三重軌道・「阿瀬知川貨物線」について

三重軌道㈱が四郷地区の工業生産物やそれらの原料・燃料を運搬する目的で計画された鉄道であることはここで何度も書いてきた。同時に、四日市港及び院線(※現JR)四日市駅への貨物輸送を行うため同駅南端を流れる阿瀬知(あぜち)川北岸まで延びる貨物側線「阿瀬知川貨物線」が計画されていた、ということも何度も書いてきたと思う。これまでの記事はほとんど同鉄道の旅客運輸路線及び駅などのみに焦点を置いてきたものだが、今回はほとんど知られていない三重軌道㈱「阿瀬知川貨物線」がいつ、どのように完成していったのかを追ってみたい。

 

その前に、最初から勘違いされていては以降の説明の際困るのでそもそもの大前提から理解しておいてもらいたい。まず、「阿瀬知川貨物線」というものは最初から計画されていたわけではない。…が、そう断言してしまうのもかなり間違いな気もする。分かりやすく言えば、

「計画当初は三重軌道㈱計画線路の起点駅は「阿瀬知川貨物駅」であった。ただ、同駅から途中駅である四日市停留場(※院線四日市駅西側に設置予定)区間だけを旅客営業をせず貨物専用とする計画だった」

つまり「貨物線」と聞くと何か本線途中あるいは駅で分岐した「側線」のような印象を受けるが、線路形状的には最初から1本線であり途中駅(四日市)から貨物専用線に変わるという計画だったのだ。下画像は明治43(1910)年10月18日付で三重軌道㈱が申請した

明治43年10月「軌道敷設特許」出願時の計画線を一覧にしたもの。1番「専用線路」区間が阿瀬知川貨物線を含む区間(赤線囲み部)。起点は阿瀬知川北岸で終点は現在の諏訪新道。

「軌道敷設特許願書」内の添付書類で起点から終点までの線路敷設位置とその選択理由を示したもの(※これまでも何度か紹介しているのでもはや説明不要か)。ただ、ここに書かれた内容だけではどこまでが貨物線でどこから旅客併用線なのか判別は付かない。ここに明治44年5月20日「軌道敷設工事施工願」「停留場表」(※下画像)と照らし合わせるとその内訳が理解出来る。表中「貨物専用」と次の停留場四日市間の

「停留場表」。貨物専用とあるのが阿瀬知川駅、次の四日市(停留場)まで「32鎖」とある

区間「32鎖」となっている。その前に紹介した書面での「一」区間「32鎖70節」(※後の変更で33鎖10節となるが)とある。つまり「一」区間中、70節のみが貨物旅客併用区間ということになる。おそらく現在で言うと四日市本町7付近、ほぼ諏訪新道沿いに四日市停留場を設ける計画だったと考えられる。当時院線四日市停車場には線路東側にしか改札口がなかったことを考えれば、最も近い位置になる浜田踏切の直前に停留場を設けるのは決して不自然なことではないだろう。が、これはあくまで明治末期までの計画当初の話に過ぎない。最終的には大正2(1913)年5月14日付で四日市鉄道㈱との間で締結された協定書中で院線四日居停車場西側に2社「合同四日市停車場」を設置する旨が締結され、その過程で同停車場直前で両線共用貨物線が分岐するという、まさに「貨物線」のイメージそのままの分岐側線形状が計画されることになる(※下画像、協定書を参照)。

