「幻の四日市連合駅」成立の真実。(後編)

中編では四日市鉄道㈱が立て続けに変更申請を出しては取消しを繰り返していたところまでを書いた。くどいようだが、改めて「四日市連合駅」成立の3条件を明記する。

四日市鉄道㈱と三重軌道㈱の軌道交叉(水平交叉)の廃止

➁三重軌道㈱が四日市鉄道㈱の計画線路のそばに線路を変更(移動)

③三重軌道㈱と四日市鉄道㈱の線路敷設位置の変更(南北逆転)

 

四日市鉄道㈱からすれば、三重軌道㈱の線路敷設位置の方針が決定しないため、いつまで経っても諏訪以降の院線四日市駅への延伸が進められない。あるいは諏訪停車場構内の水平交叉部分はそのままに、鉄道院からの認可通りの方法で延伸工事するしかない。ちなみに下図は、大正3年6月提出の某申請内に残されていた鉄道院職員が手書きしたと思われる当時の諏訪停車場周辺の線路配線図を表すメモ書きで、青線三重軌道㈱赤線四日市鉄道㈱線を示している非常に分かりやすい手書き図面だ(『鉄道省文書』より)。

大正3年6月23日付申請書付属の鉄道院職員(推定)による諏訪停車場配線図メモ書き。
両線の実線は既に敷設済の現行線路、破線が延伸予定の敷設計画線と思われる

このメモ書きの配線図から、少なくとも鉄道院側は大正3年6月時点では三重軌道㈱は諏訪新道ではなく四日市鉄道㈱のすぐ北側を沿う形で敷設する認識に変わっていたとみて間違いないと思う。・・・というより、前回も紹介した大正2年5月14日付協定書の内容の時点でも鉄道院と四日市鉄道㈱の両者はこの認識で一致していたが、三重軌道㈱のみが勝手に諏訪新道への敷設にこだわっていた、と見る方が自然だろう。ともかく、仮に延伸工事を進めるとするならば四日市鉄道㈱三重軌道㈱がどうしようが構うことなく自らの計画線に従い延伸工事に取り掛かったはずである。この際注目すべきは、四日市鉄道㈱が上図のどの線路を主線路として考え延伸したかだ。上図の太赤線四日市鉄道㈱の本線と考えていると思われるため、諏訪停車場で分岐した南側の線路(上図でいえば上側。つまり分岐した下側(北側)は避退側線という認識)を本線として延長していくだろうと考えられる。この主線路と退避側線の区別はこの後出てくる延伸問題に絡むため、覚えておいてほしい。

対する三重軌道㈱は地価暴騰のため遅々として進まない敷地買収に、ついに諏訪新道への軌道敷設をあきらめる(今さら(笑))。これを示す文書が四日市市史』でも紹介されている大正3年12月9日付「三重軌道からの請願書」だ。興味のある方は、是非図書館で『同市史』12巻 史料編P.510~512 を参考にしてもらいたい。下記に一部を抜粋する。

「…又四日市市街路供用ノ局部ハ日ニ月ニ熱闤(かん)ノ巷ト化シ、馬車路繹トシテ雑踏ヲ極メ、著シク旧観ヲ改メ狭隘(あい)ヲ告クルノ現況ナルヲ以テ、特ニ事状ヲ具シ市街線ヲ全廃シ専用線路ニ変更スルノ止ムナキニ至レリ、…」

と明言している。仮に三重軌道㈱が当初から四日市鉄道㈱線路のそばに敷設する予定であったならば、それは「専用線路」なのだから「市街線」などと表記するはずもなく、また大正3年時点での未完成路線は諏訪~四日市駅間及び阿瀬知川駅間の貨物(専用)線のみのため、この文書の「市街線」は間違いなく諏訪新道のことを指していると考えて良い。つまりこの文書から三重軌道㈱は少なくとも大正3年12月までは諏訪新道への軌道敷設を目指していたと考えて良いといえる。

そしてこれは同時に、これより以前に三重軌道㈱四日市鉄道㈱線路敷のそば(北側)に率先して線路を敷く理由がなく、かつ未だ両社の軌道交叉問題が解決していないため三重軌道㈱が無許可に四日市鉄道㈱線路南側に線路を敷く理由がないため、現在四日市市の歴史として知られている「三重軌道が大正2年5月南浜田~諏訪前間開通」という一般的認識を完全否定する要素をも含んでいることになる。(※諏訪前駅は「旧国道(東海道)と線路交叉部の南東角にあった」とされている。軌道交叉の問題が解決しない限り諏訪前駅は線路南側、つまり四日市鉄道㈱の計画線路上に駅を設置したことになるため)それでも敢えて表記するならば、正確には「諏訪前」でなく諏訪」(すなわち前出の保光苑停留場)間開通、と書くべきであるといえよう。実際、四日市あすなろう鉄道近畿日本鉄道三重交通などの直接的関わりのある現存企業の社歴を見ると全て「諏訪」で統一されているので実際に確認してみてほしい。それにしても、もしこれが本当であったなら三重軌道㈱は諏訪まで開通させた当初からほぼ実現不可能だった諏訪新道への敷設計画に1年半近くも無駄にこだわり続けていたことになる。相手方の四日市鉄道㈱からすれば、もっと早くにあきらめてくれていれば少なくとも1年は早く全線開通ができたはずであろうに、本当に迷惑な話である。

