四日市駅と諏訪駅①『日比義太郎日記』は面白い

先日、図書館でたまたま発見した『日比義太郎日記ー四日市昭和創世記-[翻刻(Ⅰ)]』(人間社・2017年7月1日刊)を読んだ。明治末期から昭和初期にかけ四日市市で活躍した経済人・日々義太郎(ひび・よしたろう)氏が書いた日記、1926(大正15)年7月26日から1928(昭和3)年4月23日までの内容を2冊に分けて紹介している本であった。

三岐鉄道(富田~西藤原間)敷設とセメント会社創設に尽力した人物として知られる日比義太郎は、明治17年名古屋・熱田町に生まれ、明治38年四日市市袋町(現・南納屋町)で米雑穀商「井筒屋」を開業する。奇しくも同時期以降に市が積極的に行った近代港・四日市の港湾整備時期と「井筒屋」開業時期とが重なることで、明治末期から大正初期にかけての省線四日市駅、特に四日市諏訪駅周辺をめぐる鉄道敷設に深く関わることになった人物である。今回は、読んでいて特に興味深かった『~日記(Ⅰ)』昭和2年2月~9月にかけての日記の内容から、いつもの「個人的解釈」でもって大正~昭和初期までの四日市諏訪駅付近の変遷を紹介する。

まずは、三重・四日市両鉄道合同の四日市駅が完成した1916(大正5)年から主な出来事を簡単に時系列にて紹介。

 

1916(大正 5)年3月5日 四日市鉄道が諏訪~四日市間を開業(『官報』は3月16日掲載)。三重軌道㈱は先んじて前年12月25日に開業している。

  同年   3月21日 三重・四日市連合駅竣工。23日に開駅式(『朝日新聞』記事)。

  同年     12月1日 三重鉄道㈱が軽便鉄道として開業(三重軌道㈱は解散)。

1922(大正11)年3月1日 三重・四日市鉄道(貨物用)共同線の四日市駅~阿瀬知川駅間の途中に停車場を設ける形で伊勢鉄道㈱が塩浜~新四日市駅(末端駅)を開業。ちなみに三重・四日市合同駅と阿瀬知川駅含む貨物側線はまだ稼働営業中。

1926(大正15)年9月11日 熊澤一衛、伊勢鉄道㈱社長就任、社名を伊勢電気鉄道㈱に変更する。

1927(昭和 2)年3月    伊勢電気鉄道㈱が四日市鉄道㈱の全株式取得、傘下に収める。

  同年    8月    伊勢電気鉄道㈱が三重鉄道㈱の全株式取得、傘下に収める。

  同年  11月29日 四日市鉄道㈱、四日市~諏訪間の路線敷を伊勢電に譲渡、営業廃止。以降、四日市鉄道は三重鉄道㈱の同区間営業廃止まで四日市市~諏訪前間に乗入れを行う。

1928(昭和 3)年1月29日 三重鉄道㈱、四日市市~諏訪前間の路線敷譲渡、営業廃止。この時点で阿瀬知川駅含む貨物側線も譲渡・廃止か。

1929(昭和 4)年1月30日 伊勢電気鉄道㈱、四日市~桑名間の運輸営業開始(単線営業)。これで世にいう「善光寺カーブ」「天理教カーブ」が形成。三重鉄道諏訪前駅は廃止、四日市伊勢鉄道諏訪駅に統合される。

1934(昭和11)年10月27日 伊勢電気鉄道㈱、参宮急行電鉄㈱と合併、伊勢電は解散。

1936(昭和13)年4月13日 参宮急行電鉄㈱、四日市~桑名間の複線化完了、営業開始。2代目合同諏訪駅として、戦後まで長く親しまれる。

 

確定事項の時系列だけをたどって見ると、ただ単に大正末期に社長に就任した熊澤一衛率いる伊勢電気鉄道㈱四日市南部から乗り入れ進出してきて、昭和初期に三重・四日市両鉄道㈱を乗っ取って最終的に四日市~桑名間を結んだ、という風に読み取れる。…まあ実際そうなのだが(笑)。しかし先に紹介した『日比義太郎日記』を読むと、時系列の羅列だけでは見えない様々な要素や偶然も重なり複雑な経緯を経て完成されていくその一面を知ることが出来る。

 

前述の通り、日比義太郎三岐鉄道敷設とセメント会社創設に尽力した人物だが、これは単に最終的な結果であり最初からその目的をもって行動したのではないと思われる。つまりは、鉄道に対して大した知識もないのに明治末期に室山で伊藤小左衛門が、伊藤伝七がそうしたように、当時の有力者や経済人に請われる形で鉄道敷設計画に参加したものであり、商売において辣腕を振るい大正末期時点で既に四日市市内で有力な経済人として知られていた日比にも当然同様の申し出が来ていただろうと推測できる。その中の相手の一人が「浅野財閥中の一会社、東京湾埋立会社」(浅野總一郎社長)と同グループの浅野セメント会社(現・日本セメント)であったということだろう。

大正末期、名古屋港にその優勢を奪われ再起を目指す四日市港のため、四日市港南部の塩浜地区を湾岸埋立て及びその敷地への企業誘致が官民合同で計画されていたようだ。しかし、湾岸埋立てには膨大な量の土砂やセメント運搬が必要になる。そのうえ、この埋立て予定地では従来より農業や漁業を営む在住住民との小作(立ち退き)問題が表面化しており計画が思うように進まない状況にあった。地元住民との確執を解決し埋立てた敷地にセメント会社工場を誘致したい四日市市藤原岳の良質なセメント原料(石灰石)の採掘権とその工場・輸送手段セットが欲しい浅野セメント会社、そしてそれら両者の思惑を結ぶため大量の土砂や石灰石を運搬する手段が鉄道(三岐鉄道(申請時は「藤原鉄道」))であった。日比は、両者の抱えるそれぞれの問題の解決に奔走すると同時に双方の計画をまとめるため鉄道敷設計画にも参加、伊藤伝七をはじめ九鬼紋七ら多くの有力者・経済人、市長や市会議員、警察署長に至るまで様々な人物と接触・折衝を行ういわばネゴシエーター(交渉人)としての重要な役割を担っていたといえる。

 

日比はこの藤原岳四日市間の貨物鉄道敷設計画の実現のため、昭和2年1月下旬頃にはどのような経路・方法で四日市市街に線路を乗り入れる方法をいくつか検討し始めており、その手段の一案として「三重鉄道(当時既に経営難に瀕していた)を買収し、四日市~諏訪前間の路線敷を利用し省線四日市駅へ接続、四日市港へと運搬する」という案もおぼろげながら計画されていたことが『日比義太郎日記』内から読み取れる(四日市鉄道㈱側は日比伊藤伝七とが懇意にしていることもあって難しくないと考えたのだろう)。このことは、最終的に「三重・四日市鉄道㈱買収→路線敷利用による桑名~四日市間開通」という路線形態が伊勢電気鉄道㈱の発想のみによって考え出されたものではないかもしれない、ということを意味している。

 

次回はもう少し突っ込んだ話をしてみたい。