右が大正2年5月14日締結の協定書、左が大正5年9月18日共用側線敷設締結の協定書。

このように「阿瀬知川貨物線」は本線=当初の起点駅から、ターミナル駅からの分岐支線というように刻々と形を変えて完成されたものであるといえる。

前置きが長くなってしまった(笑)。「阿瀬知川貨物線」成立過程を見ていくとしよう。

三重軌道㈱、大正5(1916)年3月より「阿瀬知川貨物側線」の工事を開始

大正5年3月四日市鉄道㈱が、同年5月三重軌道㈱がそれぞれ「合同四日市停車場」までの旅客用路線を開業するが、この時点でまだ貨物線は完成していない。というのも、三重軌道㈱が「合同四日市停車場」から貨物線を分岐、阿瀬知川北岸まで敷設する旨の正式な変更申請を提出したのは前年11月6日だったからだ。さらにこの際、当初計画していなかった院線四日市駅構内への貨物連絡用の分岐線及び設備も追加した(※下画像、公文書参照)うえ、それら全ての変更と「合同四日市停車場」含めた諸々の施設全てが院線四日市駅構内(敷地内)に出来ることになっているため、所轄である中部鉄道管理局長の承認を得ようとしている最中でもあった。要は「承認はまだ下りていないので工事は出来ないが、変更申請だけは先に提出しとこう」というわけだ(笑)。ここまで遅いのには三重・四日市両鉄道㈱の諏訪~四日市間の両社線路敷設位置がそれまで確定していなかったことが大きく災いしているのだが、その話はここでは省略する。

大正4年11月6日付「停留場及…御願」。「0哩30鎖付近で分岐しさらに0哩12鎖付近で分岐、院線四日市駅との貨物連絡設備を設け阿瀬知川に至る」としている(赤線囲み部)

結局、中部鉄道管理局長・長谷川謹介氏名義の承認書(というか命令書?)は翌年1月18日付で三重・四日市両鉄道㈱に対し交付され、三重軌道㈱の上記変更申請は3月17日付で認可されることとなる。認可を受け、ようやく三重軌道㈱「合同四日市停車場」及び阿瀬知川北岸までの貨物線の線路敷設工事を開始できる手筈が整ったわけだ(※三重軌道㈱の諏訪~四日市停車場間の旅客運転開業が四日市鉄道㈱よりやや遅いのはこの理由による)。ちなみに、この時点で起点駅となる「阿瀬知川貨物駅」の線路を含めた詳細設計はまだ完成しておらず「改めて申請する」という後回しの形で認可を得ている。

➁大正5年6月より0哩6鎖~0哩29鎖26節9(「合同四日市停車場」構内側線分岐部)間の貨物線の営業開始(※院線四日市駅構内貨物引込線除く)

6月19日付で阿瀬知川貨物駅の直前・0哩6鎖付近~「合同四日市停車場」手前での分岐部までの23鎖26節9(=約468m)の区間の貨物線営業が開始される(※下画像文書参照)。

同日付の「営業開始認可報告」。残り区間はあとわずか、6鎖(約120m)のみ!

なぜ6鎖(約120m)というわずかな距離を残して開業なのか、一気に開業すれば良いではないかと疑問に思う方もいるかもしれない。①の最後で少し説明したが、6月19日のこの時点に至ってもまだ起点の「阿瀬知川貨物駅」の詳細設計が決定していなかったため開業したくてもできなかったのだ。同月25日付でようやく同駅の詳細設計書を提出・申請をして同月27日付で認可、三重県知事を通じ三重軌道㈱の手元に認可書が交付されたのは8月3日になってからであった。そしてさらに言えば、本来ならば今回の部分開業区間中に含まれているはずの院線四日市駅構内への貨物連絡用分岐引込線も、6月19日時点での開業区間には含まれていない。別件として5月31日付で「分岐部分を0哩18鎖から0哩12鎖に位置変更する」旨の変更申請を行っていたためだ。つまり、現状0哩6鎖まで開業したというものの「阿瀬知川貨物駅」へも院線四日市駅構内へも貨物を搬入できない状況なままの無意味な一部区間開業ということになる。

③大正5年8月、ついに「阿瀬知川貨物駅」開業!しかし…

大正5年8月28日付でついに残り6鎖分=「阿瀬知川貨物駅」が開業する。これで創立当初計画した阿瀬知川北岸~八王子村の全区間敷設工事が完了、三重軌道㈱の宿願がついに果たされた瞬間でもあった(※下画像文書参照)。

同日付「営業開始認可報告」。今更だが、申請・認可は常に三重県知事を介している

が。前項で説明した通り、5月31日付申請の0哩12鎖付近・院線四日市駅構内への貨物連絡用分岐引込線工事に関して鉄道院からの照会・指示通牒が相次ぎ施工認可がなかなか下りず、8月末に至っても認可に至っていない。ついには9月6日付笹野長吉社長名義の委任状を携え主任技術者・神田喜平氏が直接鉄道院に赴き書類の不備訂正を行い、ようやく同月30日に認可、10月7日に認可書が交付された。※余談だが、この頃には既に次期継承会社・三重鉄道㈱への路線敷譲渡に向けた施工承認申請等も並行して行っている。

