予告文でも書いたが、前回は院線四日市駅西に延びる三重・四日市両鉄道の「阿瀬知川貨物線」の話題を書いた。ちょうど良い機会なので、今回は同貨物線に絡んだ1枚の「謎の写真」について紹介・言及していく。
まずこちらの写真をご覧いただく。
どこかの河川?水路?に架けられた鉄橋上で蒸気機関車に引かれた3両の客車が多くの乗客を乗せ渡っている。手前には踏切施設のない細い路地。右端の電柱に寄りかけられた自転車は車両脇に立つ警備員?が乗ってきたものだろうか。
この写真、四日市市の歴史関係の書籍ではよく紹介されているもので、撮影時期は大正5(1916)年頃とされている写真だ。ちなみに上写真の出典元は平成6年3月1日発行『三重交通50年のあゆみ』P.30のもの(※下画像はその出典元ページの一部を抜粋)だ。ちなみについ先ほど撮影時期を「大正5年頃」と書いたばかりだが、この書籍の注釈文では
撮影時期が「大正4年」と書かれている。つまり書籍により撮影時期の記載が異なっている=文責者の独断に拠るところが大きく、実際にはこの写真がいつ撮影されたものなのかを正確には特定できていない、というのが現状と言えるわけだ。撮影時期すら特定されていないにもかかわらず「写真でしっかり残されている」というだけで残念ながら現状既に多くの四日市の歴史関係の書籍内で紹介され、そしてそれに付記された記述までが一緒に「当たり前のように」一般的認識とされている。そんな情報が真実なわけがない。では、真実は一体どこにあるのだろうか。
先に僕個人の見解をはっきり言っておくが、少なくともこの写真は大正4~5年に撮影されたものではないと推測している。さらに言えば、写真に写る鉄道車両も四日市鉄道を撮影したものでもない、とも推測している。ぶっちゃけ掲載情報をほぼ全否定(笑)である。単なる推測とはいえ、ここまで難癖を付けられてはおそらく掲載・出版した側も大変気分が良くないかもしれない。ということで、なぜ僕がこのような推測に至ったかその根拠を解説していきたい。
下写真は同じものだが、若干サイズと出典元が違う。こちらは平成元年発行『四日市市史研究』第2巻・椙山 満氏著「四日市の陸上交通」P.100からのものだ。とりあえずこの『四日市市史研究』に掲載されていた写真とその「記載内容が真実」だ、と「仮定」する。
なぜ冒頭の書籍でなく今回の『四日市市史研究』掲載の写真を使用するか?だが、こちらの方が一枚の写真に対する付随情報が最も多いからだ。が、今回は写真内に写る鉄橋や付随客車等の視覚的情報に関する検証は次回にするとして、まずは写真下注記や本文の情報(内容)について、一つずつその内容を検証していく(※下画像、掲載ページの一部抜粋)。撮影時期特定のヒントとして大きく4つの情報を見出せる(※赤線囲み部含む)。
➁本社前=車両が渡っている鉄橋?付近に鉄道会社「本社」が所在する(※この場合は文脈からすると四日市鉄道ということになるが?)
③開業祝賀列車=文脈からすれば「四日市鉄道」の開業祝賀列車と考えられる
④大正5年頃=①~③の条件を満たす撮影時期が「大正5年頃」であること
という4点になるかと思う。
①に関しては視覚的情報にも絡むがまず根本的な問題、当時の四日市鉄道が付随客車を3台以上保有していたかどうかの検証をする(※まずあり得ない話だが、万が一にも保有台数2台以下の場合は検証以前の問題(笑)となる)。大正7年8月20日発行『鉄道院鉄道統計資料 大正5年度』第十編 監督 P.144~145「車両現在表」 の四日市鉄道欄を見ると
3等客車のみが6台、計6台との記載がある(※上画像、赤線囲み部。国立国会図書館デジタルライブラリーにて閲覧可。興味ある方は直接閲覧してみて下さい)。この3等客車は車体番号「ホハ1~4」及び「ホハ5,6」を表しているものと考えられ、大正2年の新造以来増減することなく大正年間を通して活躍し続けていた付随客車になる。これで①保有台数の条件クリアは証明された。あとは最も重要な「四日市鉄道の客車かどうか」だが、これは視覚的情報にも絡む問題のため次回にて改めて検証することにする。
次に➁「本社前」、つまり大正5年時点の四日市鉄道の本社所在地だ。明治43年の同社創立当初は本社所在地は「四日市市袋町107番屋敷」だったが、大正4(1915)年5月3日付で本社所在地を移転、その住所を「四日市市濱田1425番地」としており、その所在地は大正年間を通じ変わることはなかったことが国立公文書所蔵の公文書から分かっている(※下画像、『官報』大正4年5月10日付の本社移転商業登記)。
