新・室山駅についての考察(後編)

前回末尾で紹介した写真を改めて提示する。

現在改装中の四郷郷土資料館にて掲示されていた「室山駅」の図面である。駅舎の他に伊藤メリヤス工場・伊藤醤油部工場なども書かれた駅周囲の情報を知る上で貴重な図面といえる。図面左上には「三重軌道開通」とも書かれているため、ふらっと観覧に来た一般の方がこの図面を見た時には間違いなく大正元年に三重軌道㈱が開通した時の「室山駅」の様子なのだ」と思うことだろう。同時に、この図面を何の疑いもなくこの通りのまま掲示している四郷郷土資料館の皆様も(残念ながら)そう思っているに違いない(かどうかは分からないが(笑)。

・・・が、これは本当に大正元(1912)年に三重軌道㈱が開通させた時の「室山駅」なのだろうか。個人的な意見ではあるが、前編でも紹介した通り三重軌道㈱天白川沿いに軌道(線路)を敷いた際には沿線の停留場には上写真のような避退側線は設定していなかったはずだからだ。

ここで再び三重県立博物館所蔵の「三重鉄道敷設関係図面」内のある図面を紹介する。

大正5年12月21日付発第30号「道路変更及踏切道測量図」封筒

大正5(1916)年12月21日付「道路変更及踏切道設置願」(上写真)という封筒内に保管されていた「道路変更設計図」という図面である(下写真)。本来退避側線のない停留場扱いだった西日野・室山両停留場を避退側線のある「停車場」に変更するための図面と思われる。その際に西日野停車場では追加される避退側線部分だけ道路を迂回するような形に変更、室山停車場に至っては思い切って道路を天白川沿いに移動させ、線路を横断し

「道路変更設計図」西日野・室山両停車場の設計図(上が南方向)A・B踏切の図面も

両端に新たに踏切を設置という形状に変更する設計図を提示している(※室山停車場図面のみ拡大し下に掲示する)。西日野停車場はともかく、室山停車場に関してはこれら図面にある線路と道路形状を見る限り、まさに冒頭で紹介した四郷郷土資料館の「室山駅」の形状と完全に一致するではないか。仮にもし「室山駅」が本当に大正元年開業時点で冒頭の図面のような避退側線のある形状をしていたならば、わざわざ5年後に踏切道や変更の停車場設計図を提出せずとも済むはずであり、申請と図面の存在の意味がない。

室山停車場の拡大図。白点線が変更予定線路、赤線が避退側線(予定)

 

さらに言えば、国立公文書館所蔵の『鉄道省文書』大正5年8月18日付「工事方法書」(軽便鉄道法準拠で認可・申請の際に提出した工事仕様書)内では停留場であったはずの西日野・室山両「停車場」の内容(変更)について言及しており、

「室山・西日野…各駅ニハ待合所及側線ヲ設ケ貨物出入ノ場合ハ…右ノ内室山ニハ貨物上屋ヲ設備ス」

軽便鉄道法準拠版の「工事方法書」の一部。停車場について言及している


と、明治44年三重軌道㈱当時の「工事方法書」には記載されていなかった室山駅の貨物上屋の設置まではっきり明記している(上写真)。前編で僕は天白川沿いの停留場は全て単線の停留場だったと思われる」と言ったが、この発言は根拠なしに言ったわけではなく、これら

明治44年の「工事方法書」内では乗降のみ行う簡易な停留場と設定している

➁大正5年12月の「道路変更及…願」で停車場への変更と図面を提出している

③大正5年8月の「工事方法書」で停車場とその設備について明記している

といった状況証拠から確定させたもので、決して妄想などではないことが分かっていただけたかと思う。もちろん、提示した鉄道省文書』も含め図面一式の方が虚偽(撤回)という可能性も捨てきれない。が、どういう意図かは知らないが、もしこれらが官公庁をも巻き込んだ大掛かりな虚偽申請であったならそれはそれで驚きである(笑)。

 


結論。

上写真の図面は、大正元(1912)年三重軌道㈱の日永~八王子間開業時の「室山駅」ではなく、大正5(1916)年12月の軽便鉄道として開業した三重鉄道㈱開業時の「室山駅」の図面の可能性が非常に高い、ということ。大正5年以降、この駅の形状がいつまで継続していたかは僕としてもこれから検証を進めていく予定だが、はっきりした時期を特定できるかどうかは正直なところ微妙な状況だ。

 

 

 

このように、僕のようなちょっと歴史に興味を持った郷土史研究家もどき(笑)の人間が三重県博物館や国立公文書館鉄道省文書』や関係図面を閲覧しただけでも分かってしまうような「間違っているかもしれない」四日市軽便鉄道の歴史に対する認識が、地元の歴史を伝える役目であるはずの郷土資料館ですら「正しいもの」としてこれからも掲示され続けていくのかもしれない。耐震改装中で再開間近の四郷郷土資料館だが、郷土の歴史、特に四日市あすなろう鉄道の歴史についての展示に関しては、是非今一度官公庁の公文書群から読み直し再構築する必要があると思うのだが・・・再考は無理だろうな。やはり○山先生の威光・存在はいまだ大きい、というところなのかな。

 

 

次回は新たなテーマでいきます。なににしようかな。