 

ともかく、三重軌道㈱の諏訪新道敷設断念を受け、四日市鉄道㈱はようやく軌道交叉の問題に終止符を打つことが出来るようになった。これを示す文書が大正4年10月13日付四日市鉄道㈱提出の「線路変更届」と添付書類「協定書写」と「理由書」(下写真)だ。

大正4年10月13日付「線路変更届」同左「理由書」中央10月6日付「協定書写」

「…四日市鉄道起点零哩六十六鎖六十節、三重軌道起点零哩七十鎖三十九節二ノ箇所ニ於テノ線路水平交叉ヲ廃シ四日市鉄道ハ両社線路中心ノ北側ニ三重軌道ハ南側ニ線路ヲ敷設スル事」

とあり、これら文書により①軌道交叉(水平交叉の廃止)➁計画線路の変更が解決することとなる。そして同時に③敷設位置の変更の問題も解決したような風にも見えるが、実際はそうではない。というのも、実は両鉄道はこの協定書の前に同年6月25日付で別の協定書を締結しており(下写真参照)、その中の一文で

「諏訪停車場構内設置ノ共同乗降場ハ両社ニ於テ客貨運輸上共同ノ必要ヲ認メズ依テ是レヲ廃シ四日市鉄道ハ同裏線ヲ延長スル件」

大正4年7月27日付の鉄道院照会に答申した文書内、三重軌道との2度目となる協定書

とし、諏訪共同乗降場の「裏線」を(院線四日市駅まで)延長することを伝えている。

ここで思い出してほしいのが、前半で紹介した鉄道院職員手書きの諏訪停車場の図面である。三重軌道㈱は少なくとも大正4年10月段階までは四日市鉄道㈱の線路北側に線路を敷く計画だったのだから、当然当社の敷地買収は四日市鉄道㈱本線の北側部分を買収していたはずである。にもかかわらず四日市鉄道㈱は上写真の同年7月協定書ではまだ三重軌道㈱との軌道水平交叉解消の協定が締結されていないのに、本来三重軌道㈱が敷設するはずである敷地北側部分に線路を延伸すると伝えていることになり、完全な間違いといえる(下図参照、三重軌道㈱との線路位置の交換が必要であることが分かる)。

三重軌道㈱は大正3年末から四日市鉄道㈱線路北側の敷地買収を開始したと思われる


案の定、鉄道院から何度も照会通牒を受けており、前述の「線路変更届」も含め何度も修正した図面など提出しているようだが、同年12月18日付照会通牒で

「今回十二月八日附ノ答申ニ依レハ單ニ三重軌道線路ノミノ変更セントスルモノノ如キモ同書附属平面図竝本年十月十三日附届出ノ書類及附属平面図ニ依レハ線路ノ位置ヲ相互ニ交換変更セントスルモノゝ如シ 若シ斯ノ如ク変更セントセバ線路ノ何カニ於テ既認可線路ト異ナル曲線ヲ挿入セル要アルベシ…」

と、しっかり線路敷設場所が逆転していることを見破られている(笑)。もっとも、この問題は既認可の線路曲線と提出した図面との整合性といった事務的な問題であり、実際の延伸工事への問題は前述10月13日付の変更届と協定書で解決しているため、これらの認可を受けて延伸工事は遅くとも大正4年11月頃には着工していたと思われる。

三重軌道㈱側もほぼ同時期の大正4年11月6日付で「停留場及線路変更並貨物連絡所設置之義御願」を提出、「四日市鉄道㈱線路の北側に線路を敷く」と正式に明言し(下写真)両社の軌道交叉問題は解消、院線四日市駅への延伸工事は一気に進捗することとなる。

大正4年11月6日付「停留場…御願」。全線開通後の阿瀬知川貨物線延伸の件にも触れている

 

結果的に、諏訪停車場から院線四日市駅までのわずか800mほどの線路延伸に2年半もの時間を要した主たる原因は、三重軌道㈱側の判断が遅かったという一面はあるにせよ、両鉄道とも双方の軌道交叉問題を直前になるまで先延ばしにしてしまったため起こったものと言える。もちろんそこには時間経過とともに高騰し困難となった敷地買収問題、大正2年10月発生の水害による被災や三重軌道㈱と沿線住民との裁判問題(※詳細は過去記事「大正3年三重軌道㈱が起こした事件ともう一つの「赤堀駅」」参照)などの様々な不運があったことは確かだが、それにしても両社の折衝度があまりに希薄すぎるような気がしてならない。もう少し綿密に連携し問題に向かっていれば早急な解決が出来たのではないかとしか思えず、会社首脳陣は両社とも地元有力者がほぼ重任しているにもかかわらず本来競願であったこともあってか両鉄道の仲は良くなかったのだろうと想像せざるをえない。

 

以上、「「幻の四日市連合駅」が出来るまでに起こったゴタゴタの真実」をお送りしました(予想通り上手くまとめられなかった(笑)!)。最後、追加編として四日市連合駅までの全線開業はどちらが先に開業したのかを史料と共に検証していきたいと思います!