三重軌道「諏訪新道敷設」案に関する個人的見解。(前編)

過去に書いた記事で、三重軌道㈱が諏訪新道路上に軌道を敷設しようと計画していた事は何度も書いた。この計画を仮に現代の感覚で四日市市(役所)側から考えてみれば、「つい数年前に予算をかけて改修した(明治40年完成)ばかりの新しい道路に線路を敷くなどとんでもない話」として却下されるに違いないだろうし、自分もそう考えていた。

 

自分のその考えが正しいかどうかの証明のため、当時の経緯が分かるかもしれない史料を探った結果、市立及び県立図書館所蔵冊子四日市市役所本庁所蔵公文書資料目録』から明治43年1月15日市会議事録」にたどり着いた。これは四日市市議会事務局議事課が管轄管理している過去の参事会(今の市議会)議事録や庶務関係の史料で、図書館でも博物館でもなく市役所議会事務局議事課(本庁10階)へ直接閲覧申請をしなければならない(…が、特に文書公開申請書等の手続きは必要ないようだ。史料が古すぎるからか(笑)?)。担当の職員様に史料を探していただき、実際に連絡をいただくまでその史料が現在でも保存されているのかどうかさえ微妙な状況で本当ドキドキしました(汗)。議事課担当職員の皆様、本当に有難うございました。(5月31日追記:同様に、議事録画像の掲載許可もいただき、本当に有難うございました!)という訳で、四日市諏訪新道」への軌道敷設計画について調査の結果、判明した新事実をご紹介していこうと思います。

 

改めて流れを説明しますが、何度も紹介している通り1909(明治42)年10月21日に四郷村室山を中心とした地元有力者らで立ち上げた「三重軌道株式会社」名義で室山~四日市軽便鉄道敷設特許請願書を提出します。(※この時は、まだ三重軌道㈱というものの実際は会社として正式な設立登記はされておらず(※訂正:1911(明治44)年1月16日『官報』商業登記欄記載の明治43年12月28日正式登記)、つまり公的には存在していない会社ということになります。これは四日市鉄道㈱に関しても同様で、他会社では軌道敷設特許免状下付の記載が『官報』中に掲載されているのに三重・四日市両鉄道㈱の免状下付の記載がないのは、正式な法人登録がないこのあたりに原因があるのかもしれません(調査要)。)

まあそれはともかく、この提出を受け四日市市参事会が1910(明治43)年1月15日開会、発議されます。出席議員は33名、議長は(おそらく)九鬼總太郎。以下に議事録原文をそのまま(※判読不明部分は□で表記)引用します。

 議長(九キ)第一号議案ヲ議ヘ付ス

 (十七番九紋廿四番西口二十六番佐伯議員議案ニ付□障アリ退席)

 一番外(助役)□□

 二十三番(土手)□案ハ市ノ有益トナルベキ事業ナレバ水利上等害支ナキ限リ議会臺表シテ当案ヘ賛成ヲ表スル旨ヲ述ブ」

 (□□休憩)(発会)

 十六番(毛利)十三番(山中)等二十三番議ニ賛成他異議ナク当案ヲ確定ス(前記三名退席者復席)」

参事会議事録写真(右後半2行目~左後半7行目まで)

・・・よく分かりませんね(笑)。大まかに説明すると、まず参事会出席議員33名にそれぞれ番号が割り振られており( )内に姓名が書かれています。第一号議案というのが「三重軌道株式会社発起人出願市管轄ニ□スル道路ニ軌道敷設ノ件」を指しています。

議長(九鬼總太郎)が第一号議案を議会で提案すると、17番九鬼紋七・24番西口利平・26番佐伯又太郎が会場を退席します。これは前記3氏が三重軌道㈱発起人も兼務しているためで、議会の公平性を欠くことから退席していると推測します。前文で議長を「おそらく」と書いたのは、この時参事会には九鬼紋七・九鬼總太郎という同姓二人が出席しており、本来ならば宗家である九鬼紋七氏が議長を務めていそうなのですが、一応市の記録では明治42年から九鬼總太郎氏が議長を務めていることになっているようだからです。(また、第二号の議案に関しても紋七氏は関係者だったため、復席して発議した途端また退席しているあたりが面白いですね)

関係者3人退席後、23番・土手氏が「この事業は四日市市にとって有益な事業だから、水利上(洪水などを含む治水或いは河川・港湾関係の事か?)の支障がない限りは議会を代表して当案への賛成の表明をする」旨を述べる。直後、一時中断・休憩をはさみ会議再開するも、6番(毛利)23番(山中)も23番の前表明に賛同、他に異議がなかったため本議案は確定した。とあります。実際、この決議を受け四日市市参事会は同日付で

「三重軌道株式会社発起人九鬼紋七外七名ヨリ出願四日市室山間軌道布設特許願ニ関スル本市管理ノ諏訪前道路ニ軌道布設ノ件調査ヲ遂グルニ支障ナシト認ムルニヨリ其ノ旨本県ニ開申スルコト

という文書を四日市市長・福井銑吉氏署名も付けて残しています。

 

以上のことから、少なくとも明治43年初頭の四日市市としては三重軌道㈱による諏訪新道への軌道敷設は反対どころかむしろ歓迎の意向であったことが分かってきた。もちろん、この後で四日市鉄道㈱その他鉄道会社参入による影響で院線四日市駅から日永・赤堀村周辺の地価が暴騰、それらの事情により風向きが変化し最終的に翻意、反対の立場になった可能性は十分に考えられる。ただ、最初に請願された三重軌道㈱の計画が参事会議案にかかるまで約2か月のタイムラグがあることを考えれば、同年12月提出の(院線四日市~南浜田間が被っている)四日市鉄道㈱の請願がこの時点でまだ参事会の議題に上がっていないのは確実(事実この間の参事会議事録にはそれらしい記述がない)で、仮に併願による参事会の混乱があるとすればもう少し後のことになると思われる。・・・とすれば、この時に三重軌道㈱から四日市市長及び三重県知事、鉄道院へ提出された計画路線は南浜田付近までの専用軌道から諏訪新道路上を通り院線四日市駅まで延びるルートが図面に描かれている、はずである。

ところが・・・・。以降、続きは次回に。 (・・・あれ?日比義太郎日記は(笑)?)