ご挨拶:今年1年有難うございました

2023年もあと少しで終わります。

今年は4月から7月にかけて国立公文書館及び大宮鉄道博物館への公文書閲覧が実現したことによって、県内図書館だけではどれだけ調査してもほとんど詳細がつかめなかった三重軌道㈱創立当初~三重鉄道㈱への移管開業あたりの歴史、期間で言うと明治末期~大正5年にかけての四日市市内の特殊狭軌鉄道の成立の経緯が見えてきました。

 

・・・思えば、きっかけは些細な疑問からでした。旧西日野駅の駅舎の写真が時期によって違っている、といった視覚的な疑問は本ブログの最初に書いた通りですが、本格的な調査研究を始めたきっかけはこれとは別の理由でした。

とある事情で現在の四日市あすなろう鉄道の歴史について調べる機会があり、当初は駅舎等の視覚的情報を中心に調査していたのですが、それと同時に歴史についての情報も様々な書籍やネット記事から集めていたところ、大正2(1913)年の「南浜田~諏訪間開業」という記載が「南浜田~諏訪間開業」という2つの異なる記載に分かれていることに気付いたことに始まります。

「諏訪」「諏訪の駅位置が違うことはそれまでの調査で既に分かっていたが、そもそも三重軌道㈱時代に「諏訪」という名称の駅が別にあった等という記載がどこにもないため、この名称の違う2つの駅が同一のものなのか、違う場所にあった別々のものだったのかをはっきり知りたいというのが出発点でした。

この疑問については、三重県立図書館で伊勢新聞の当時掲載された記事を読むことですぐに解明できました。同新聞の大正2年6月7日付「三軌と官鉄聯(連)路線」という記事です。以下に記事全文を掲載します。

「三重軌道にては諏訪駅開始以来旅客数頓に増加し収入従前に三倍するの盛況を呈しつつあるが同駅より一直線に東海道を横切り東方関西線へ乗入るべき連絡線は諏訪新道に沿ひて南方約二十間の地点に路線敷地を買収すべく既に東海道の国道東西両側の隣接地三百四十四坪の買収を終り目下手続き中なり」

記事文内で「(諏訪)駅より一直線に東海道を横切り」と明確に表現しています。つまり大正2年6月時点で三重軌道㈱線路はまだ旧東海道を横断しておらず東海道西側の諏訪公園近辺で途絶えていることを意味しており、旧東海道の南東側にあったとされている「諏訪駅が存在する可能性を全否定するものと考えて良いと思います(※もっとも、記事内容に関しては後半部分に三重軌道㈱ではなく四日市鉄道㈱のものと思われる情報も混在しており、多少正確性に欠けるのも事実です)。

ではなぜ「諏訪」「諏訪、異なった2つの記載が混在しているのか。当然の疑問と言えるでしょう。少なくとも、四日市あすなろう鉄道など同鉄道の歴史に直接または間接的に関係している企業等の沿革・社史では現在でも「諏訪」としています。これに関しては現時点でまだ調査途中ではありますが、「ある時期」の「ある書物」を境に「諏訪」から「諏訪に表現が変わっている可能性が高いらしいことだけを今は伝えておきたいと思います。全ての関連書籍の調査を終え、確実な情報となった時に改めて詳しく解説したいと思います。

 

冒頭に書いた通り今年は三重軌道㈱の創立初期、現在に至ってもあまり一般には知られていない歴史や経緯を知ることが出来ました。2024年の本ブログは、年頭から三重軌道㈱創立に始まる明治末期からの同鉄道の歴史を紹介していきたいと思います。

 

以上