三重軌道㈱最初期の計画ルートをたどる①

これまでの記事で「三重軌道㈱創設時当初の計画では、現在の旧東海道(旧国道)及び諏訪新道上に軌道を敷く計画だった」、と何度も紹介してきた。これらは後に三重軌道㈱(※注)の取締役陣となる発起人7名により明治42(1909)年10月21日に提出された「軌道敷設特許願」に添付されていた「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採択ノ理由」という文書(下写真、鉄道博物館所蔵鉄道省文書』より)の存在を根拠としている。(※注:明治42年の特許願提出当時はまだ三重軌道㈱として正式に株式会社設立登記されていなかった)

「国道里道…採択ノ理由」。一~十にわたり軌道(線路)ルートが説明されている。

明治40年に改修工事が完了した諏訪新道に三重軌道㈱が軌道を敷こうとしていた事実は『北勢軽便鉄道物語』の第2話「自転車に抜かれたトラム型コッペル」記事内にてS先生(椙山満氏。産婦人科医でもあり四日市市史編纂委員も務めた郷土史家)も言及しておられ周知の事実として認知されているものとは思うが、旧国道(旧東海道)にまで軌道を敷く計画だったところまではさすがに調査が及んでいなかったようだ。ただ、国道(旧東海道)部分への軌道敷設に関しては翌明治43年10月の軌道敷設特許下付以前の段階で既に断念しているため分からないのも無理はないのかもしれない。

 

内容がよく分からない人のためにまず上写真「…採択ノ理由」各要点を解説していく。「一(いち)」~「十(じゅう)」の上段に軌道(線路)を敷く箇所の始点及び終点の地名(字名)地番が書かれている。ただ現代の住居表示とは大部分が変わっているため非常に判別しにくい。旧字名と現在住所の比較詳細は以下のページ↓内の「旧四日市の字名一覧」を参考にしてほしい。

お諏訪さんのあれこれ (suwajinjya.jp)

中段には軌道(線路)の種別、及び当該敷地の区分が示されている。以下を参照。

・「専用線路」…新たに敷地買収し、一般道路とは区別された線路専用敷地。

「里道使用」「国道使用」…当時の国道及びそれ以外の里道(県道・市道)上に軌道(線路)を敷く部分。今で言えば「路面電車」に相当する。

「国道踏切」…文字通り国道(ここでは旧東海道)を横断するための踏切。

「架橋」…文字通り河川(ここでは鹿化川)部分の渡橋部分。

下段にはそれぞれの区間距離(哩鎖程)が書かれている。そして各番号の区間横にはそのルートを採択した理由が書かれており、これら理由の内容からも断片的な位置情報が確認できる。これらを踏まえ、旧字名地番に基づき最初期に計画された「…採択ノ理由」の軌道敷設ルートを現代の地図に落とし込んでいこうと思う。

とはいえ、「…採択ノ理由」の字名地番は現在ほぼ宅地や道路に転用されている箇所でもあり、そのうえほぼ消滅している四日市市街中心部の地番・字名を探るのはそう簡単なことではない(※なお旧字名のみに関しては四日市市立図書館2階・資料閲覧室に一覧地図(開架)があるので参照されたい)。こういう場合一般的には法務局で閲覧できる公図や地番が掲載されている「ブルーマップ」を使用するのだが、津地方法務局四日市支局まで閲覧しに行ったものの字名地番情報が古すぎるためか「ブルーマップ」からの収穫はあまりなかった。

中央通りをはさみ四日市市役所の南側にある法務局四日市支局。

そこで、従来の近鉄(三重・四日市両鉄道)線敷地が道路転用されている現状から四日市市役所10階「道路管理課」へ。当該課へ内容の確認を取るが「道路転用前の情報に関しては管轄外」とのことで、同市役所2階「資産税課」へ。

「資産税課」では一般宅地を含む道路などの市所有の土地に関わる業務を担当している(※説明が適当で申し訳ない(汗))ようで、対応して下さったT様に経過と事情を説明して翌週同課を再訪問した際、T様は同課が保管する貴重な史料を見せて頂いた。その名も

四日市市新住宅宝典(四日市市全商工住宅案内図帳)』

「株式会社住宅協会」という会社(代表・菊池襄氏)が昭和38(1963)年4月20日に発行した地図帳である。何がどう貴重なのかというと、現在四日市市立図書館で一般閲覧できるゼンリン地図の最古のものは昭和42(1967)年版しかも「三滝川以北」であり、四日市駅周辺(三滝川以南)の最古のものは昭和43(1968)年版しかないのである。加えて、全てではないものの当時の地番が記入されているうえ、この地図帳は国立国会図書館にも所蔵されていない(検索しても蔵書がない)。ゼンリン地図よりわずか5年前とはいえ、変貌激しい四日市市中心部の一軒一軒の詳しい情報が得られる史料は、現時点で僕の知りうる限りこの四日市市新住宅宝典』が最古のものと思われる。本当ならその所在と証拠の意味も兼ね写真なりの画像で紹介したいところだが所有している担当課の許諾が得られず、掲載も撮影さえもかなわなかったのが本当に残念でならない。興味がある方は当課へ閲覧を申請すれば見せてもらえるかもしれない(確証はない)。とにかく、担当のT様には貴重な史料を閲覧させていただいたこと、心より感謝いたします。

「資産税課」という特殊な業務上この地図帳を非常に重宝されていた経緯もうなずけるし、それを現在まで大事に保管管理していて下さったことに関しては大変な敬意を払わざるを得ない。しかしながら一方で残念なのは、当時の個人情報が掲載されているとはいえ、国立国会図書館にも所蔵されていないような大変貴重な歴史史料を一担当課の倉庫に眠らせておくだけというのも如何なものだろうかという疑問も正直抱かざるをえない。当地図帳を図書館などで広く一般閲覧可能にするか否かの問題はさておき、経年劣化などによる損傷が進む前に撮影・データ化などで永年保存する施策を行うべきではないかと思う。

 

話が横道に逸れた。

今回の「資産税課」訪問により昭和13年4月改調の「旧土地台帳」の閲覧、そして四日市市新住宅宝典』の発見により当時の字名地番などおおよその位置が判明、院線四日市駅~南浜田付近までの敷設計画ルートの詳細をたどることが出来た。次回は現代の地図と照らし合わせてこれらを解説していきたいと思う。