大正5年「四日市連合駅」の真実(最終回)

前・中・後編と3回にわたり書いてきた「四日市連合駅」についてだが、最後は同駅の開業に関しての知られざる真実を書こうと思う。

 

前回は三重軌道㈱が1915(大正4)年11月6日付「停留場及線路変更並貨物連絡所設置之義御願」を提出し、ようやく四日市鉄道㈱線路の北側に並行して線路を敷くことを明言したところまで書いた(下写真参照)。

大正4年11月6日付三重軌道㈱提出「停留場及線路変更…御願」貨物駅の分岐にも言及

この申請によりこれまで説明してきた諸々の問題が解決し、三重軌道㈱は正式に合同四日市駅への延伸工事を本格的に進められることとなった(※四日市鉄道㈱は少し早く同年10月13日付「線路変更届」願書の認可以降に延伸工事を開始したと思われる)。

問題が片付いて以降の延伸、特に四日市鉄道㈱の延伸工事は順調に進みわずか3か月後の1916(大正5)年2月24日には工事を完成させ「鉄道線路竣成監査願」を鉄道院に提出(鉄道省文書』下写真右側)。3月2日に鉄道院の技手・榊原久太郎により現地にて出張監査、当区間を機関車に客車貨車各一輌を連結して試運転を行い「格別異常ヲ発見セズ…支障ナシト認ム」として合格(鉄道省文書』同年3月2日付「四日市市諏訪間線路敷設工事竣工監査報告」下写真中央・左側)となり無事3月4日付で認可、翌5日から諏訪~四日市市間を正式開業(『官報』掲載は1916(大正5)年3月16日付)。これにより四日市鉄道㈱は湯ノ山~四日市市駅間の全線開通を果たすのである(※ただ阿瀬知川北岸への貨物側線工事はまだ未成状態)。

右「鉄道線路竣工監査願」、中央~右が榊原技手による「竣工監査報告」

これに対し三重軌道㈱の院線四日市駅までの延伸は遅れること約2か月、同年5月4日の「諏訪~四日市駅前」間の「仮開業」でようやく四日市鉄道㈱に追いつく(※この時点で三重軌道㈱が「仮開業」であり『官報』に営業開始の掲載もないのは、当初より認可計画が阿瀬知川駅を起点としていたためで未だ全線開通には至っていないからだろう)。

 

さて、ここからタイトルにもある「四日市連合駅」開業に関する真実を書いていこう。前述した三重軌道㈱の開業に関してだが、一部では「三重軌道㈱大正4年12月25日に諏訪~院線四日市駅間を開業」とし、三重軌道㈱の方が先に院線四日市駅まで延伸したとしている史料もあるが、実はこれは正確ではない。ちょうど同日付の営業開業開始許可を報告している文書が存在するので紹介する。

鉄道省文書』大正4年12月25日付「一部営業報告…認可報告」新丁~江田間開業を伝える

「一部営業開始許可及発車時間変更認可報告」(鉄道博物館所蔵『鉄道省文書』より、上写真)という文書内に

 「一、営業開始許可区間 自29鎖26節9(新丁) 至77鎖54節4(江田) 

    48鎖27節5 賃金1銭」

と書かれている。つまり大正4年12月25日に開業した区間「江田~新丁」駅間ということだ。仮に前述通りとすれば「新丁」という駅が「四日市連合駅」ということになるが、そもそも「江田」も「新丁」も全く聞き覚えがない駅名である。実は大正初期にはそんな名前の駅が存在していたという事にも注目してもらいたい(笑)ところだが、今はそんなことはどうでも良くて「新丁」は本当に「四日市連合駅」なのかどうか、という点であろう。この「新丁」駅の位置の謎を解き明かしてくれるのが翌年5月4日付の文書内の一文にある。

鉄道省文書』大正5年5月4日付文書。開業区間の距離の記述に注目してもらいたい。

文書にはタイトルらしき文言はないが、開業区間の記述部分に注目してほしい。

 「一、自 四日市々濱田地内零哩二十九鎖二十六節九(四日市駅前仮停留場) 至 仝地内四日市駅前本停留場 間」

とある。「四日市駅前仮停留場」の駅区間距離を示す「零哩二十九鎖二十六節九」は、そのまま前出大正4年12月25日付文書の「新丁」駅区間距離と一致する。つまり、「新丁」駅がすなわち「四日市駅前仮停留場」だということが分かる。今回の文書はその「仮停留場」から「本停留場」までの区間開通を伝えるものであり「本停留場」こそが四日市鉄道㈱との「四日市連合駅」のことを示していることはまず間違いないであろう。これら一連の文書から三重軌道㈱が諏訪~院線四日市駅間の開通を果たしたのは1916(大正5)年5月4日ということが言えると思われる。前述の大正4年12月「諏訪~四日市間開通」の情報はおそらく駅名の曖昧さもあってこの「四日市駅前仮停留場」までの中途開通を全線開通と誤解してしまったがゆえの誤情報であると思われるのだ。

 

以上のように、現在では自分のような素人でも鉄道省文書』に残る公文書を集め読み解くことで巷に錯綜している誤情報を判別できる。何度も言うが、閲覧しようと思えば誰でも確認することが出来るほどの安易さである(現地に足を運ばなければならない手間はあるかもしれないが)。自分はこれまでに些細ながらも博物館関係者や郷土史研究関係者らにその指摘と四日市市史の再検証をするよう警鐘を伝えてきたにもかかわらず、現状では四日市市も地元郷土史関係者もその確認と訂正をしようとする気はないようだ。自分は四日市市の住民でもないので地元歴史の扱いに関し個人的にどうこう言うつもりは毛頭ない。が、誤った歴史認識が一般的な見解として認知され続け早や30数年が経過している状態で今や次々世代へと移ろうとしていることからも、おそらくそれが正史として継がれてゆくのだろう。

ただ、放っておいてもいつか自分以外の誰かが同じように鉄道省文書』を閲覧し読み解くことでそれらの間違いに気付く者が出てくるだろう。それが20年後か50年後になるのか、興味は尽きない。