四日市連合駅の話の前に新情報をひとつ。

前回「諏訪新道敷設案」の中編内で書いた、明治43年3月15付三重県知事副申に関して諏訪付近での軌道交叉に対する三重軌道㈱四日市鉄道㈱両社の折衝の可能性について触れた。

鉄道省文書』「第十門 私設鉄道及軌道 三 軽便鉄道 三重鉄道-元四日市鉄道 巻一」より

この文書は四日市鉄道㈱側の『鉄道省文書』簿冊に保存されていたものだ。これに対する四日市鉄道㈱の反応に関してはこの文書内では返答らしき痕跡は見当たらなかった。それ以外には2007年1月の名古屋学院大学教授・笠井誠直氏著の「湯の山温泉四日市鉄道」という論文内で「菰野四日市軽便鉄道敷設日誌』(伊藤新十郎・著)文書内の記述で5月14日鉄道院からの出頭を促す連絡があった」という記述があるのみだった。さらにその記述自体も新十郎本人が経済人で鉄道の技術的問題に対しては全くの無知識だったため、鉄道院からの出頭連絡に対しても会社設立運動当初から鉄道関係全般を一任していたと思われる玉井丈次郎氏(大日本軌道㈱伊勢支社社長。支社だから支店長というべきか?)に対し出張同伴を依頼しているような状態であった。そのため同文書でも鉄道院へ出頭以降に三重軌道㈱との折衝を示すような痕跡らしき記述は見ることはできなかった。これらの理由から、僕は当初「両社間に折衝があったかどうかは疑わしい」と書き込んだ。

 

ところが、その後の調査でこれを覆す文書がブログ書込み途中で発見された。前回でも紹介した埼玉県大宮市の鉄道博物館が所蔵する鉄道省文書』「第一門 監督 四 軌道 イ 特許 三重軌道会社 自明治四十三年至大正六年 巻一」内の明治43年7月21日付「共用線ニ関スル答申」である。 

鉄道博物館所蔵の『鉄道省文書』表紙 。これは国立公文書館にも所蔵されてない

何故かこの『鉄道省文書』だけが国立公文書館所蔵のその他三重軌道㈱の簿冊と分かれて鉄道博物館に所蔵されており同時に見ることが出来ない。(さらに鉄道博物館ではマイクロフィルムでの内容の閲覧であり、本書実物を実際に閲覧することはできない。上の表紙写真は当博物館ライブラリーの職員様のご厚意で特別に撮影させていただいたものである。ライブラリー職員の皆様、その節は本当に有難うございました!)

三重軌道㈱提出の「共用線に関する答申」だが、両社の発起人総代の連署がある

…内容をざっくり説明すると、

「(鉄道院から照会のあった)諏訪から阿瀬知川までの線路は「共同線で両社共用にしては」と5月に御教示いただいた件ですが、以来両社で検討を重ねましたが三重軌道㈱は「道路交通の補助機関」を、四日市軌道㈱は「貨物の運輸」を主眼として出願したので両社の利害関係が異なるため共用線を敷設する事は不可と決しました。予定通り三重軌道㈱は「公道」を、四日市鉄道㈱は「専用線路」を敷く方向で申請を許可して下さい」(※まだこの時点では四日市鉄道㈱は名称が変わっていない)

といった感じの解釈だろうか。この文書だけで判断するのは危険ではあるが、これ自体は三重軌道㈱側が直接鉄道院に出した答申と思われ、ここからも鉄道院はやはり四日市鉄道㈱だけでなく三重軌道㈱にも同様の照会を出していた可能性がうかがえる。さらにこの文書の文末には両社発起人総代・九鬼紋七と玉井丈次郎の連署はあるが、協定書のような扱いにはなっていないらしく両社双方に一部づつ保管する的な文言は一切書かれていない。それが理由で四日市鉄道㈱側の『鉄道省文書』簿冊にはこの文書が保存されていなかったのだろう。

ついでに言えば、この文書はこれまで一般的とされていた両鉄道の経営方針に対する認識の誤りをも指摘しかねない内容となっている。現在四日市市の歴史は三重鉄道㈱(旧・三重軌道)は貨物輸送、四日市鉄道㈱は観光客輸送・観光開発という目的をもって創立されたというのが一般的認識である。それぞれの創始者とされる人物の地元、四郷・菰野郷土史誌を紐解いてみてもやはり前述通りの表現がなされている。が、この文書では見ての通り両鉄道とも自らの局部の運輸機関としての目的をはっきりと「貨物の輸送」(四鉄)「道路交通の補助機関」(三軌)と、前述の一般的認識と全く違った目的を明言している。おそらくは、それぞれの「創始者の発起当初の方針」それ自体の記述は正しいと思われる。が、その創立後「会社」としての経営方針が「創始者の発起理念と変わっている」のに両鉄道がどちらも同様に貨物輸送・旅客輸送両方を行っていたため曖昧になってしまったうえ、当時の四日市市の歴史研究が未熟だったためにその記述が欠けてしまっているのが、歴史認識に対するズレの原因だろうと僕は個人的に考えている。もしこの文書が両社協定書のような扱いになっていれば、四日市鉄道㈱側の『鉄道省文書』にも当然この答申が残り、もっと早い段階で両社の協議がなされていた事実が明るみになっていただろう。さらに言うならば、今回紹介した『鉄道省文書』の簿冊だけが国立公文書館所蔵でなく鉄道博物館に分かれて単独収蔵されてさえいなければ、僕より先に公文書を閲覧した誰かに発見されることでもっと早い段階で明るみになっていただろうと思う。これらの偶然?は四日市の歴史にとっては不運でしかない。とはいえ、国立公文書館の開館自体は50年以上前からであり、当時は今ほど充実した検索エンジンが存在していなかったとはいえ、これまで紹介した『鉄道省文書』を過去の郷土史研究者らが半世紀近く同文書を閲覧できない状況にあったとは考えにくい。一度閲覧してしまえば四日市市の全く違った歴史の可能性が見えているのに、過去の伝聞や有識者の見識のみを鵜呑みにしてしまっていた我々側にも責任の一端があると言えるだろう。

まあ現代の歴史認識はともかく、三重軌道㈱は設立当初からの目的である貨物輸送主眼を貫き通せば良いものを、この文書を境に何を血迷ったのか「交通補助機関=旅客の獲得」に突如路線変更をした。結果、三重軌道㈱はその後の経営方針も軌道敷設工事計画自体の方向性もブレブレの一途(笑)をたどることになる。四日市鉄道㈱はその弊害をモロに食らう形となるのだ。

 

次回、「四日市連合駅形成への経緯」にもつながるお話でした。

信じるか信じないかは、四日市市民次第です(笑)!