閑話休題:相変わらずの歴史誤認

現在、日永駅の歴史についてまとめている最中。前後編に分け紹介予定ではありますがどうなることやら。とりあえず、短文ながら少し個人的な意見を述べさせていただきましょうか。読み流していただければ。

つい最近でもホームページ等で四日市あすなろう鉄道(三重軌道三重鉄道)や近鉄四日市駅の形成の歴史について新たに紹介・解説されたりしてますが、当然のように既出の書籍や情報などをそのまま流用しコピペしたものばかりで、相変わらず「間違っているかもしれない」歴史認識がまかり通っていることを非常に残念に思います。とりわけ、鉄道に対し深い興味を持っているいわゆる「鉄分」(笑)の多い方々に特にこの傾向が強く見られる気がします。書籍等の掲載情報をまとめて紹介するのは結構ですが、それらの内容を列記した時にその内容に対して矛盾を感じたり疑問など抱いたりはしないのでしょうか。

例えば、以前にも紹介したかと思いますが、大正2(1913)年5月に三重軌道㈱諏訪前駅を、同年9月に四日市鉄道㈱諏訪駅を開業したと一般的には認識されているのですが、仮に諏訪~四日市駅間を両社線路が同敷地に並行して線路敷設すると決まっていたとすれば、何故に距離的に数十mも離れた場所に別々の停車場を設置する必要があるのでしょうか? 乗客の利便性のことも考えれば、この時点で両社線路が接近する部分に合同駅を設置し接続・連絡させる方が乗客・鉄道会社どちらにとってもメリットがある(乗り換えが楽、駅舎建設費用が半分で済む等)と思いませんか。僕自身も実際そういう疑問を持って鉄道省文書』を閲覧してみれば、やはり当時の関係者も実際に両社合同計画で諏訪停車場が計画されている(そしておそらく施工されているはず)ことが分かるわけです。こんなこと、それこそ生粋の鉄道ファンであれば当然この疑問に行き着くはずだし疑問に思わなければならないと思うし、そのことに対し言及し調査しなければならないのではないかとさえ思います。にもかかわらず、誰も彼もが過去書籍等の記載をそのまま信じ込んで(いるのかどうかは知らないが)紹介していることにむしろ驚きすら感じてしまいます。合同四日市駅の開業にしても同じことで、そんな早い段階で両社が並行して同敷地に線路敷設すると決まっているなら開業時期が3か月?半年?も大幅にズレるはずがないじゃないですか。そこにはどちらか、あるいは両方に何らかの問題があったと考えるべきで、その理由を探ったうえで情報に間違いないことを確認してからブログやホームページに紹介するべきではないのかと思うのですが。・・・まあ多分、車両等のことには造詣があっても鉄道の歴史に関しては疑問にも思わなかった、ということなのでしょうね(笑)。

自分がこれまで書いてきたことが全て正しいとまで断言するつもりは毛頭ないですが、少なくともこれまでの三重軌道㈱諏訪駅近鉄四日市駅の歴史に関する掲載情報が鉄道省文書』含め過去の公文書の内容を十分に精査したうえでのものではないということだけは確実に分かります。しかしながら、当時の有識者が書いたものであるという程度の認識でその情報を鵜呑みにし過去の記載を真実だとして頼っている現在の状況下では、これ以降もこういった安易な情報発信により四日市の歴史が歪曲され続けていくことになるでしょう。国立公文書館に閲覧に行くだけで分かることなのに、本当に残念な話です。