新・室山駅についての考察(前編)

前回三重県立博物館に所蔵されている「三重鉄道敷設関係図面」内の複数内容の一部を紹介した。今回はこれらの図面が示す歴史を紐解きつつ、これまで何度も考察してきた三重軌道㈱時代の「室山停車場」の謎について迫りたいと思う。一個人の「一推論」として読んでいただければ・・・。まずは下写真から。

伊勢新聞』に掲載された写真。右端に「(三重軌道室山繹にて撮影)」の一文がある。

上写真はこれまで何度も紹介してきた明治45年7月20日伊勢新聞掲載の「江勢道路全線踏査の一行」と題された写真である。開業直前の三重軌道㈱「室山駅」で撮影されたとされるものだが、当ブログで何年も前から人物の後ろに写る背景や駅舎は本当に室山駅のものだろうか、伊藤製糸場前駅のものだろうかなどと過去記事で考証を進めてきたが、これまで確たる物証が得られず真実は謎のままであった。

 

ここで一つ興味深い史料を2つ提示しよう。まずは埼玉・大宮の鉄道博物館所蔵鉄道省文書』内の明治44年5月20日付「軌道敷設工事方法書」第8項の部分だ。ちなみに同書第6項では「停車場及側線」について言及しており、その文中で

「停車場ハ四日市及室山ノ二ケ所トシ尚ホ停留所ヲ所々ニ設ケ乗客ノ昇降ニ便ス 待避線ハ車体ノ交換ヲナスヘキ所ニ設置スルモノトス」

と、停車場は四日市、室山の2か所と明言している。そのうえで下写真を見てほしい。

「工事方法書」第8項の部分。停留場について言及している

第8項では停留場とその設備についての内容に言及しており、

「…中間停留場中四日市、南赤堀、日永、東日野ノ四ケ所ハ退避側線ヲ設クルモ他ノ停留場ハ乗客ノ乗降ヲナサシムルモ何事ノ設備ヲナサゝルモノトス…室山停留場ニハ機関車庫、客車庫、給水器等ノ設備ヲナス」

とし、四日市・南赤堀・日永・東日野の途中停留場4か所に退避側線を設けるとしており、さらに室山には機関車庫・客車庫・給水器等の設備を設けるとしている(※四日市と室山だけ「停車場」設備を設けるというのが第6項の意味)。が、これら記載の中にはなぜか「八王子」という駅名が一切出てこない。この疑問には同文冒頭にある「別紙第廿壱號表」が答えてくれている。下写真が、同書添付の第21号表、「停留場表」である。これによるとあくまで計画段階ではあるが当初は何と17箇所もの停留場を設置予定であったことが分かる。

「停留場表」。数にも驚かされるが、西日野停留場から先にある停留場の名称に注目。

そしてこの停留場表では後の終着駅にあたる「八王子駅」の名称が「室山」となっていることに注目してほしい。明治44年当時では「室山」停留場の場所自体が現在一般的に「駅跡」として知られている「室山駅」の場所ではないのだ。仮にこの表内の停留場で現在の「室山駅」に近い場所を当てはめるとするならば、「笹野」停留場ということになるだろうか。所在地が大字八王子なのになぜ「室山」なのか甚だ謎ではある(笑)が、何にせよこの史料の存在によって明治44年当時には「八王子」駅を「室山」駅と勘違いする要素があった、そして期間は不明だが終点駅を「室山」駅と呼んでいた可能性があったことはほぼ間違いない。ただこれまでは前出伊勢新聞の写真掲載の前日、7月19日付文章記事内でははっきり終点駅を「八王子駅」と明記していたため、この時点で「八王子駅」という名称は正式に決まっていたものなのだと僕も判断していた。

・・・が、こうは考えられないだろうか。前述の文章記事担当の記者と現地で写真撮影した記者は別人の可能性が高い。なぜなら7月20日付掲載写真には撮影日の記載がないからだ。前日7月19日付の文章記事によれば、

