新・日永駅の真実(前編)

次は八王子・内部線の分岐駅、日永駅について考察する。

 

大正元(1912)年8月三重軌道㈱の日永~八王子間開業以来より存在し、大正11(1922)年の内部線(当時は鈴鹿支線と呼称した)延長開業以降は特殊狭軌(ナローゲージ)の分岐駅として現在では広く認知されている日永駅だが、実は現在の日永駅が開業当初から変わらず現在の位置にあったわけではない。今回はネット記事などでもほとんど書かれていない明治末期~大正後期、三重軌道㈱三重鉄道㈱時代の日永駅の歴史を時間系列に沿って解説していきたいと思う(※もちろんこれは現時点での私的考察であり、以後新たな史料発見などにより変わる可能性もあることをご了承下さい)。

 

まずは明治43(1910)年10月19日付、三重軌道㈱が軌道敷設特許下付を得た当初計画では日永駅は現在の位置よりもう少し旧東海道寄り(東寄り)に設置する予定だったようだ。しかも駅施設(乗降場・貨物荷卸場等)の利便性を考慮してか、より旧東海道側に寄せるため八王子駅方面への線路は同駅で折り返し運転をするような形状の計画になっていたらしい(※現在でいうと養老鉄道大垣駅のような形状)。ただ、諸般の事情で国道(東海道)及び県道(水沢道)拡幅に伴う軌道敷設計画の見直しを迫られ、明治44(1911)年4月に津市で個人工務所を開業していた技師・神田喜平氏を招聘し計画自体の見直しを行うこととなる(下写真・鉄道博物館所蔵鉄道省文書』より)。もっとも、神田氏招聘直後の明治44年時点での計画見直しの際には日永駅の駅形状の見直しはなされなかったようだが。

明治44年4月12日付「工事認可願書提出延期願」。文中に「…設計ニ不備ノ点ヲ発見シ」、「神田喜平ヲ傭聘(ようへい)シ測量設計を再調査」することにした、とある。

残念ながら設計当初の図面などが現存しないため、最初期の折返し運転状態の日永駅がどのような形状だったかを知る術はないが、当時は前後方向に自由に走行できる現在の電車とは違い基本前進のみの蒸気機関車の時代であるため転車台等の施設も必要となるため、その内容を聞いただけでも乗客側・運用側双方にとって非常に使い勝手の悪い形状であったことは容易に想像される。案の定「この形状では機関車の機回しなど余計な時間と手間がかかり乗客・貨物の円滑な運搬ができない」という理由で開業直前の明治45(1912)年7月1日付で設計変更の認可申請を提出している(※鉄道博物館所蔵鉄道省文書』(下写真)より)。・・・そりゃそうだ(笑)。

「申請書」(本書)が右、「設計変更理由書」が左。「逆行線を直行線に変更する」とある

また同年7月19日付伊勢新聞記事では「終点八王子駅は駅舎、待合室、便所その他は完成しているが日永駅はまだ完成していない」とも報じている。7月1日付の設計変更認可申請からわずか2週間あまり、おそらく完成直前での逆行線から直行線への急な設計変更及び工事のため完成が遅れていたのだろう。何はともあれ1か月後の8月14日、日永~八王子間が開業、無事に直行線方式となった日永駅(※初代)の短い歴史がスタートする。三重県立博物館所蔵「三重鉄道敷設関係図面」内には、開業当時の初代日永駅の形状を知ることのできる貴重な図面が残されている(下写真右側)。図面に残る路地形状から現在の日永駅の位置より約50mほど東南方向に移動した場所で、線路は退避側線と共に西方向へ大きな急カーブを描きつつ南側に駅舎本屋と便所、北側に乗降場を備えた停車場設備であったことがうかがえる(現在の地図と比較してご覧下さい)。

右が「日永停車場図」(南が上)、左は現在の地図に図面の線路位置を赤線で付加した(推測)

ただ、写真右側の日永停車場図は大正5年の三重軌道㈱から三重鉄道㈱(=軽便鉄道)に譲渡・経営移管する際鉄道院に提出された図面と思われるため、この図面が実際の初代日永駅の形状であったという確たる証拠はない。が、当時既に営業運転している区間上の駅であり三重鉄道㈱に経営移譲する大正5(1916)年時点で特に駅形状・位置を変更する必要がないことから大正元年開業当初からこの位置・この形状であったことはほぼ間違いないであろうと推測される。地図と比較しても現在の位置よりかなり東海道に寄せた位置にあったことが分かると思う。

 

初代日永駅開業から8年後の大正8(1919)年6月25日、後の内部線となる三重郡日永村~鈴鹿郡深井澤村間(「鈴鹿支線」)の軽便鉄道敷設免許が下付される。これにより日永駅からの延伸をスタートさせるのだが、実はこの鈴鹿支線もまた当初の計画では現在のように線路を接続・分岐するような形ではなく日永駅を起点として折り返し運転をさせる予定だったようである。

鈴鹿支線延伸に絡む日永駅改造についての検証は、次回後編で行いたいと思う。

 

(後編に続く)