新聞記事から見る三重軌道㈱ その②「三重軌道開業」

前回の続き。地元新聞『伊勢新聞』の記事から三重軌道㈱の足跡を追います。

 

前述「諏訪新道」記事掲載後の1910(明治43)年は、軌道敷設免許下附の通知と株式会社設立のための株券購入を募集する記事

①10月26日付「軌道敷設免許状下附」

②11月19日付「三重軌道㈱の株券申込」

の二記事のみで同年を終える。二つ目の株券申込の記事概略は、三重軌道㈱を起業するための「資本金10万円のうち6万円(1200株)は発起人が引き受け、残り4万円(800株)を20~25日まで一般公募する」というもの。これを受け同年12月28日創立総会を開催し三重軌道㈱は正式に設立、最終的な発起人は計7名、以下にその氏名を挙げる。

1.伊藤小左衛門(取締役) 味噌醤油・製糸・製茶業、四日市銀行取締役

2.九鬼紋七( 〃 )製油業、四日市倉庫社長、四日市電燈・三重紡績取締役他

3.伊藤伝七( 〃 ) 紡績業(三重紡績常務取締役)、四日市倉庫取締他

4.笹野長𠮷(※七とも)( 〃 ) 酒造業

5.川島傳左衛門(監査役) 酒造業

6.佐伯又太郎( 〃 ) 紙・砂糖商、四日市銀行監査役

7.西口利平( 〃 ) 三重製網会社社長

(※氏名役職は1911年1月16日付『官報』商業登記欄、事業種は『日本全国諸会社役員録 明治43年』他を参照)

ほぼ全員が四日市や室山に本拠を置く事業家であり、鉄道敷設が完成すれば関係する事業の受ける恩恵もさぞ大きかろう。ちなみに、決定事項とはいえ会社自体も鉄道敷設もまだ絵空事でしかないこの時点で1株の購入金額50円。米一俵(60kg)が5円36銭の当時では、一般公募とはいうものの一般大衆には無縁の話だっただろう。

 

明けて1911(明治44)年に入ると、会社設立や軌道敷設の準備・開業などで掲載記事量も格段に多くなる。前半の半年間だけで以下の5記事が掲載されている。

①1月 4日付「三重軌道開業準備」

②4月 8日付四日市の新道開設/市会で三重軌道工事関係を協議」

③同日  付「停車場視察」

④4月10日付「三重軌道総会」

⑤5月28日付「三重軌道工程」

①1月4日付記事では、前記した昨年末の会社創立総会の内容(重役選挙)とともに早くも具体的な開業準備を進めている。同記事の一部を抜粋紹介する。

「…三重軌道㈱にては、早くも外商ヲット・ライメス商会の手を経てドイツのアーサー・コッペル会社工場へ軌条及び機関車の注文を為し、客車は名古屋の日本車輛にて請負ひ製造する筈にて軌条は来たる三・四月、機関車は四・五月頃四日市港へ到着する予定なり…」

創立総会開催と同時に軌条(レール)と機関車の発注を行う手際の良さである。考えてみれば、伊勢八王子から四日市まで距離にして約6km、必要なレールの長さも量も相当なものになるはず、前もって仮押さえする等の準備段取りをしていたのかもしれない。その結果、予定通り軌条は4月18日に英国船フリントシャイア号により「軌条及び付属品百九十八噸(トン=t)」四日市港に到着していることが分かっている(4月21日付記事「入港船」より。※ちなみに機関車は日本船籍(郵便会社加賀丸)での輸入だったためか入港記事を確認できなかった)。これらの到着予定に合わせ、現地では資材搬入や機関車の保管置場とするためであろうか、室山駅敷地の埋め立て建設工事に着手するとともに鉄道技術者・神田喜平氏により線路の実測を開始(④4月10日付「三重軌道総会」)、さらに重役陣の多くが鉄道経営に対し素人だったため、設置する停車場等の施設や規模の参考にするためか3年前に津市内で先んじて開業していた私鉄・大日本軌道伊勢支社(後の中勢鉄道)の久居~岩田橋間の視察に訪れたりと開業に向け活発に活動している(③4月8日付記事「停車場視察」)。これらの経緯を経て翌年の1911(大正元)年8月14日、八王子村(※後に伊勢八王子に改名)~日永間の約2.9kmが無事に開通、建設工事着手から約1年と4か月後のことであった。

ただ、初期(準備)工事もあるとはいえ、わずか約2.9kmの軽便鉄道の軌道敷設の開通に1年4か月もの期間を要している。土木・軌道敷設工事の技術がまだ未熟という理由もあるかもしれないがそれにしても時間が掛かりすぎているような気がする。これにはこの当時の四日市市の変遷の経緯と三重軌道㈱が敷設免許状を下附されるにあたり鉄道院から出されたある条件(これに関しては以前の記事で少し書いた)が大きく関係していると思われる。

次回は、元号が変わる1912(明治45=大正元)年の『伊勢新聞』の記事とともに一部開業以降難渋する三重軌道㈱の軌道延長の流れを見ていこうと思う。