「幻の四日市連合駅」成立の真実。(中編)

前回は三重・四日市両鉄道間で初めて交わされた協定書(大正2年5月14日付)を変更申請書とともに四日市鉄道㈱が提出し、同年9月に両社共同乗降場である「諏訪停車場」(もともとは三重軌道㈱の保光苑停留場)を設置したところまでの話を書いた(下写真参照)。

国立公文書館所蔵『鉄道省文書』内の「協定書(左)」(※内容詳細は省略)より。

これを示す史料として、同年7月25日に一度提出し結局9月16日付四日市鉄道㈱提出の「申請下戻願」という文書があるが、この中には差替えで不要となった三重軌道㈱との「両社共同設計諏訪停車場図面」が奇跡的に残されている(国立公文書館所蔵『鉄道省文書』下図面)。これは既に開業済みの三重軌道㈱「保光苑停留場」の一部が基となっている図面と思われる。両鉄道の水平交叉と相互に列車交換できるデルタ線形状の様子が描かれており、さらに三重軌道㈱がこれから先への延伸を目論んでいるかのように諏訪合同停車場中央部分を貫くかような線路が途中まで一本延びている(行き止まりにはなっている)など、非常に興味深い構造となっている。ただ図面右端の三重軌道㈱の主任技術者名記入欄だけが白抜きになっており、

「三重四日市共同設計諏訪停車場平面図」左側に延びる線路が院線四日市方面。


後からの書換え或いは加工をにおわせる作りになっていることから、三重軌道㈱同意の元の「共同設計」としつつも四日市鉄道㈱主導による作成図面の可能性は否定できず、この図面のみで三重軌道㈱が諏訪新道への軌道敷設をあきらめた証拠とするにはその効力はやや乏しいと言わざるを得ない。

これに対する三重軌道㈱側の対応、というわけではないが、偶然にも協定書を締結する4日前の5月10日付で三重軌道は「特許線路一部変更願」を提出している。ただ文書には変更内容が記載されていない(工事方法が別紙図面に書かれているため現存しない)ためその詳細を知ることはできないが、その願書中「理由書」の一文で

「…目下街路ノ状態ハ日ニ行通頻繁トナリ現在路幅ヲ以テ人馬車ノミノ通行ニ頗ル狭隘ヲ感スルニ至リ市区ノ改正ヲ施サザレバ到底軌道ノ敷設ヲ許サザルニ由ル」

と表現(下写真右側参照)し、一見諏訪新道への敷設をあきらめたように受け取れる文章を残している。が、単に「行政による区画整理?が施されなければ到底(諏訪新道に)軌道が敷けない」として行政に助け船を求めているだけの文章ともどちらにも解釈できるのも事実である。とにかく大正2~3年にかけては、三重軌道㈱四日市鉄道㈱双方の線路敷方法の認識が明らかに食い違っているため判別が難しい。これに関しての手がかりは同年8月29日付三重軌道㈱提出の文書「車両進行速度変更ノ件」内、各駅間速度を表にした鉄道院職員による作成と思われるメモ書きがあり、これには一番右側の記述「阿瀬知川-四日市区間の下部に四日市-諏訪間 道路敷」という但し書きが見て取れる(下写真左側参照)。

大正2年5月10日付「理由書」(右)と、同年8月29日付「駅間速度表」(左)

仮に鉄道院側がこの時点で三重軌道㈱の軌道を四日市鉄道㈱の線路敷と並行して敷設するという認識でいたなら、この部分の記述は「新設軌道」と書かれるべきであり、このことから少なくとも「鉄道院側は三重軌道㈱の線路はまだ諏訪新道への軌道敷設予定である」と認識していると見て良いと思う。当然、当事者の三重軌道㈱側もまだ諏訪新道への敷設をあきらめていないと判断できると思う。ただ、いずれにせよ前述の5月10日付変更申請の提出以後は四日市鉄道㈱と協定書を交わしたにもかかわらず三重軌道㈱がそれに関わる変更申請を提出することはなく、ここまでの両社間の諏訪近辺の変更内容は単に軌道交叉の方法(立体交差)が水平交叉に変更されただけにとどまり、三重軌道㈱は相変わらず四日市鉄道㈱の線路北側(諏訪新道上)に敷設する計画のままであったと考えられる。

 

ここで改めて前回示した「四日市連合駅」成立のための条件3項目を明記しておく。

四日市鉄道㈱と三重軌道㈱の軌道交叉(水平交叉)の廃止

➁三重軌道㈱が四日市鉄道㈱の予定軌道線そばへ路線を変更(移動)

③三重軌道㈱と四日市鉄道㈱の敷設位置変更(南北逆転)

中編に至ってなお、まだ①➁③どれも解決していない(笑)。

 

この後四日市鉄道㈱三重軌道㈱の「保光苑停留場」までの開通に遅れること4か月、大正2年9月に川島村~諏訪(=三重軌道㈱の保光苑停留場)間の仮開業を果たし、両鉄道とも残る未竣工区間は諏訪~四日市市間(※三重軌道㈱四日市~阿瀬知川間の貨物線も未竣工状態ではある)のみとなる。

その後、四日市鉄道㈱大正3年6月から大正4年3月にかけて諏訪駅の「停留場」から「停車場」への登録変更(大正3年6月27日付「停車場種類変更ニ付認可申請)、車庫や全線開通時の諏訪駅裏線の延伸などの変更申請(大正4年3月19日付「停車場諸建物及側線変更届」)を立て続けに提出するが、そもそも利害関係のある三重軌道㈱が諏訪新道への軌道敷設からの変更申請、及び軌道敷設位置(北側→南側)の変更申請をしていないため、ことごとく鉄道院から「認可の線路形状と一致しない」との照会(下左右写真参照)を受けてはその都度申請の取消しを繰り返している。最終的に三重軌道㈱が諏訪新道へ

左:大正3年7月4日付「停車場諸建物及側線変更届」に対する鉄道院からの通牒文  
右:大正4年3月25日付「停車場種類変更ニ付認可申請」に対する鉄道院からの通牒文

の軌道敷設をあきらめたと分かる正式文書は大正3年12月、四日市鉄道㈱との軌道敷設位置(北側→南側)の転換を決定する正式文書は大正4年11月付提出申請まで待たねばならないのである。結局、三重軌道㈱の専用軌道への転換の判断と変更申請提出の遅延が、両鉄道の院線四日市駅までの開通を致命的に遅くしてしまったことは間違いないと言えるだろう。

 

 

次回後編は、いわば「解決編」ともいうべき四日市連合駅成立直前の経緯と、これらに対する現在の四日市市の一般的歴史認識とのズレを紹介していきたいと思う。

 

・・・やっぱり、うまくまとめられないな・・・