閑話休題:当初は観光地駅だった八王子駅。

大正元(1912)年8月、現在の四日市あすなろう鉄道の原型となる三重軌道㈱により日永~八王子駅間が開通・開業する。

以前にも紹介したので詳細は割愛するが、自身の鉄道敷設目的を「交通補助機関」「旅客運輸」へと変更していた三重軌道㈱は経営にあたり当線への旅客者数を増やすため新聞に沿線の観光地を紹介・提案し旅客誘致を行っている。三重軌道㈱に関連した一連の観光地への旅客誘致に関する記載で、現在までで僕が確認している限りで最古のものは明治45(1912)年7月19日伊勢新聞記事「三重軌道と遊園/八王子駅の東北方の高稜に遊園地計画」という見出しの記事だ。記事内容については省略するが、この時点でまだ三重軌道㈱は日永~八王子間開業をしていない段階であり、開業に向けアピールの意味もあったのではと推測される。同線の終点駅であった八王子駅は大正年間にかけて長らく2箇所の名所・観光地が常に紹介されていた。一つは同駅に併設される形で設けられた①「八王寺菖蒲園」、そしてもう一つは➁「八王子の瀧」だ。

①「八王寺菖蒲園」八王子駅構内に設けられた庭園で大正2~10年にかけて伊勢新聞大阪朝日新聞などでおおよそ見頃の時期となる5月~6月頃に何度か記事にて紹介されている。その中でも庭園が出来た経緯や様子などが最もよく分かる記事が大正10年6月9日付大阪朝日新聞掲載の記事「八王寺の菖蒲」だろう(※下画像)。記事の内容の一部を紹介する。

大正10年6月9日付『大阪朝日新聞』東海版記事「八王寺の菖蒲」

「この園の特徴は前三重軌道社長の故・笹野長吉氏が生前に私財を投じて全国から珍しい品種500余種を取り寄せ植えられたものなので種類の多さを自慢としている。特に今年はアーク燈やぼんぼり(=行灯)を増やしたので夜は一層壮観である。一番の見頃は本月中頃から来月二十日頃と云われている。三重軌道も開園中は毎日臨時列車を運転し八四日市~八王寺間往復切符は割引をしている」(※記事一部抜粋、意訳)

八王子駅前に広がっていた菖蒲園の存在は広く知られていることだが、この記事にあるように室山出身の酒造家・笹野長吉氏が自らの資金を投じ作られ維持されていたらしいことは僕もこの記事を見て初めて知ったところだ。同庭園は大正末期~昭和初期あたりで閉園・撤去されたようだが正確な時期は分かっていない。このあたりも以降の調査対象と言えるだろう。

余談だが、実は八王子駅には大正5年までの短期間だがもう一つ、もっと知られていない観光スポットがあったかもしれない(?)という記述があるので紹介する。

大正5(1916)年12月三重軌道㈱は「軽便鉄道」の三重鉄道㈱として再出発するが、その際に鉄道院による竣工監査を11月30日に受けている。もちろん検査は合格だが、その監査報告文中に興味深い記述がある。開業後速やかに修正・完成するべき指摘事項が全部で15項目指摘されている箇所があるのだが、その第11項でこのように書かれている。

「十一、八王子村駅動物檻を線路外に移設すること」(※下写真、赤線囲み部)

竣工監査報告書の指摘事項の一部。全15項目あるうちの第5~12項が書かれているページ。

とある。どうやら八王子駅構内には菖蒲園だけでなく動物檻も作られていたらしい。親切なことに次ページ以降でこれらについても詳しく説明してくれている。

「第十一項は、構内本線と客車庫線との間に動物檻を建設し公衆の観覧に供するものだが、構内保安取締り上不可のため線路外の空地に移転するよう教示したものである」(※下写真、赤線囲み部)

同監査報告書の一部。鉄道院技手・久保田順一、技師池上重吉両氏によるもの。
※上画像は、ページ跨ぎの文章のため独自に加工しつなげた画像。

つまり八王子駅構内、おそらく駅舎線路付近の東側に動物檻が設置されており八王子駅到着の際には乗客の興味を引くよう客車から動物柵が見えるようになっており、そこに何らかの動物が飼育されていた、あるいは飼育予定であった「動物園」のようなものが計画されていた可能性があることがこの文書から分かるのである。それ自体三重軌道㈱時代から既に存在・稼働していたのか、三重鉄道㈱時代からスタートさせようとしていたのかまでは情報がなく判然としないが、菖蒲園も併設したある種の複合遊園地のような様相を呈している様子がうかがえる。これも鉄道省文書』により初めて確認できた事実であった。もしかしたら、まだまだ新しい発見があるかもしれない。

もう一つの観光地➁「八王寺の瀧」だが、こちらも早い段階から避暑地として紹介されている。現在確認できている最も古い新聞記事は大正3年7月5日付伊勢新聞記事「滝開きと宝拾ひ」だ(※下画像)。

上記『伊勢新聞』記事。同月27日にも「瀧の浴客優待」という記事が掲載されている

「浴客の為め四日市諏訪駅より終点八王子駅間に夏季を通じて往復三割引乗車券を発売する。瀧開き当日は鉄道会社の催しで水中(滝壺?)にシジミ貝を散らしその中に景品券を入れ拾った者には抽選にて景品を進呈する趣向である」(※記事一部抜粋、意訳)

この瀧は一個人の私有地にあった小さな瀧だったらしい(当時の写真も残されている)が、避暑シーズンになると三重軌道㈱は上記事のようにイベントを催しては旅客獲得を企図している。ただ、同時に大正13年発行の三重県三重郡勢要覧』内ではこの八王子の瀧について

「人為ノモノアリト雖(いえども)瀑幅細クシテ到底瀧ノ名称ヲ下ス価値ナキモノノ如シ(人工的に作られた瀧があるが瀧幅が細く到底「瀧」というべき価値はない)(※意訳)

とも評しており、観光地としてはかなり強引な位置付けであったらしいことが分かる。そもそも、先に紹介した①「八王子菖蒲園」と合わせても旅客誘致が出来る期間は長くて5~8月の4か月のみである。鉄道を維持するための観光地としてはあまりに集客力の弱い施設と言わざるを得ないだろう。

 

実際、八王子駅は大正期まで菖蒲園のみならず従来より機関車庫・客車庫を備えた規模の大きい停車場であったのだが、鈴鹿支線」(現・内部線)の延伸開業とともにその設備を中間駅であった日永停車場や内部停車場に移され規模が縮小していくこととなる。これはまさに明治期以来、繁栄を極めた室山地区周辺の製糸製茶産業の衰退と重なっている。これは結局、八王子線が沿線からの広い要望により建設されたものでなく、単に当時の地場産業に付随した鉄道であったことの証明でもあり、昭和49(1974)年の豪雨水害の被災による休止・廃線への流れはむしろ「よく長続きしていた」といった表現の方が正しいといえるだろう。既に「伊勢八王子駅跡」の看板のみがその存在を伝えるのみとなっている現代、新たな「都市伝説」的な話題として今回の話題が取り上げられれば良いなと思っている。

以上