新・日永駅の真実(後編)

後編では、鈴鹿支線(現・内部線)延伸される際の日永駅の経緯について見ていく。

その前に、そもそも鈴鹿支線の計画はいつ頃どのような理由で立ち上がったのか。鈴鹿支線計画の出発点を探ると、昭和11(1936)年出版の絹川太一編『伊藤傳七翁』という書籍に突き当たる。この書内に「日進工業株式会社」という企業紹介項目があるが、この中で

「三重軌道株式会社が経営意の如く終始窮境に彷徨するのを見た翁は、地方に事業を起して右鉄道を救済すると同時に何等か資源を開発せんと志し、研究の結果鈴鹿方面に多量の石灰石埋蔵せんことを発見した。…(中略)…そこで四日市に日進工業会社を設立し事業を開始するに至った。」

とある。10世伊藤傳七は三重軌道㈱八王子線が狭隘、しかも短絡路線のため経営維持が困難であることを早くから危惧していたようだ。ただ10世伊藤傳七は大正4年6月以降は三重軌道㈱の取締役を辞し経営の第一線から退いていた(※ただ「相談役」として会社には関係している)が、大正5年12月の三重鉄道㈱への移管・発足後に再び請われ「相談役」に就任する。その際に上記の計画を提案、以後の三重鉄道㈱の経営維持の基盤を作ろうと模索したと思われる。その事業の連携先「日進工業株式会社」創立は大正7年3月であり、伊勢新聞大正7年10月29日付記事「三重鉄延長計画/八王子より水沢を経て椿村に…」という見出しで(やや計画路線のルートは違うものの)三重鉄道の延長計画を報道しており、時期的にも一致する。鈴鹿支線の軽便鉄道敷設免許下付は大正8(1919)年6月25日であり、鉄道院に対し実際に延長申請を提出したのは大正7年10月頃であろうが、先の書籍から計画としてはかなり早い段階から検討されていたことが想像できる。つまり、鈴鹿支線の出発点は鈴鹿方面の石灰岩の採掘・運搬(※開業後はに内部川の土砂・砂利輸送に変わる)により経営の安定を図り、短小路線である八王子線の維持存続を主たる目的としたといえるだろう。ただ、鈴鹿支線の申請から免許下付に至るまでの期間を含めた申請書類が綴られていたであろう大正6年~9年間の鉄道省文書』が何らかの理由により焼失して国立公文書館に現存しておらず、その足跡を詳しく追うことが出来ないことは残念としかいいようがない。

…余談ながらここからはあくまで僕個人の感想だが、10世伊藤傳七は三重軌道㈱発起人メンバーの一人・笹野長吉とは経営方針の相違からかあまりそりが合わなかったらしく、そのことは笹野長吉が社長に就任した大正4年以降に取締役職を辞し三重軌道㈱の経営からは距離を置いている様子からも想像できる。ただ、自らの地元を走るも貧窮にあえぐ三重軌道㈱八王子線の行く末は気にしていたに違いなく、実際「日新工業株式会社」の設立時の役員に伊藤小左衛門はじめ三重軌道㈱の取締役ら役員メンバーが並ぶ中、ここでも「相談役」として名を連ねている。10世伊藤傳七の地元愛を感じる部分だ。

 

さて、ようやく鈴鹿支線延伸における日永駅の変遷を見ていこう。

三重鉄道㈱鈴鹿支線の工事に着手したのは大正9(1921)年11月1日からだ。ここから日永~小古曽間(約1.9㎞)の一部区間開業はほぼ2年後の大正11年1月10日だが、実は開業の直前、大正10年12月までは日永駅からの鈴鹿支線は現在のような直行式、八王子線との軌道交叉形状ではなく日永駅での折り返し、つまり八王子線と線路でつながっていない状態での計画だったようだ。これは『鉄道省文書』大正10年12月16日付「停車場設計変更認可書」(下写真右側)とその「理由書」(下写真左側)文面から分かるもので、そこには

鉄道省文書』大正10年12月16日付、右写真が「認可書」、左が「理由書」。

「従来認可されている方法は引き返し運転の事となっており、乗客の乗換には頗る迷惑するのでこの度幹支線(八王子線鈴鹿支線)分岐点転轍機を信号機と連動させることで危険を排除し四日市市、小古曽間を直通運転できるよう設備するのは旅客の利便を図るために他ならない」(※写真赤線部、意訳)

と書かれている。前編で紹介した三重軌道㈱時代の初代日永駅が、「旧東海道に駅施設を近づけるためかなり東側に寄せた配置になっており初期計画では日永~八王子間の線路も折り返し運転形状だった」と書いたが、鈴鹿支線においても同様の理由、及び西方角へカーブする八王子線の形状もあり日永駅での折り返しする形状にせざるを得なかった、というのが実情だろう。

三重軌道㈱時代、初代日永駅の形状図面。『三重鉄道敷設関係図面』より

実は当時の赤堀~日永間の鹿化川橋梁は現在位置よりさらに西方面に架橋されており、赤堀駅から日永駅へはおそらく開業当初から鹿化川橋梁付近や日永駅構内も含めかなり曲線が連続するため運転に支障が出ていた(速度が上げられない等)のではないかと予想される。鈴鹿支線を延伸するのに合わせ、一気に駅位置と形状を変更しこれらの問題も合わせて解消しようと試みたと考えられる。旧東海道寄りだった従来の駅位置よりやや西方面へ移動しつつ方角を南方向へ修正することで、鹿化川橋梁より日永駅までの曲線を緩和し、かつ鈴鹿支線との線路直通を容易にするという形状としたと思われる。下図面は上図と同様、三重県立博物館所蔵の『三重鉄道敷設関係図面』内に収蔵されていた設計図面の一部で、初代日永駅との形状比較ができる貴重な一枚だ。これはあくまでも

形状変更後の日永駅図面。従来線が駅の下側に書かれている。『同図面』より

設計図面であるが、これを見ると現在の八王子線との線路形状からみて現在の最終的な日永駅2・3番ホームはこの図面左端(やや南側)、現在は北側に寄り過ぎているように見える1番ホームはこの当時は完全に駅施設中央部にあったことが読み取れる。つまり、現在現役で稼働している日永駅は大正11年1月に開業した「2代目」日永駅だということがこれらの図面から読み取れるのである。

余談ながら、「2代目」日永駅が開業して数年後の昭和2(1927)年、単端式瓦斯倫(ガソリン)客車の導入の際に分岐駅である日永駅での八王子・鈴鹿支線相互使用のため八王子駅に設置されていた転車台を移設する旨の申請を1月31日付で提出している(下写真「転車台設置位置変更届」国立公文書館所蔵鉄道省文書』より)。

「転車台位置変更届」写真。

2016年に日永駅構内で変電所設置工事が行われた際、敷地から転車台とトラバーサー?らしき痕跡が発掘されたというニュースがあったが、前掲の大正10年の日永駅設計図面には転車台らしき表示はされていないため、この時発掘された転車台の痕跡は昭和2年に移設した転車台のものと推測される(※この転車台は伊勢八王子駅の工場敷地内にあったものと推測される。八王子駅本線用の転車台は別にもちろん必要なため)。残念ながら、この申請の際添付されていたであろう図面は現存せず日永駅のどの位置にどのような線路形状で設置されたのかが不明なのが残念だ。

 

この後も日永駅は八王子線の一部区間の廃止を機に4番ホームを廃止するなど数々の細かい施設の設置、修正など様々な変化を見せる。が、駅位置を変更するほどの大きな変更はない。わずかな情報から明治末期~大正時代の日永駅の姿を想像するのは実に楽しいものである(笑)。  以上