「…去る7月14日に県知事一行を乗せ試運転を終え評判は上々…」

とあることから撮影日は14日の可能性が高いだろう。わずか4日違いではあるが、仮にこの時点でまだ「八王子駅」という正式名称が決まっていなかったとしたら、あるいは写真撮影した記者が三重軌道㈱関係者から正式な駅名称を聞いていなかったとしたら、記者は従来情報のまま「室山駅にて撮影」と但し書きを付けるに違いない。当時の写真現像技術と新聞掲載への確認作業の精度を考えれば十分にありうる話なのではないかと思われる。

さらに言うなら、これら鉄道省文書』から読み取れる情報は前出伊勢新聞に掲載された写真の駅舎が現在一般的に知られている「室山駅」ではなく後に「八王子」駅となる駅舎である決定的な証拠ともなりうるものと言える。改めて写真を提示する。

赤丸部に格子窓らしき存在が確認できる。すぐそばが天白川なのに、こんな建物作る?

先ほどの「工事方法書」第8項で紹介した避退側線の存在する4か所の停留場に「笹野」停留場は入っていない。というより、そもそも天白川に沿って走る軌道上の停留場には全て避退側線が設定されていない。つまり天白川流域の線路は全て単線で、そこにある停留場も簡素な待合所がある程度のものであった可能性が高いことを示している。もし写真に写る駅舎が本当に天白川流域にあった「室山駅(笹野停留場)」のものであるとするなら、巨費を費やし河川改修・道路拡築した部分にやっと軌道(線路)を敷いたのに、さらに拡幅して左右両端に屋根付きしかも窓枠まで取り付ける(※写真赤丸部分)ような立派な駅舎を建てる必要などあるだろうか。資金力も乏しい地方鉄道会社なのにそんな無駄な設備投資は現実的に考えてあり得ない話である。

では、後ろに写る大きな越屋根…まるで製糸工場のような建物は一体何なのだろうか?という疑問がわいてくる。これには三重県立博物館所蔵の『三重鉄道敷設関係図面』内のある図面が大きなヒントを与えてくれた。前回記事でも紹介した第11番袋(と自分が勝手に名付けた)内の第23号図面「停車場図」中の一部、八王子停車場図が下写真だ。

八王子停車場図面(上が南)。当時は駅舎北側に敷地が広く取られていたことが分かる

駅舎本屋とプラットホームの長さ、転車台・便所なども含め昭和時代存在していた伊勢八王子駅の形状そのままの様子が見てとれる。前回紹介した際にも書いたが、これらは三重鉄道㈱が軌道条例から軽便鉄道法に則って変更・認可の申請をする際に作成されたものと思われる図面のため、変更箇所以外は現況をそのまま図面にしたものと考えて良い。とすれば、前出の「工事方法書」にも記載があったように三重軌道㈱時代からもともと機関車庫・客車庫・給水器を設置予定だった八王子停車場は現況状態のままである可能性が高い。つまり、伊勢新聞に掲載されたあの写真の後ろに写り込んでいる越屋根の建物は撮影時の画角的にも「機関車庫」で間違いないと思われるのだ。ただ、現状で機関車庫が越屋根形状の建物であったという確たる証拠はない。が、同年7月20日付『伊勢新聞』内記事にはこの機関車庫についての記述がある。「…間口十間奥行十間(※18m×18m)、バラック構造であり…」としており、その規模の大きさからまだ電気が普及していなかった当時、庫内への採光の必要があったため越屋根形状だった可能性が高いと推測される。当時は四郷村近辺で盛んだった製糸工場も同様の理由で越屋根形状の建物が多かったためそれらの建物である可能性も捨てきれないが、これら情報を総合的に判断すれば機関車庫でほぼ間違いないだろうと思われるのだ。

 

・・・では、下写真の図面は? 次回・後編はこれについて考察する。

 

後編へ続く