三重軌道㈱最初期の計画ルートをたどる➁

前回紹介した明治42(1909)年10月21日付提出「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採擇ノ理由」(下写真、鉄道博物館所蔵『鉄道省文書』より)に記された明治42年時点当初での計画経路を現代地図に置き換えてみようと思う。今回は四日市市役所2階「資産税課」で閲覧させていただいた昭和38年発行四日市市新住宅宝典』内に記載されている地番、そして昭和13年4月改調『旧土地台帳』記載の地番とを照合しつつ敷設ルートを推定していく。・・・ちなみに、重箱の隅をつつくような細かい話(笑)に興味がない方はこれ以降の文章は読まないで下さい。次回(最終回)、最後に敷設ルート経路図(全体)を提示しますのでそれだけ確認して下さい。

 

今回は上写真文書中の「一」~「六」の区間のみ検証していく(※地図表記がないため)

内容を読む方にも先に2点ほどご注意を。前出の昭和38年発行四日市市新住宅宝典』では赤堀付近以降の地図が存在しないため文書中1~6番まで(上写真赤囲み部分)の経路のみの検証になること、及び「国道里道及…採擇ノ理由」中に書かれている四日市市街の住所地番のほとんどは当然ながら現在では道路や宅地等に転用されており100%正確に遡ることは出来ないこと、この2点をあらかじめご了承下さいませ。

 

では、まず「一」の区間から(わかりやすく英数字に変換する)。

「1 四日市市大字濱田字北起3972-1 至 同市同大字同字(北起)3926-1地先

区間の字名「北起」は現在の朝日町(JR四日市駅周辺)を指しており、種別は専用線とあることから阿瀬知川貨物駅~諏訪新道までの区間を示していると思われる。起点の「北起3972-1」は昭和13年4月改調『旧土地台帳』に記載されている地番では地目「田」所有者「大蔵省」となっているが、地図等で正確な位置を割り出すことは出来なかった。終点「北起3926-1」も同様に記載はなかったが「同3926-2」は同台帳に存在し、地目「道敷(道路敷)」所有者「内務省」となっている。これら地番は昭和38年発行四日市市新住宅宝典』も道路敷のため?か当然なかったが、前後賞「同3927」地番は記載があった(※所有者不明)。さらにその地番の北隣にあるのが「同3924」で、ここが現在も諏訪新道沿いで営業を続けている「八百作食料品店」である(現住所は「本町7-6」)。この情報からこの付近を諏訪新道との線路合流点=終点と推測し、なお始点に関しては「国道里道及…採擇ノ理由」内に記載された区間距離「32鎖70節(約657m)」を終点から逆算することとした。以上の結果を始点・終点として敷設ルート(※推測)を以下に図示する。

起点(左)及び終点(右)周辺図。参照地図及び距離計算は「マピオンキョリ測」を採用。

現在地図だとむしろ分かりづらいかもしれない。明治44年作製四日市市全図」に当てはめてみる。右図が本来の地図、左図が始点・終点、敷設推定位置を追記したものだ。

始点(起点)は必ずしも線路の末端でなければならないことはないので、必ずしも阿瀬知川北岸まで到達していないと決めつける気はない。地図の通りのルートの可能性もある

以上のように、計画当初は阿瀬知川北岸まで延長する計画ではなく、あくまでも既存の道路に沿いつつ院線四日市駅に接近し接続・連絡することを目指していた可能性が推測される。以前から四日市市全図」内に示された「鉄道計画」路線の距離と「国道里道及…採擇ノ理由」中の区間距離との間にわずかながら誤差がある(距離的に阿瀬知川まで届かない)ことには気付いていたが、いざ当時の地図と照らし合わせてみるとなるほど納得の結果である。もっとも、諸事情もあってその後神田喜平氏による明治44年の再測量調査の際、同区間の距離は修正(上地図の通り阿瀬知川北岸付近まで延長されたようだ)がなされているが、それに関してはここでは触れないこととする。

 

次に「二」の区間、諏訪新道上の「里道使用」区間を検証する。

「2 自四日市市大字濱田字北起3926-1 至同市同大字字諏訪1670-2 地先」

距離は「27鎖90節(=約561m)」で、始点(=前述終点)からこの当時はまだ4間幅(約7.2m)と狭い諏訪新道上に線路を敷く計画となっている。戦後、歩道も含めて拡幅され現在の諏訪新道になったため終点地番「大字濱田字諏訪1670-2」は諏訪新道内に取り込まれたらしく、昭和38年発行四日市市新住宅宝典』内でも同地番は存在していない。ただ「同1670-1」は存在し、諏訪新道の北面沿いに並ぶ「三崎屋食堂」「三栄ドライクリーニング」「長谷川洋服店付近となっており、現在では「諏訪町こどもひろば」「SIXTY SIX」「男子衣料ゴトウ」、現住所で「諏訪町13-3」付近にあたる。三重軌道㈱がわざわざ諏訪新道をニ度にわたり横断してまで北側に線路を敷く理由はないため、諏訪新道北面沿いに並ぶ店舗群にこの地番がなぜ割り当てられているのかは不明だが、もともと広くなかった諏訪新道のこと、拡幅や区画整理の際の土地の文筆・合筆の流れで移動したのではないかと考えられる。ともかく、これら情報を参考に同様に始点・終点付近を現在位置と照合する(下地図参照)。

始点(右)及び終点(左)の推定位置。ちなみに線路敷設位置は現在の南側の車線端と仮定した

ちなみに、今回の区間・諏訪新道上には当初沖ノ島」「諏訪」という二つの停留場を設置する計画であったようだ。もちろんそのどちらも実現することはなかったが。

 

今回の最後は「三」区間、諏訪新道から旧東海道(旧国道)までの専用線区間

「3 自四日市市大字濱田字諏訪1670-2 至同市同大字同字1578 地先」

距離は「11鎖20節(約225m)」、終点地番である「諏訪1578」は土地買収がなされないまま諏訪新道への線路敷設計画が完全に立ち消えたため、現在でも宅地(商業地)として残っており昭和38年発行四日市市新住宅宝典』内では「魚清」と記載されている。現在は一番街北側角地の「炭火焼SHU」が営業しており、現住所では「諏訪栄町20-1」付近となる。ここが専用線における旧国道との接点(終点)と判断した。これらを踏まえ、現在地図で位置を照合する。

諏訪新道~旧東海道までの線路ルート(※推定)。地図内表記では区間距離が「222m」になっているがカーブの彎曲次第で距離は変化するのであくまで「イメージ」と考えて頂ければ。

上地図では全く想像が付かないが、明治42年時点当時の諏訪新道南側にあった空閑地を選びつつカーブを描いて旧国道まで計画ルートをつなげたのだろう。もちろんこうして計画を進めている間にも諏訪新道周辺の土地は暴騰し続け、一気に密集地へと変貌を遂げることになるのだが、この当時はそのような予測が立てられるような閑散とした状態であったわけであり、現在では到底考えられないというものだ。

 

今回は旧国道(旧東海道)までの敷設予定ルートを追ってみた(分かりにくくて申し訳ないと思っていますが)。次回は旧国道以西、南浜田駅までの敷設区間を同様の方法で探っていこうと思う。ではまた次回。