伊藤六治郎の周辺、ついでに伊藤5事業部について。

明治時代末期の伊藤製茶部主任・伊藤六治郎のことを書く前に、まずはこの当時の伊藤製茶部を含めた伊藤5事業部のことを紐解く必要がある。

 

5世伊藤小左衛門(尚長、1818(文政元)~1879(明治12))が四日市室山の「近代産業の祖」たらしめているのが、江戸末期から明治初期にかけて製糸業・製茶業といった近代産業をいち早く現地で取り組んだ功績によるもので、後の教科書で「進取の気象」という題目にもなったことが大きく影響している。

祖父にあたる3世小左衛門が本業の農業の傍ら味噌醤油醸造業を開始して財を成し、父4世小左衛門の頃には伊藤家は名字帯刀を許されるほど裕福な家柄となっていた。この時点で伊藤家は既に一般の民衆とは違い、日本の中心地・江戸及び明治新政府での国家運営方針や世情の趨勢を知りうる立場になっていたため、前述の「進取の気象」はあくまで一般民からの賞賛の視点であり、実際には経営者の一人として考えれば全国に同様の事業展開を目指す人物は数多いたため、特筆するようなことではない。

それでも、当時まだ未成熟だったそれら近代産業に手を出すことは、経済的破滅を含めかなりのリスクを負うことには違いない。5世小左衛門が好奇心旺盛だったという一言のみで片付ければ簡単だが、危険を冒してまでこれら事業に参入した理由はおそらく、若くして家業を継いだ(この時点では「家業」は継いでいるが家督は継いでないとする説もある。ややこしいが(汗)。)直後の伊賀上野地震(1854(安政元)年)・安政地震(1855(安政2)年)の際、全壊した家屋や醸造蔵の復旧・復興に注力してくれた自身の3人の弟たちへの恩義であったろうと思う。「伊藤家ももはやこれまで」とささやかれる中、この危機に対し次弟・小右衛門は味噌醤油蔵の仕込み再開、三弟・小三郎は松阪へ再建用の材木調達、四弟・所左衛門は片付・修繕をそれぞれ担当し、早くも2年後には見事復興前以上の生産高を実現させてみせた。5世小左衛門は多大な貢献をしてくれた3人の弟たちへの感謝と恩義のため、彼らに本業の味噌醤油業とは別の生計を立てる方策を与えたい一心で、覚悟を決めこれらの産業に邁進したのだろうと考える。ただ、これらの事業が完全に軌道に乗る前に5世小左衛門はこの世を去っており、志半ばでの死はさぞ心残りであったことだろう。

 

さて、ともかくも5世小左衛門の遺志を継いだ弟達たち、そして彼らの息子たちが成功へと導き伊藤醤油部・酒造部・製糸部・製茶部・機業部の5事業部制が完成する。正式な法人・株式会社としての登録は1917(大正6)年1月28日設立登記ではある(『官報』2月19日商業登記欄。7世小左衛門が当主の時代)が、事業としての形態はそれ以前から確立されていたようで、『日本現代富豪名門の家憲』(岩崎徂堂編・明41.7出版)内には

「同家は明治34年同族を以て匿名組合伊藤組を組織し上に総長を置きて営業全部の監督に任じ、部門毎に同族中より適任者を選んで主任と成す 以上の四家互いに分業連立し分れては一家を成し集まっては総家を成し、重要なる事項は各部の重役参与して之が協議決定を為すの方針を取れり」

とあり、少なくとも明治時代後半にはある程度の形態が確立されていたことがうかがえる(ちなみに明治41年当時は6世小左衛門(運久)の時代)。もっとも、5番目の機業部に関しては時代によって製薬部であったりとその名称が変わっていることから、前出4事業部の補助的役割を担う事業であったと考えられ、基本的にはやはり5世小左衛門が興した最初の4事業がメインと考えて間違いないと思う。

 

ただ、5世小左衛門が意図した(と思われる)3人の弟たちへの事業継承は、その思惑通りにはいかなかった。明治後期の匿名組合当時の記録がまだ見つかっていないため、前述の株式会社商業登録(1917(大正6)年)当時の登記を参考にするしかないのだが、それによれば

㈱伊藤醤油部 伊藤小左衛門(専務取締役)

㈱伊藤酒造部 伊藤小左衛門(取締役)・伊藤元太郎(取締役)

㈱伊藤製絲部 伊藤三郎(取締役)

㈱伊藤製茶部 伊藤六治郎(取締役)

㈱伊藤製薬部 伊藤六治郎(取締役)

(※なお製絲部・製茶部・製薬部も同様に小左衛門は取締役として名を連ねている)

本来の生業である味噌醤油部門は当然ながら宗家・当主である伊藤小左衛門一族が担当していたが、大正6年当時は既に6世小左衛門(運久)も死去しており、後を継いだ7世小左衛門(昌太郎)であった。順番通りであれば、2番目に始めた酒造業を受け継ぐはずであった次弟・小右衛門は世継ぎとなる男子に恵まれないまま1885(明治18)年に死去したため、この頃には結果的に多くの男子に恵まれた四弟・所左衛門の末子・元太郎が酒造業を担当することになっている。製絲業は、この時点でもまだ事業開始直後から5世小左衛門と共に研鑽を重ねていた三弟・小三郎の息子・小十郎及び富治郎を含む小三郎の息子一族を中心に担当していた(㈱製絲部取締役の伊藤三郎は小十郎の三男)が、そもそも製糸業自体が支店・分工場・系列会社など企業形態が多岐にわたっていたため、これまた四弟・所左衛門の息子(勝次郎)が一部を担当したりしている。

そして製茶・製薬部。ここでようやく主題の人物、伊藤六治郎が登場する(笑)のだが、この2事業部も四弟・所左衛門の息子・伊藤六治郎が担当といった具合に、大正6年時点で四弟・所左衛門の息子一族が宗家・小左衛門一族を超える4事業部の要職の大部分を占める形になっており、この状況からも当時の伊藤事業部経営において四弟・所左衛門一族の発言権がかなり強かったのではないかという想像が見えてくる。しかもこの当時六治郎の担当する伊藤製茶事業部は世界各地に輸出を行っており、なおさらその発言には耳を傾けざるを得なかったのではなかろうか。

 

こういった事情もあってだろう、伊藤六治郎の提案した軽便鉄道敷設案は総長・伊藤小左衛門(7世・昌太郎)を動かし四郷商工会を通じて地元有力者たちに持ち掛けられ、結果的に三重軌道㈱による1912(大正元)年8月の日永~八王子村間開業・開通へと結びつくこととなる。最終的には四日市市街中心部まで延伸されその後の四日市市の激動の歴史の一翼を担うことになる・・・が、開業のわずか10年後には伊藤六治郎はその職を追われる結果となる(詳細は過去の記事を参照して下さい)のだが・・・。

ただ、これらの経緯はただ単に伊藤六治郎の発言権のみで生み出されたものではなく、その時代の現地の企業家・有力者のニーズに偶然合致したのも一因であったといえる。そう言う意味では伊藤六治郎もまた、5世小左衛門と同様に未来を見据える眼力を持っていた有識者であったとも言えるのではなかろうか。ただ、当時の文化・技術革新の変動が大きく速すぎたのだ。それは現代でも言えることではあるが。

 

さて、次は何を書くんだっけ。あ、室山~四日市間鉄道建設の話に戻しましょうか。