「室山驛」の写真の謎について考えよう。

前回紹介した伊勢新聞の記事内写真の「三重軌道室山驛」について考える。分かりやすいように、改めて画像を紹介する(※多少画像が粗く見にくいのはマイクロフィルムとして保存されているものを印刷しているため、なにとぞご了承頂きたい)。

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タイトルで「謎について考える」とは言ったものの、実のところこの写真1枚のみから特定できるものなど何一つないのが実情だ。強いて言うなら、踏査団一行が並んでいる場所は蒸気機関車と牽引されていた客車が見えることから駅のホーム上であろうという事、奥に何かしらの建物が写っている事、あとは写真右端に窓枠らしき格子状の部分が見えることから踏査団一行の向かって右側に待合室か何か建造物が存在していたであろう、くらいのものである(後ろに写り込んでいる建物は室山駅舎なのだろうか、しかし1974(昭和49)年八王子線が水害に遭う当時でも室山駅前向いの「元駅舎だった」という商店は現存しておりこの写真の建物形状とは似ても似つかない。室山駅舎ではないと考えるのが自然だろう)。この写真が、駅のどこからどの方角を向いて撮影されたのかすら分からない。そのうえで、地元の「四郷郷土資料館」に開通初期の室山駅の構造を伝える資料が展示されているのでそちらを紹介する。

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室山駅が設置されていた当時の室山地区周辺は、伊藤小左衛門をはじめ伊藤傳七・笹野長吉などの有力者によるメリヤス商品や清酒・味噌・醤油・製茶等の一大産地として隆盛を極めていたことから、上図の通り一般乗降客を乗せる駅・プラットホームとは別に伊藤メリヤスからの貨物運搬するための貨物専用線(?)及び出入口も設けられていたようで、八王子線中でも規模の大きい駅であったろうことが想像できる。この図だけでは北側に建つ室山駅舎側にも乗降用のホームがあったのかどうかは判別しづらいが、おそらく一般乗降客は南側にあるプラットホームのみで汽車を待つ方式が取られていたと思われる。

さて、写真の検証に戻る。上図では天白川をはさんだ室山駅南側には一面の水田が広がっている、プラットホーム南側には線路がないことから、この写真が少なくとも南方面を向いて撮影されたものではないことがまず確定した。さらに踏査団一行がホーム及び機関車等からやや斜に相対していることから、図上矢印①プラットホームから北西方向を撮影あるいは矢印②北東方向を撮影、の2点に絞られる。…と文章で書くだけだとそう思えそうだが、もうこの時点で矢印②北東方向を撮影方向に確定される(笑)。…なぜそうなるかは説明不要と思う。ちなみに、矢印①北西方向だと伊藤醤油部工場(温醸棟)が写り込むことになるが、その工場の形状からもこの方角がありえないことが分かるので、その写真も紹介しておく(写真左端に写っている小屋が図内のポンプ置場)。

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       (出典:『写真でつなごう四郷のきずな』より)


とにかくこの結果、後ろに写り込んでいる建物はおそらく「養鶏場」という事になるのだが、それにしてもこれだけ室山駅で撮影されたものとして辻褄を合わせようと検証しているにもかかわらず、今なお矛盾が多すぎる。書いている自分がそれを感じている。まず、なぜ養鶏場が写り込むほどにプラットホーム東端に寄ってまで撮影しなければならないのか。伊藤メリヤスや当時の室山駅が写り込んでも良いではないか、むしろ写しておいてほしかった。さらに、この時点でプラットホーム上に前述した窓枠を備えた立派な待合室のような建物が設置されていたことになるが、それが写真右端に写り込むとなるととんでもなくホーム東端に設置されていることになるため、構造上ありえない。むしろ右端に写るのが室山駅舎の一部、そこから南西方面に向かって撮影した、と説明する方がずっと現実的だし納得がいく。この当時にはすでに天白川南岸に何らかの建物が建っていたことの証明が出来れば、新聞社の記者の「室山驛撮影」という説明にも納得できるのだが。これらの矛盾が解消されないため、ため、個人的にはいまだに疑っているのが現状なのである。

 

果たして、この写真は本当に当時の室山駅で撮影されたものなのだろうか。当時の『伊勢新聞』も含め、他の新聞などの記事ももっと調査する必要があるだろう。もしかしたら違うアングルでの写真が残されているかもしれない。こちらの検証も自分の中でまだまだ続くことになりそうだ。興味は尽きない。 以上  02/07

初期の八王子線「室山駅」写真、ですか?

今回は1枚の写真から話を進める。こちらは1912(明治45)年7月20日伊勢新聞に掲載されたものである。

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「江勢道路全線踏査の一行」(『伊勢新聞』M45.7/20付掲載)

タイトルに「江勢道路全線踏査の一行(三重軌道室山驛にて撮影)」とある。文中にある江勢道路とは、現在一般には三重県滋賀県を結ぶ国道整備のことと認識されているかと思われるが、明治のこの時期は道路ではなく四日市港と敦賀港を結ぶ計画の「勢江鉄道構想」のことを指しているらしい。この鉄道構想は結果的には実ることはなかったが、一部が現在の養老鉄道という形で残されている。

