全ての始まりは三重軌道㈱から。

★注意★

2023年現在、調査が進んだこともあり本記事の内容とはかなり異なった歴史及び解釈になっております!詳しくは最近の記事をご覧下さい

 

現在四日市市内を走る四日市あすなろう鉄道の起源は、1912(大正元)年8月14日に日永~八王子村駅間を開業した「三重軌道株式会社」に始まる。会社としての設立と解釈するなら、正確には『官報』商業登記欄にて「資本金10万円、取締役伊藤小左衛門(…以下7人)」と掲載された、1911(明治44)年1月16日とするべきだろうか。当時の院線(現在のJR)四日市駅~当時の三重郡四郷村を結ぶ蒸気「軌道」として、1910(明治43)年10月18日に軌道敷設特許状の拝受を受け、満を持して設立された会社である。軌間(レールの間隔)762㎜。その幅2フィート6インチ、いわゆる「ニブロク」または特殊狭軌」「ナローゲージ」とも称され軽便鉄道の代名詞ともいえる特徴であるが、三重軌道㈱自体は軽便鉄道としてのスタートではなく前述の通り「軌道」としてのスタートである。

「軌道」軽便鉄道その違いに関しての説明はここではあえて省くが、なぜ三重軌道㈱は軽便鉄道ではなく「軌道」なのか。ここには、1910(明治43)年4月公布の軽便鉄道法」の成立と三重軌道㈱の鉄道敷設申請のタイミングが関係していると考えている。

 

そもそも、三重軌道㈱の四日市~四郷間を結ぶ鉄道路線計画は1908(明治41)年頃には既にかなり具体的に持ち上がっていた。三重県県史編纂班のページ「時代に乗りインフラ整備ー四郷地区に商工会設立」という記事

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/hakken/detail.asp?record=275

にて、「室山電信局設置運動に並行して、軽便鉄道敷設の運動にも取り組んだ」という一文が見られる。さらに、同年3月17日付伊勢新聞記事にて、「室山四日市軽便鉄道発起人伊藤昌太郎(まさたろう、後の7世伊藤小左衛門)九鬼紋七は…(中略)…軌道を敷設する予定の道路を八間幅に拡張する必要があるのでその拡張費の一部を四日市市に出費を求める決議をした(※内容要約)」という記事もあり、同年3月時点でかなり踏み込んだ協議をしているのがうかがえる。実際、この路線の軌道敷設特許願書が提出されたのは1909(明治42)年10月21日であり、軽便鉄道法」公布の半年前である。この法律公布の可能性、またはその存在をこの時点で彼らが知りえたかどうかを知る術はない。が、個人的な推測ではあるが、わずかながら三重軌道㈱にも軽便鉄道に切り替えるチャンスはあったと考えている。ただ残念ながら、周囲の情勢と三重軌道㈱の発起人らの鉄道経営への無知さがそれを許さなかったのでは…?というのが僕の推測である。

 

というのも、三重軌道㈱が特許願書を提出したそのわずか2か月後、四日市鉄道㈱(後の近鉄湯の山線)が四日市菰野間の鉄道敷設特許願書を提出するのだが、そちらは願書提出後に鉄道院からの直接の進言(?)もあってか鉄道敷設免許取得の後から軽便鉄道法に沿った申請を提出している(鉄道敷設免許取得日は1910(明治43)年11月18日)からだ。ここには貨物運搬を主務とする軽便鉄道四日市鉄道㈱と、旅客運輸営業を主とする「軌道」三重軌道㈱という営業方針の違いもあろうが、偶然か示し合わせたのか不明(※この重複という点にはまた後日改めて言及していきたいと思う)だが、両社の申請予定路線のうち院線四日市駅~諏訪・浜田付近区間が重複してしまった。こういう場合、鉄道敷設特許では先出し出願優先が基本のため、先に出願した三重軌道㈱側は内容を変更したくとも押し通すしかない。結果、本来は四郷地区周辺に集積する製糸工場等の蒸気用燃料や製品の集散といった貨物運搬が主眼だったはずなのに、「軌道」で申請したために本意ではない旅客運輸営業を強いられる羽目になる。ジリ貧である。(結局、後に「三重鉄道」と名称を変え軽便鉄道=貨物運搬主体へと申請を切り替える(1916(大正5)年)。逆に、後出しの四日市鉄道㈱は法律制定のタイミングと偶然合致していたこと、鉄道院からのお墨付きもあったうえ、もともと永続的な鉄道運営に必要と考え営業計画として旅客輸送とともに貨物運輸も念頭に置いていた(※当初はもちろん温泉旅客を主眼としていた)こともあり、申請内容の変更に柔軟に対応できた側面が有利に働いたともいえる。

