明するには十分すぎる証拠だろう。最終的にこの件も含めた前記変更申請は翌年4月2日付で認可される。

つまり一連の流れを僕個人の独自解釈の時系列順でまとめると、まず三重軌道㈱大正2年5月16日南浜田~「保光苑停留場」間を開業、その後同停留場~院線四日市駅間の線路変更申請に伴い同年9月四日市鉄道㈱の諏訪停車場の構内に吸収、「合同乗降場」の一部となる。その際三重軌道㈱「保光苑停留場」「江田停留場」に変更した、という流れと考えられる。ただ現時点で停留場名を「保光苑」から「江田」に変更した正確な時期は判明していないが、大正3年7月の公式文書では既に「江田停留場」の記述が見られる(※下画像、赤線囲み部参照)ことからおそらく前出の大正3年4月の変更申請の際

大正3年7月10日付「工事方法書一部変更願」。「江田停留場」の記載が見える

には名称変更も同時になされたと考えるのが自然だろう。結論としては、大正2年5月~大正3年4月までのわずか1年弱だけ「保光苑停留場」は実際に存在していたと思われるが、4か月後の大正2年9月以降には四日市鉄道㈱の諏訪停車場の一部に組み込まれたため事実上「諏訪停車場」という認識しかなされなかった可能性が高い、というところだろう。

 

また一つ、細かすぎて実際の四日市市の歴史には反映されないであろう新事実が明らかになった(笑)。でも、こうして一つずつ小さな事実を積み重ねることが大事なのではと思います。ここに書いたことを信じるか信じないかは、あなた次第です(笑)。

・・・最後に、かなり過去のものでしたが参考文献資料として提示させていただいた『鉄道ピクトリアル』出版先「鉄道図書刊行会」様に対し心より感謝とお詫び申し上げます。以上