前回の続き。「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採擇ノ理由」中、今回は「四」~「六」の経路について検証していく(下写真赤線囲み部参照)。今回も前回同様、昭和38年発行の『四日市市新住宅宝典』と昭和13年4月改調『旧土地台帳』との地番照合で経過地を推測していく(※参考資料の説明は前回と同じなので省略)。後半はにわかには信じがたい推測が飛び出すことになるので、乞うご期待(笑)。
では「四」の区間から(今回も分かりやすく英数字に変換)。
「4 自四日市市大字濱田字諏訪1578 至同市同大字同字1481 国道踏切」
記述通りここは「国道」、つまり「旧東海道」の横断部分を指している。区間距離こそ書かれていないが、前回紹介した「三」の終点と次に紹介する「五」区間の始点とを結んだ線がそれであると推測できる。現在もなお近鉄四日市駅前の一番街商店街を貫通している「旧東海道」の道路幅を想像していただければおおよその距離感はつかめるかと思う。ちなみに終点の地番「大字濱田字諏訪1481」も、前回「三」の終点と同様、昭和38年発行『四日市市新住宅宝典』に地番が残っている。前回の終点「魚清」の旧国道をはさんだ向かいの店舗がそれで、現在の「ブレイズ四日市諏訪栄」の一角に残る角地で地図には「テーラーサワムラ」と記載されている。2018年あたりまでは同店が営業していたようだが、現在は閉店し空き店舗となっているようだ(※現在の様子は不明)。わずかな距離だが、一応マピオンキョリ測での経路と距離を下図に示す。
次に「五」の区間。
「5 自四日市市大字濱田字諏訪1481 至同市同大字字返シ堀1135 専用線路」
この区間は諏訪町内の「旧東海道」との国道踏切から南浜田付近で再度「旧東海道」に合流するまでの専用線路区間を指しており、距離は「48鎖(約966m)」となっている。サラッと何気なしに紹介したが、「明治42年時点の一番最初の軌道敷設計画では、南浜田~赤堀までの区間も「旧東海道」に線路を敷く計画だった」ことが、この文書によって明らかに分かるのである。諏訪新道上に線路を敷く計画があったという事実は『伊勢新聞』の記事等から推測できたが、「旧東海道」にまで線路を敷く計画であったことは『四日市市史』も含めこれまでに出版された関係書籍のどこにも記載がないため、全くの新事実であると言えよう。
さて、終点の字名「大字浜田字返し堀」は現在の南浜田町・中浜田町付近を指しているが、番地の「1135」は『四日市市新住宅宝典』にも残念ながら記載がなかった。ただ昭和13年4月改調『旧土地台帳』の方には同番地と分筆地と思われる「1135-2」の台帳は存在していた。個人情報に抵触するため所有者名は出せないが、現在の居住者名義(苗字)と台帳に記載されている居住者名義が一致することから、現在の「松本街道」と「旧東海道」が交叉する交差点のやや北側、「旧東海道」と細道のY字路に挟まれた敷地がこれに該当する。これまでの流れだとこの地点を終点としたいところだが、実はこれには大きな問題がある。・・・というのも、「四」の終点「大字濱田字諏訪1481」から「五」の終点「大字浜田字返し堀1135」間をどれだけ最短距離で結んでも「48鎖(約966m)」にはならない(※下図、マピオンキョリ測地図を参照)のである。この明らかな
矛盾を根拠に、今回終点のみ「地番」からの敷設位置の割り出しをあきらめることとした。代わりに文書に記載されている区間距離「48鎖(=約966m)」の近似値となりえる軌道敷設位置を推測したところ、地図内の一部に不自然な箇所を発見(※下地図赤丸部分参照)。
「旧東海道」の前後の道幅と比較しても不自然に一部拡幅された部分がある、距離にして約160m。確証はないが、これは旧国道に軌道敷設するため道路を拡幅しようとした跡ではないかと推測されるのだ。というのも、実は今回紹介している「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採擇ノ理由」の軌道敷設計画は、軌道特許下付を受けた翌年の明治44(1909)年にルートの再測量・調査が行われた結果、この後紹介する「六」の区間にあたる「旧東海道」への軌道敷設は不可能と決定される。しかし三重軌道㈱は明治43年10月軌道特許下付を受けた時点で当初の軌道敷設計画に沿って先んじて旧国道拡幅の買収も進めていたと思われ、その結果一部区間が名残として残ったものではないかと推測されるのだ。これらの推測をもとに敷設ルート(※推測)を地図に図示する。
今回の推測ルートには地番等の文書情報に準じた確たる根拠はないが、軌道敷設する際の軌道形状や区間距離、そして次に紹介する「六」の区間距離との整合性を考えた時、かなり信憑性のあるものではないかと個人的に思っている。
最後に、「六」の区間の検証を行う。
「六 自四日市市大字濱田字返シ堀1135 至三重郡常盤村大字赤堀字南町2182地先 国道使用」
前項で紹介した通り南浜田町付近から「旧東海道」=国道上に軌道敷設する計画部分であり、距離は「31鎖60節(=約635m)」。追記として「理由」の一文が書かれており、意訳すると「この国道筋は並木が両側に点在しているのでそれ以上道路の拡幅は難しいが、四間幅までは拡幅できる余地はあるので電柱その他の障害物を移転し四間幅に広げ軌道を敷設すれば交通上の支障は無い見込み」としている。現在の旧国道の道幅を見るに、とても支障無いようには思えないが・・・(笑)。実際に実現していないし。
終点の「三重郡常盤村大字赤堀字南町2182」は四日市市外のため土地台帳の情報はないが、同地番は現在でもブルーマップによって遡ることが出来る。それによると「赤堀郵便局(住所:四日市市赤堀南町8-5)」前、道路を挟んだ「旧東海道」沿いの北側角地がこれに該当する。ここの敷地から旧国道を外れ、「四日市あすなろう鉄道」が現在も走る専用線路につながっていたと考えられる。赤堀郵便局前の踏切周辺の道路が不自然に幅広く拡幅されているのは、もしかしたら軌道がカーブする際の敷地買収の名残なのかもしれない。以上の情報から予測ルート(※推測)を図示する。なお始点は前項の終点・浜田町の道路拡幅部分とするが、勝手な個人的推測での位置でありながら実際に距離計測をしてみると、ちょうど区間距離が約635mとなり「五」区間との整合性がしっかり取れる結果となっている。にしても、「あの道」に線路を敷くなんて狂気の沙汰(笑)。
以上、「一」~「六」までの区間距離・1哩71鎖40節(=約3.045㎞)の全体ルート図を改めて下図に示す。下図の全長距離(3.051m)と誤差が生じているが、これは「国道踏切」部分の距離を計上していないためである。
ここまで三重軌道㈱最初期の軌道敷設計画の一部経路を検証してきたが、起点・阿瀬知川北岸~諏訪新道にかけての区間以外は大正時代を待たず計画が立ち消えた、まさに『幻のルート』となったものであり、これらの計画とその内容を具体的に示す物証はそれこそ今回紹介した公文書「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採擇ノ理由」しかない。そのためこれら計画の存在を信じる、信じないは記事を読んだ人それぞれの受け取り方で構わないと思っている。でも僕は断言します、
「これらの計画は机上の空論ではあったが、確実に存在していた」
ここで紹介した内容がいつか明治~大正期の四日市市の軽便鉄道の歴史における正式な見解になるであろうことを願ってやみません。
またまた分かりにくい解説でしたが最後まで書き切りました。次回からはまた新たな話題になります。 <終わり>