④大正5年10月末頃?、最後の貨物支線・院線四日市駅貨物連絡用引込線開業。

10月7日、同引込線の認可書交付後その工事がいつ完了したか、いつ営業開始したかは正確な日時を導き出せる公文書が存在しないため残念ながら分からない。が、まるで残務処理を粛々とこなすかの如くこれら貨物支線の敷設工事を全て完了させた後、三重軌道㈱は11月27日付で水沢街道上に敷設した併用軌道(西日野~八王子間)の「公用廃止」届を提出(※下画像参照)。4日後の12月1日、全ての路線敷を三重鉄道㈱に譲渡し三重軌道㈱は解散する(※解散及び譲渡は同年6月7日の株主総会で既に決議されていた)。

大正5年11月27日付「公用廃止届」。その4日後三重軌道㈱は会社を解散する。

同時に、これまで本線の一部扱いだった阿瀬知川貨物駅四日市停車場間の貨物専用線三重鉄道㈱への譲渡手続の際に「貨物側線」へ変更されることとなる。

⑤おまけ。四日市鉄道㈱の貨物線は…

四日市鉄道㈱もまた貨物輸送を経営目的の一つに掲げていたことから、三重軌道㈱同様阿瀬知川北岸及び院線四日市駅への貨物連絡線を企図していた。大正5年3月「合同四日市停車場」までの旅客運輸営業開始後、同年9月2日付で四日市市停車場から阿瀬知川までの貨物側線新設の申請を提出する。が、この時既に三重軌道㈱の貨物線(本線)が開業しており、鉄道院から

「(今回の申請は)側線新設とあるが、三重軌道阿瀬知川起点0哩0鎖~28鎖付近に至る本線(※この時点では三重軌道㈱にとってまだ本線扱い)及び其の支線に乗入れを為すものではないのか」(※下画像、赤線囲み部参照)

9月2日付の側線新設申請に対する鉄道院からの照会通牒。さすがの鉄道院側も諏訪~四日市市間の旅客併用区間とは違い、貨物側線に関しては複線での敷設には難色を示した模様。

との指摘を受けたため、あわてて三重軌道㈱と阿瀬知川貨物線における共用使用協定を9月18日付で締結、この協定書を添付した側線敷設の申請「御届」同日付で提出すると同時に、先に提出していた同月2日付の側線新設の申請を9月20日付で取り下げている。(その後、後で提出した9月18日付の申請が10月11日付で認可されている)このあたりのゴタゴタは分かりにくいが、いずれにせよ申請の時期的に考えれば四日市鉄道㈱は実質ほとんど同貨物線の工事施工には関わっていないように感じられる、むしろ三重軌道㈱による貨物線工事完成を見越したうえでの側線新設申請と見るのが妥当だろう。※余談だが、三重軌道㈱側の側線工事では線路は阿瀬知川北岸で止まっているが、四日市鉄道㈱の側線工事では阿瀬知川に鉄橋を架設し川の南岸まで線路を延ばした可能性がある。ただ、それを示す図面等の存在は確認できていない。更なる調査が必要な部分だ。

 

このように、特殊狭軌の線路が並行して走る華やかな諏訪~四日市合同停車場間の旅客区間の開業により、当時の新聞でもあたかも三重・四日市両鉄道㈱の全区間が開業したかのような書かれぶりをしていたが、実は両鉄道(特に三重軌道㈱)が本来の目的としていたはずの阿瀬知川貨物線(わずか33鎖=約660m)はその後1年近くもの時間をかけてひっそりと完成開業し、昭和4年伊勢電気鉄道㈱の桑名~四日市間開業により廃止されるまでのわずか10数年という短命でその役目を終えるのであった。現在も四日市市に残るコンビナート等につながる貨物線の鉄道路線は、JR四日市駅構内を除きそのほとんどがこの後に形成されたものだ。それらほぼ全て国鉄線(現在のJR線)より東側を走行するものであることからも、現在もなお住宅・商業密集地帯となっている西側を走る貨物線はそれが特殊狭軌だろうが何だろうが遅かれ早かれ廃止・消滅する運命にあったと言えるのかもしれない。ま、あくまで個人的意見だが。

 

今回は長くなってしまった。ま、興味のある方だけ読んでくださればそれで(笑)。

以上