ではこの旧地番「四日市市濱田1425番地」がどの付近を指すのか。もっとも、地番数が近い=隣同士にはなり得ないが立地的参考にはなり得るはずと考え、最も地番数が近くかつ代表的な企業会社及び工場を検索した結果、旧地番「四日市市濱田1424番地」が最も近い地番であることが判明した。その場所を現在地に当てはめるとどこか。…何と、「近鉄百貨店四日市店」(現住所:諏訪栄町7-34)になる。ちなみに、同地番所有者の変遷を大正時代からもう少し詳しく解説すると以下のような流れになっているようだ。
大正4(1915)年4月20日、関西製茶合資会社(代表:脇田善兵衛)設立(※『官報』5月1日付)
大正7(1918)年3月、日本製茶㈱と合併、四日市支店となる
大正10(1921)年頃第一次世界大戦後不況の影響を受け操業停止(翌年閉鎖)
大正14(1925)年6月19日、残っていた支店も廃止(※『官報』9月2日付)
※この後、跡地が川村鉄工所第二工場(社長・川村松次郎氏)として稼働(※らしい)、戦後そのまま四日市近鉄百貨店の敷地に転用されたようだ。
これらを踏まえ、東京交通社編・昭和12年発行の『大日本職業別明細図』内、大正15年6月印刷の「四日市市」の市街地図を確認してみる(※下画像、赤丸部参照)と、確かに現在の四日市近鉄百貨店の位置とほぼ合致している(実際にはもう少し西側になるのだろうが)。すぐ横は四日市鉄道諏訪驛だ。
さらに言うと、同市街地図の省線四日市駅西にはご丁寧に「四日市鉄道会社」の表記が書かれている(※下画像、赤丸部参照)が、残念ながらこの付近の字名は地図内に書かれている通り「大字濱田四ツ谷」で、旧地番で言えば周囲はほぼ3900番台(向かいに建つ「青物問屋(マルナカ青物問屋)」の旧地番が大字濱田3924番地)のため、通常ではここが四日市鉄道本社位置ではありえない。これは何を意味しているのか。つまり、大正5年当時の四日市鉄道本社「四日市市濱田1425番地」は、上記『四日市市史研究』第2巻の文章のように本社事務所が「阿瀬知川岸にあった」訳ではないとともに、省線四日市駅西の三重・四日市合同停車場駅舎も本社事務所ではなかったことを示しているのだ。
あくまで個人的推測だが、四日市鉄道は大正年間に限って言えば大正2年9月に「諏訪停車場」を開業して以降は貨物駅も備えていた当時の「諏訪駅」を本社所在地としており「合同四日市停車場」はあくまで「営業所」の体裁だった、と考えている。そもそも、同書文中にある通り、確かに四日市鉄道は大正5年3月に三重・四日市合同四日市停車場(※ただし三重軌道は同年5月開業)まで開業させたが、本来の阿瀬知川貨物線延伸工事の敷設及び主導権は依然として三重軌道側が握っているうえ、当時まだ阿瀬知川北岸への貨物線延長工事は完成していない(※起点の阿瀬知川北岸までの開業は同年8月28日で、しかも完成時点でも阿瀬知川は鉄橋で渡橋していない状態となっている)。仮に、百歩譲って同写真のように大正5年時点で阿瀬知川貨物線が渡橋した状態で完成していたとしても、同写真の解説文には「阿瀬知川岸に本社事務所があった」との矛盾した記述がある以上、この写真の信憑性についてはどうしても疑いの目をもって見る他ない。これら理由から、➁「本社前」に関係する「全て、あるいは一部の記述」が間違いである可能性が高いことが分かると思う。
➁の条件が満たされない以上、当然③及び④の条件も満たされないことが確定、現段階で同写真に付随する記載情報の真偽を問う段階に突入していることになっているとは思う。…とは言ったものの、これらの主張は同時に「同写真の事象について新たな根拠をも示さなければならない」ことも同様に必要となってくる。100%真実と言える根拠を組み立てるのは難しいかもしれないが、せめて矛盾ないような辻褄を合わせられる(笑)説明が出来れば良いが・・・ただ、この証明に関してはもっと難しいのだよなあ・・・以降も更なる調査を進めていきたい。
とりあえず、次回「中編」では最初に書いた通り今度は「写真」から読み取れる「視覚的情報」からの考察を述べてみたいと思う。少し時間がかかってしまうかもしれないなあ。【前編終わり】