「幻の四日市連合駅」成立の真実。(前編)

今回紹介する四日市連合駅」は、三重軌道㈱四日市鉄道㈱の二つの軽便鉄道が乗り入れる全国的にも珍しい軽便鉄道ターミナル駅のことで、駅舎開業は1915(大正5)年3月23日、伊勢新聞が3月21日付記事にて伝えている。

四日市鉄道三重軌道連合駅竣工につき二十三日連合開通式を行ひ知事以下を請待し煙火(花火)等の餘興ある筈(四日市)」(記事全文)

連合駅写真『四日市市史研究』第14巻「ふるさと点描 幻の大正5年」より

写真左側(北側)が四日市鉄道㈱、右側(南側)が三重鉄道㈱の乗降場で、右へ延びる側線は貨物専用駅の阿瀬知川駅(阿瀬知川北岸)まで続いている。左右対称の立派な駅舎が見映えすることもあり、四日市軽便鉄道の歴史を語る上で特に話題にされることが多い写真となっている。見ての通りこれだけの規模の駅施設である、完成までには相当時間を要したのではと誰もが思うだろう。が、実際には駅舎はともかく線路の方は開通からわずか5か月前、大正4年10月時点までは両鉄道の乗り入れ方向は全く逆(四鉄が右側、三軌が左側)の計画になっていたのである。この事実は、四日市市の歴史を語るこれまでのどの文献にも書かれているのを見たことがない。

 

さて、ここで改めて前回ご紹介した1910(明治43)年11月時点での三重・四日市両鉄道の敷設特許取得時の院線四日市駅への建設予定ルートを提示、再度確認する。

前回同様、青線が三重軌道㈱、赤線が四日市鉄道㈱の軌道計画線を示す

何度も言うが、両鉄道の軌道予定線は諏訪付近で交叉する計画で認可されていた。この際三重軌道㈱が「諏訪新道」を通る通らないはどうでも良い(笑)、とにかく上図の通り三重軌道㈱が北側、四日市鉄道㈱が南側を通る予定だったのである。つまり、このままでは上写真の連合駅の両鉄道終点は実際とは全く逆になってしまう。それを解消するために以下3つの条件を修正しなければならないことを、まず覚えておいてほしい。

① 四日市鉄道㈱と三重軌道㈱の軌道交叉(現状は立体交差)の廃止

➁ 三重軌道㈱が諏訪新道敷設をあきらめ四日市鉄道㈱の予定軌道線そばへ路線変更

③ 三重軌道㈱と四日市鉄道㈱の敷設位置変更(※これは北側南側だけでなく敷設地内における位置変更も含む)

 

①諏訪付近の軌道交叉に関しては、三重軌道㈱の方が早く動き出す。鉄道博物館所蔵『鉄道省文書』(以下前回記述参照)収蔵、大正元年10月29日付「三重軌道特許線路一部変更願書」を提出。自らの軌道予定線が四日市鉄道㈱の軌道予定線に影響を及ぼすことに言及し、「両社協議の上で承諾」されたものとして同文書「設計変更理由書」内で

「…四日市鉄道ニ接近シ並ニ保光苑停留場ヲ設ケ相互ノ連絡ヲ通セントス」

「三重軌道特許線路一部変更願書」と「設計変更理由書」。「保光苑」は後の諏訪公園

として四日市鉄道㈱との交叉部分付近に「保光苑停留場を設ける」としている。「両社協議の上」とは言うが、仮の停留場とはいえ立体交差で許可を得ている四日市鉄道㈱にしてみれば邪魔にしかならないように思える。なぜこの提案に四日市鉄道㈱が同意したのか理解に苦しむところだが、次の段階へのステップの一つと考えれば一応の納得はいく。そして大正2年に入り、三重・四日市両鉄道四日市市街(諏訪近辺)に軌道延伸を進め始めた頃、交叉問題で再び両社間で協議が行われ同年5月10日に諏訪駅、及び四日市駅に関する協議を行い5月11日両社間で協定書が交わされる。その内容は国立公文書館所蔵の『鉄道省文書』、四日市鉄道㈱5月14日提出の「線路変更認可申請書」から分かる。これに両社間で初めて交わされた正式な「協定書」が添付、3項目の協定内容が書かれている。その中の第一項で

四日市鉄道諏訪停車場内零哩六拾六鎖附近ニ於テ三重軌道線ト水平交叉ヲナシ三重軌道変更線ニ沿ヒ四日市鉄道線路ヲ敷設スル事」

「線路変更認可申請書」と添付の「協定書」。この時九鬼紋七氏は両社社長を兼任していた

とし、四日市鉄道㈱にとって最大の懸案だった立体交差=跨線橋設置問題が水平交叉に変更、完全ではないが一応の解決を見たことになる。もちろんこれには莫大な工費削減の意味もあったろうが、両社の用地買収が思うように進まない状況下で昨年10月の三重軌道㈱との協定も合わせ本来駅設置の予定のなかった諏訪神社付近に両社合同駅を一時的に設置することで、9月末の諏訪例祭に向け少しでも乗客増加、収益を上げる目的もあっただろう。同時に、四日市鉄道㈱からしてみればこの協定書第一項の内容をもって三重軌道㈱は「諏訪新道への軌道敷設をあきらめ四日市鉄道線と水平交叉し四日市鉄道線と並行」して院線四日市駅へ延伸する」方法への変更に同意した、と考えたに違いない。もちろん相手方の三重軌道㈱も同様の解釈をしているとも思いたいところである。

ただあくまで個人的意見だが、この協定書の文面では三重軌道㈱側が四日市鉄道㈱の考えたのと同様の内容で捉えたかどうかは非常に怪しいと感じざるをえない。つまり、捉えようによってはこの文面では「三重軌道㈱が変更軌道線の位置を決定しない限り四日市鉄道㈱はそれを追う形での線路敷設が出来ない」というようにも読み取れる。三重軌道㈱側からすれば「自分たちの決めた変更線の後に四日市鉄道㈱が後を追って(敷設して)くれる」というようにも解釈できる、ということだ。先ほど書いた解釈はあくまで四日市鉄道㈱側の「自分たちが敷いた線路の横に敷いてくれるだろう」という都合の良い解釈でしかない。もちろん当時は両社間そのような認識で締結したのかもしれないが、もう少しはっきりした表現をすべきだったのではないかと感じるのだ。たとえば、第一項の文面を

…線ト水平交叉ヲナシ三重軌道変更線ヲ四日市鉄道線ニ沿ハシメ敷設スル事」

あるいは

「…線ト水平交叉ヲナシ四日市鉄道線路ニ沿ヒ三重軌道変更線ヲ敷設スル事」

と書いていたなら、僕が心配するような両社間の誤解は起きなかったかもしれない。…まあ実際そのような表現方法であった場合、三重軌道㈱が「自分達の(先願の)アドバンテージが失われる」と感じ協定に応じない可能性も考えられるが。実際のところ、それ以降の三重軌道㈱が提出する文書を見ても大正2年5月以降も同社はまだ諏訪新道への軌道敷設をあきらめていなかったのではと思われる節が多々ある。方向付けをしっかりと明記しそれらを理解しようとしなかったがために以降は鉄道院、両社とも相互に解釈に誤解が生じたらしく揃ってバタバタの申請変更劇が繰り広げられることとなる。

 

次回は今回初めて交わされた「協定書」以降から始まる大正2~4年にかけての両鉄道のドタバタ劇を説明していこうと思う。…まだ前述の①➁③のどれも解決していないのだが(笑)。