四日市鉄道㈱からみる三重軌道㈱。?

前回の記事も含め、これまで何度も三重軌道㈱がどのような経緯で発足し開通にこぎつけたのかを書いてきたが、実際にはそれらを確定させる史料などの正確な情報はあまり残されていないというのが実情だ。

 

これに対し、最終的には三重軌道㈱と一部の軌道を並列し四日市駅までの開通を実現させる四日市~湯の山間を走った四日市鉄道㈱(現・近鉄湯の山線)は、その設立前後の経緯を具体的に推測できる史料――伊藤新十郎という人物が残した菰野四日市間軽鉄鉄道敷設日誌』という書物――が存在する(らしい)。自分がその実物を目にしたことがないので推測調で書かせていただくが、笠井雅直さんという方が書かれた論文

湯の山温泉四日市鉄道:戦前における地域開発の担い手と運動に関する事例研究」(名古屋学院大学論集43巻・2007.1.31)

内にてその詳細な内容を解説して下さっている。☆PDFファイルでこの論文を読む事が出来るので是非読んでいただきたい。それによると、伊藤新十郎は菰野町及び湯の山を発展させるため交通の整備・鉄道敷設を切望し、四日市鉄道㈱設立運動当初から中心的役割を果たした人物であり、日誌を残すほどの緻密な性格でもあった彼が関わっていたからこそ、現代でも計画から設立までの当時の経緯を詳しく知る事が出来るのだ。なお、伊藤新十郎の経歴は菰野町HP「広報こもの」に詳しく解説されているのでご参照を(「歴史こばなし」 平成17年第327回)。それによると、伊藤新十郎も28歳の時に伊藤小左衛門(当時は6世)から器械製糸業を教えられ一時期営んでいたようだ。

その点、三重軌道㈱側は提案者・伊藤六治郎から早々に総帥・伊藤小左衛門(6世)を含む実業家グループ(四郷商工会?)主導に切り替わったためだろうか、設立開通までの期間が早い代わりに誰かがつぶさにその記録を残すという事はなかったようだ。もっとも、まだ発見されていないだけで誰かが残している可能性もあるが。

 

ともあれ三重軌道㈱と四日市鉄道㈱、この二つは敷設個所と時期が重なっていることもあり、設立までの記録の時系列をリンクさせると非常に面白い。前述の四日市鉄道㈱菰野・・・日誌』の記録を軸に三重軌道㈱の設立経緯(分かる限り)とを並べてみる。

(太字菰野・・・日誌』記録、細字:三重軌道㈱記録)

 

1908(明治41)年10月27日 新十郎、菰野村区会にて鉄道敷設の議論を行う

同年(※時期不明)      伊藤六治郎自ら米国視察(『市史』12-P.235)、鉄道

            敷設の必要性を有力者に諮問

1909(明治42)年5月11日  新十郎、日本軌道の玉井丈太郎氏に鉄道敷設を

            依頼。敷設の根拠となるデータの取りまとめに

            かかる

 同      7月20日 菰野村区会内で村長からの要望により「有志会」

            結成

 同     10月21日 三重軌道㈱、軌道敷設特許願書を提出

            (『市史』12-P.511)

 同     11月18日 玉井丈太郎氏に鉄道敷設申請を依頼する

 同     12月17日 四日市鉄道㈱、四日市市役所経由で三重県庁に

            申請書提出

1910(明治43)年 1月28日 三重県庁、現地の実地踏査を実施

 同       3月10日 伊藤昌太郎ら発起人5人、四日市商工会議所で協議

            会開催。敷設予定の四日市市内道路拡張工事費用の

            大部分を四日市市に出費を求める決議。

            (『伊勢新聞』3月17日付)

 同      5月12日 伊藤新十郎に対し鉄道院から「照会」あり。

            四日市軌道ハ四日市浜田町切断シ宝山三重軽道 

            前願ニシテ同線路切断スルニ付此際相談シテ・・」

            ※宝山は「室山」の誤字か

 同      8月 3日 「軽便鉄道法」が公布・施行される

 同      8月 5日 四日市鉄道㈱、改めて軽便鉄道法により鉄道敷設

            申請を提出する(『市史』12-P.506)

 同     10月18日 鉄道敷設の免許状交付の連絡が発起人に届く

 同     10月19日 三重軌道㈱、「軌道条例に依り特許状を下付され

            本県へ到着せり」(『伊勢新聞』10月26日付)

 同     11月28日 四日市鉄道㈱、発起人会開催、新たに九鬼紋七、

             三輪猶作を発起人に加える

 同     12月 28日 三重軌道㈱創立総会開催、重役選挙のほか軌条・

            機関車の注文を決議(『伊勢新聞』1月4日付)

 

両鉄道の設立経緯が示し合わせたかのように同時進行している。ただ、この時点で既に製糸紡績・製茶などで相当の海外輸出実績があり比較的要望の通りやすかったであろう三重軌道㈱側に対し、湯の山温泉への観光客や石材運搬等の「開通後の見込み」を明確にせざるを得なかった四日市鉄道㈱側が事前段取りを行わなければならなかった分だけ申請手続きが遅れた、と解釈すべきだろうか。そして手続きが遅れた分、四日市鉄道㈱側は結果的に予定していた四日市市内の敷設経路が三重軌道㈱の経路と浜田町で交差する計画となってしまい、1910(明治43)年5月に鉄道院から呼び出され三重軌道㈱側との調整を指示され、さらに免許状交付の際には「同軌道線横断ノ場合ニハ運転上支障ナキ様其ノ部分ニ限リ本鉄道ニ於テ高架ノ設備ヲ為サシムル・・・」との条件を付けられている(もっとも、三重軌道㈱側も四郷村内の天白川沿道の拡張改修を敷設の条件に命じられてはいるが)。後発の四日市鉄道㈱が、土地収用も費用も余計にかかる高架設備を作ってまで三重軌道㈱との交差ルートに固執するとは考えられず、三重軌道㈱と相談して交差しないよう並行して軌道敷設、という結論に至るのは自然の流れといえるだろう。三重軌道㈱側からしても、四日市市内の道路拡幅工事の費用の大部分を四日市市に負担させようと目論んでいたところへ四日市鉄道㈱が同じ場所に加わってくれれば費用負担が半分で済むわけだから、これまた拒否する理由はないと考えられる。こうして二つの狭軌軌道路線が並ぶ「幻の四日市ターミナル駅」は、この段階から計画が動き出すこととなるのだ(多分(笑))。

歴史に「タラレバ」は禁物だが、もし仮に申請手続きの順序が逆転していたらどうなっていただろうか。もしかしたら三重軌道㈱は実際に通した諏訪新道寄りの東西縦断ルートをあきらめ、後の伊勢電気鉄道㈱のように阿瀬知川沿いを経て南側から北向きに四日市駅を目指すルートに変更していたかもしれない。それは現在の四日市市街のあり方を変えていたかもしれないと思うと、興味は尽きない。

 

また話が脱線した?