新聞記事から見る三重軌道㈱ その①「諏訪新道」

前回にも書いた通り、三重軌道㈱の設立経緯に関しては四日市鉄道㈱に比べあまり詳細な記録は確認されていない。

 

が、当時の四日市以南の伊勢湾沿岸地域は大街道・東海道ルートから外れていることもあってか鉄道が敷設されていなかった。当然ながら、地元への鉄道敷設の情報は当時の住民の重大な関心事であったため、三重軌道㈱が軌道敷設免許申請をした後あたりからは当時発行されていた新聞記事によってその動向の一部分を知ることが出来る。当時から現在もなお発行が続いている地元新聞『伊勢新聞』(1878(明治11)年創刊)内で最初に三重軌道㈱関連の記事が登場するのは1910(明治43)年3月10日付記事で、免許状が交付される約半年前のことだ(前回記事でもちらっと書きましたが)。一部を抜粋する。

「室山四日市軽便鉄道発企人伊藤昌太郎九鬼紋七、西口利三郎外二氏は去る十日四日市商業会議所に於て協議会を開き同鉄道線路は四日市諏訪新道路に敷設すべきについてはその道路幅が現今四間にして狭いため之を八間幅に拡張すべき必要あるを以て拡張費の幾部を会社に於て負担し大部分は四日市市の出費を求めることに決し不日公然之が申込みを為すこととなりたり」(記事抜粋)

まだ免許申請段階のため、三重軌道㈱の社名は存在しておらず「発企人」段階になっている。「発企人」筆頭の伊藤昌太郎は、過去記事にも何度か登場している後の7世伊藤小左衛門。おそらくこの時点で当代・6世小左衛門(運久)は死の床に就いて(同年7月29日逝去)いると推測され、代理での出席だったのだろう。記事の内容に関しては前後関係が分からないため判然としないが、「軌道敷設予定地の四日市諏訪新道路」が現状四間(約7.2m)幅と狭いため八間(約14.4m)幅に拡張する費用の大部分を四日市市側に求める決議をした」と読める。

文中の四日市諏訪新道路」は現在も存在する「諏訪新道」のことと思われる。現在でこそ「諏訪新道」は通称「十二間道路」、幅22mに拡幅されており軌道を通すに十分な道路幅があるように見えるがそれは戦後の話で、この当時の「諏訪新道」は1907(明治40)年の四日市市四大事業計画の一つとして計画されたもので、完成後の大正時代の写真を見ても分かるが当時はそれほどの幅はなかったものと推測される。さらにこの段階(明治43年時点)での「諏訪新道」周辺はまだ現在のように商店等が軒を連ねる密集状態ではなかったと思われ、この時点であれば軌道敷設に伴う三重軌道㈱の拡幅要請(?)は必ずしも不可能ではなかったと考えられる。

が、当時の四日市市は前述の四大事業計画を竣工させたばかりだったうえ、貿易港として重視していた四日市港の修築工事事業を開始しておりそちらを優先させたかったのだろうか、数年前に完成させたばかりの新道を(鉄道のために)わざわざ拡幅・再整備する必要性を感じなかったのか、市役所は「諏訪新道」に軌道敷設する案を三重軌道㈱同様に提出していた四日市鉄道㈱の計画を却下していることが分かっている。だとすれば、前回書いた通り三重軌道㈱と四日市鉄道㈱との免許申請時期は2か月ほどしか違わないため、四日市市は三重軌道㈱側の計画にも同様の却下通知をしているとみて間違いなかろう。

仮に、この記事内の四日市諏訪新道路」「諏訪新道」のことを指すのだとすれば、3月10日時点で三重軌道㈱はまだ「諏訪新道」の拡幅・軌道敷設を目論んでいると考えられ、四日市市はこの記事掲載後に三重軌道㈱側に拡幅計画の却下を通知している可能性が高い(※同じタイミングで四日市鉄道㈱側にも伝えているかもしれない)。・・・正直、前年10月に申請したのにその計画内容のダメ出しに5か月以上もの期間を要している当時の四日市市はいかがな気がする(汗)が・・・。三重軌道㈱側としても今後繁栄・乗客集客が見込まれるであろう新道路上に軌道を設けられないのは痛手としか言いようがないが、最終的にやむなく「諏訪新道」のやや南側、四日市鉄道㈱と並行させる形で軌道を通すこととなる。なお、この5か月の遅れが原因かどうかは分からないが、三重軌道㈱と四日市鉄道㈱の両社はその後この区間の軌道敷設代替地の確保のためさらなる苦労を強いられることとなる。が、その話はまた後日。(・・・もっとも、記事内容的には最初から「諏訪新道」ではなく当初からやや南側を東西に通っていた名もなき里道を(計画通りに)拡幅するという解釈もできなくもないのだが(笑)。)

 

それはともかく、この想定が正しかったとすればこの記事はまさに「諏訪新道」上敷設案から四日市鉄道㈱との「二軌道並列」案へと計画転換を余儀なくされる直前のターニングポイントであり、それは最終的に後に名物として知られる善光寺カーブ」「天理教カーブ」の成立にもつながっていく一因である、と言える。もしこの時点で実際に「諏訪新道」上に軌道が敷設されていたならば、少なくとも諏訪駅から院線四日市駅へ続く善光寺カーブ」はもう少し緩やかなカーブが形成されていたはずだからだ。現代の四日市市が形成される礎の一端が垣間見えた気がしました。いやー楽しい(笑)。

 

そして次の記事の話題へと進みます。・・・まだ会社、出来てもいないよ?