南浜田駅の情報はない。

令和3年現在、四日市駅から延びる四日市あすなろう鉄道四日市~内部間を走る「内部線」と途中の日永駅から分岐する一駅区間だけ(日永~西日野間)の八王子線とに分類されている。が、以前から何度も紹介しているように、かつては先に開業していた八王子線の方が本線扱いであり、「内部線」は日永駅からの支線扱いだった。ということで今回は、かつて八王子線に属しており、諏訪~赤堀駅間にあった「南浜田駅に関して書こうと思う。

…と偉そうに書いたはいいが、実は南浜田駅に関する詳しい情報というのがなかなか見つからない。とりあえず分かっていることを羅列することとする。

四日市から三重郡四郷村を鉄道で結ぶため設立された三重軌道㈱が1912(大正元)年8月に日永~八王子村間を開業させた2か月後の10月6日、日永駅からさらに延長して終着駅となったのが「南浜田駅であった。

f:id:sakurataiju:20210426204300j:plain

1920(大正9)年頃の南浜田駅周辺の地図。赤堀駅~南浜田駅付近まで線路に沿って走っている道は東海道。この頃はまだ四日市鉄道㈱の諏訪駅と三重鉄道㈱の諏訪前駅が分離している


当時の駅の施設・規模などを示した史料を未だ見つけることが出来ず詳細は不明だが、この当時の終着駅であった以上、軌道の末端には蒸気機関車の方向を変える「転車台」及び付随客車の前方に回り込むための「機回し線」が存在していたであろう、という推測は立つ。ただ、それまでの終着駅であった日永駅には「転車台があった」という証言がある(※『三重の軽便鉄道-廃線の痕跡調査-』より)ことから、もしかすると「先に日永駅で機関車を回転させておき、終点南浜田駅まではバック運転で向かう」という変則の運行方法が万が一にも考えられるが、まずその可能性は低いと判断する。つまり開業当初の南浜田駅の構造は、機回し線と末端に転車台を備えた伊勢八王子駅のような構造をしていたと考えられ、地図での立地条件を考慮すると軌道の南側、つまり東海道沿いに駅舎を持つ構造(上地図参照)のそれなりに大きな規模のものだったと思われる。ただ、もちろん三重軌道㈱としては当初から院線(国鉄、現JR)四日市駅への連絡を目指していたため、末端とはいえ既にその先には軌道を延長した状態で作られていたであろうし、いずれは中間駅となる予定のため駅舎も伊勢八王子駅ほどに本格的な建物は設けていなかったのではないかと想像する。実際、日永~南浜田駅間開通の7か月後の1913(大正2)年5月16日には南浜田~諏訪前間、さらに1915(大正4)年12月25日には四日市~八王子村間が全線開通し終着駅としての南浜田駅の役割は終了している。ちなみに、国立公文書館蔵の鉄道省文書「三重鉄道㈱」」内に、1916(大正5)年12月2日付「南浜田・東日野両停車場設備省略の件」という文書の項目がある。文書の内容は不明だが、想像するに南浜田駅に当初より設置していた転車台や駅舎待合室、機回し線その他設備が四日市駅間の全線開通により不要になったが、開業当初からやれ災害だ訴訟だと苦難続きで資金不足のため撤去費用が捻出できず、この時期までずれ込んだのではないだろうか(ただ、転車台設備のみに関してはその後の諏訪前駅・四日市駅など新終着駅開業の際にもろもろ移設し再利用した可能性はある)。根拠はないが、想像するだけなら自由だし楽しいので良いであろう。これもまたいずれ直接閲覧の必要を感じさせる一史料といえる。

それはともかく、先述した鉄道省文書「三重鉄道㈱」」内の以降の南浜田駅に関する項目を羅列する。※なお「…停車場その他…」と表記する項目も多いため、その中に南浜田駅も入っている可能性が高いが、その詳細を判別不能のためそれらは除外する。

 

1922(大正11)年5月4日付「東日野停車場及南浜田停留場待合所建築届の件」

1925(大正14)年9月9日付「南浜田・泊両駅停留場を停車場に変更の件」

1933(昭和8)年4月14日付「南浜田・南日永両停車場を停留場に変更の件」

1940(昭和15)年12月20日付「南浜田停留場を停車場に変更の件」

 

以上のように、1916年(大正5)年12月の設備省略の届出以降、停留場になったり停車場に戻ったりを繰り返している。特筆は1922(大正11)年5月付「待合所建築届」の件で、終着駅であった当初は折り返し駅であることからさすがに小さな待合室くらいは存在していたのではないかと思われるが、当時の駅周辺には隣の赤堀駅ほどに人家もなかった(上地図参照)ためか不必要と判断し撤去した(そのためか、いつの間にか当初「停車場」であったはずが「停留場」に変更されている)のかもしれない。が、四日市駅まで全通したことで利用する沿線旅客が増加し始め、結局再度建築する羽目になった(笑)のではないだろうか。これまた想像。

最終的に、大東亜戦争末期の1943(昭和18)年の諏訪~内部間の600V電化区間内の駅にもかかわらず、戦時対応の路線輸送力強化・スピードアップのためだろうか、南浜田駅は翌年11月1日に廃止され駅としての役割を終える。しかし、一時的とはいえ終着駅としての役割を担った南浜田駅は、その必要性のため他駅よりやや広い敷地を確保していたことが功を奏し、戦後の1959(昭和34)年8月に輸送力アップのための行き違い設備「南浜田信号所」と形を変えて復活を果たすことになる(1986(昭和61)年8月に廃止)。これは既に市街地化しており敷地的に余裕のない日永駅以北の四日市市中心部においてまさに幸運というほかない。

これまで四日市市史』含め、多くの参考史料や情報に自分なりに目を通してきたが、より早くに消え去ったはずの三重鉄道㈱四日市鉄道㈱合同駅舎の史料は多く残されているのに対し、戦時末期まで存命中だった南浜田駅の写真や駅の様子を描いたスケッチなどが掲載されている史料には不思議とまだお目にかかれてはいない。戦争中、しかも翌年(1944年)6月の四日市空襲前に廃止されたためだろうか、残されていたかもしれない南浜田駅の写真は焼失し、沿線の住民の記憶の中からも忌まわしい戦争の記憶と共に消え去ったのかもしれない。でも、今ならまだ、もしかしたら誰かの持っている古いアルバムの中に、あるいはご存命中の方の記憶の片隅に、ありし日の南浜田駅の姿が残っているかもしれない。もしそういう情報が載っている史料をご存知の方がおられたら、是非教えていただきたいと思う。一日遅れました。以上 04/26