 

三重軌道㈱としての運営期間はわずか5年で、その間に蒸気機関車の煙火で近隣住宅を焼失させたり完成間もない線路が水害の被害に遭ったりと、計画段階・開業から実に不運続きであったことが調べれば調べるほど分かった。三重軌道㈱の歴史があまり詳細に語られないのは、その存在が短期であったこともあるかもしれないが、実はこのあたりに原因があるのかも知れない。 以上    1/18

 

最初に疑問に思ったのが、西日野駅。

お風呂入浴のため、一時中断。

多くの鉄道ファンの方が昭和30~50年代当時の近鉄八王子線の写真を残して下さっていたおかげで、あたかも自分が乗ったことがあるような錯覚さえ覚えるほどの鮮明さで電車や駅、周囲の風景を感じることが出来ました。その中で、ふと写真を見比べて感じた疑問がありました。

写真を貼り付けた方が一目瞭然で説明しやすいのですが、他者様の画像を勝手に拝借する訳にもいかないのでページ紹介だけにさせて頂きますが、『津島軽便堂写真館』様というページに「近鉄内部・八王子線4西日野」というページがあります。

http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/kintetsu/utsube-04.html(勝手に掲載してすみません)

ここに写っている西日野駅、まるでバス停かと思えるような簡素な作りの駅なのですが、1972(昭和47)年に撮られたものと1973(昭和48)年に撮られたものとでは、駅舎中央にある雨除け用と思われる片屋根の施設が後年の方では撤去されています。そのまま放置かと思いきや、別場所で公表されている1973年11月に撮影された駅の写真では、仮設材料と思われる資材で片屋根が設置されている様子が確認できます。…この間にいったい何があったんでしょう。ただの老朽化による建て替えだろうか。そんな一見どうでも良い疑問に突き当たったのが、今につながる八王子線研究の始まりだったと思います。西日野駅のこの片屋根の経緯について、ご存知の方はおられるのだろうか。

 

この1年半か2年、何度も図書館に行ったり郷土資料館に足を運んだりして、自分なりに素人でできる調査研究を重ねていますが、何せ後進からのスタートですしもともと基本情報を何も持っていないため、今もなお抱いている多くの疑問をなかなか解決できずにいます。

以前から「ブログは日記みたいなもの」という話を聞いていたので、その時僕が感じたことを書き留めておいて、もし万が一にもそのことについて興味がある人、自分の知らない知識を持っている人が、何かの拍子でこの文章を見つけて読んで下さって新しい情報を得ることができたら、ご意見が得られたら幸い…と思い、ブログを始めることにしました。無論、そんな上手く事が運ぶとは思っていないので、現在自分が行っている調査研究の内容と主観が主な内容です。調査が進む度、以前に書いていた主張と変わる部分があるかもしれない。そういう変化も楽しみたいと思っています。以上   1/17

今、個人的に、八王子線のことがすごく知りたいんです。

今、個人的に、八王子線のことがすごく知りたいんです。

 

ふとしたことがきっかけで、近鉄八王子線の事を調べ始めた。

…あ、今は「四日市あすなろう鉄道八王子線」という呼称になっている。2014年まで近畿日本鉄道(近鉄)が保有・運営していた三重県四日市市内を走る鉄道路線。自分が興味が出始め調べ始めたのは、前述のとおり「近鉄」だった時代の八王子線の時代の頃のもので、軽い気持ちでネット検索でそれらの情報や写真などを片っ端から探して見まくっていた。特に写真では、その当時行ったこともない景色なのに、なぜか妙に懐かしい気持ちにさせられてしまい、違う写真を見つけては次から次へと見てました。

これが、最初の入口でした。多分、1年半~2年ほど前のことだったでしょうか。このあたりで興味を持つのを止めておけば良かったのかも知れません。