それはともかく、問題は写真を撮影した場所「三重軌道室山驛」だ。三重軌道㈱の八王子村~日永間開通はこのわずか約1か月後、大正元年8月14日(※7月30日に明治天皇崩御したため元号「大正」改元)だ。開通直後の八王子線室山駅の姿を残した貴重な史料といえよう。

実はこの写真をめぐっても、僕は多くの疑問を抱えている。以前、四日市市に赴き実地調査を行った際、郷土史研究家として地元でも知られるT翁にお話を伺う機会を得ることができた。その際、先生のご好意でT翁ご自身が執筆された随筆文(当人は「随想」と評しておられたが)を頂いたのだが、その内容がまさにこの写真についての研究考察であり、随筆というよりもむしろ「研究論文」にも近いと思える素晴らしい内容であった。その文中では、「この駅は室山驛ではなく、後に「伊藤製糸場前駅」となるであろう開通前の名無しの工事駅ではないだろうか」という仮説を説いておられた。その根拠としては、写真機関車後ろに写る建物を現在も当地に残存する伊藤製糸工場の繰糸工場の屋根ではないかとするものであった。確かに形状はよく似ているし、かなり大きな建物だという判断はできる。

ただ現時点では僕は、「この駅はやはり室山駅ではないか」という推測に至っている。というのも、この写真が掲載された前日・7月19日付の『伊勢新聞』掲載記事内に、

「終点八王子駅は伊藤製茶部南方1町余の所にあり構内広さ二千坪の内十五坪の駅舎有り、待合室・便所その他完成している。機関庫は間口十間奥行十間の広さ、南方には間口五間奥行十間の車庫もあり、いずれもバラック式構造である。八王子~日永間約三哩の線路は完成しているが日永駅はまだ完成していない。最終的には停車場三箇所、停留場十箇所を備える計画となっている。去7月14日県知事一行を乗せ試運転を終え評判は上々、開業は8月上旬を予定しているようだ」(※記事内容を要約)

という一文があり、すでに終点駅名が八王子駅であることを知っていると思える書き方になっているからだ。開業まで1か月前でもあり、停車場の個数も承知済みであることから、よもや写真を撮影した自分たちのいる駅名が分からないということはないだろう、というのが根拠だ。ただ、この写真が本当に記事にある7月14日の県知事一行の試運転乗車時に撮られたものかどうかは分からない。この点については先のT翁も、「写真に写る知事一行の服装が7月にもかかわらず全員が上着着用の正装、解せない」と矛盾に言及している。この写真が本当に当時の室山駅で撮影されたものなのかどうか、現時点で確信に変わるほどの証拠は見つかっていない。事実、僕自身も新しい資料が見つかるたびにコロコロと主張が変わっているんですが(笑)。実は、先の随筆文を頂いたお礼状をT翁に郵送した際の当時の僕は、「私は伊勢八王子駅ではないかと思っている」と偉そうなことを書いて送ったりしているし(汗)。

次回以降は、現時点である室山駅の資料と写真を照らし合わせ考えていきたいと思う。出来れば、ご存知の方がいらっしゃれば、ぜひご意見を伺いたいと思います。宜しくお願いいたします。 以上  2/3

 

昭和初期、激動の諏訪~四日市間について。

1916(大正5)年2月5日、院線(現JR)四日市駅の西側から諏訪駅(現在の諏訪栄町)間を、先に開通していた三重軌道㈱(後に三重鉄道㈱と改称)と並行するように四日市鉄道㈱が蒸気軌道を開通させる。大雑把に説明すると、現在の近鉄四日市駅からJR四日市駅(の少し北側)間を横断するように東西に2本の線路が走っていた、というイメージだろうか。…今考えるととてもワクワクする(?)景色である。

それから約11年後の1927(昭和2)年、名古屋から伊勢神宮までの鉄道による直通運転を目指していた伊勢電気鉄道㈱のカリスマ社長・熊沢一衛は3月に四日市鉄道㈱の、8月には三重鉄道㈱の全株式を取得、社長にも就任し両社を傘下に収める。熊沢が、既に発展著しく新たな軌道敷設敷地の余裕のない四日市内において、院線四日市駅の直近を通るこの2社の路線敷に注目するのは自然な流れではないかと推測する。結果、同年11月に四日市鉄道㈱、翌年11月に三重鉄道㈱の同区間を廃止しこの路線敷を利用し1929(昭和4)年1月30日、これまで途絶していた桑名~四日市間を結び営業開始するのである。

ところが、この2年間の諏訪駅周辺に起こった一連の流れを詳しく解説してくれる資料が見当たらないのだ。「2路線を廃止、その上に新軌道敷設」と単純に片づけてしまうのは簡単だが、だとすれば前述した四日市鉄道廃止と三重鉄道廃止との間の1年間の空白は何なのだ、三重鉄道廃止から伊勢電気鉄道㈱開業までの3か月間は交通手段なしですか、いい加減ですねという話になる。この謎が気になって、色々とそれに関連しそうな断片的な記述などを資料(四日市市史』等)やWikipedia(笑)から拾い集めてみた。とりあえずこれらを要約し箇条書きにしてみる。

・三重鉄道・四日市鉄道両路線が並行して走っていたが、1928(昭和3)年に廃線となり、代替交通として四日市市で初めて路線バスが設定された

・当時電化されていたにもかかわらずジ41小型ガソリン動車を購入した四日市鉄道㈱は将来の三重鉄道との合併を前提として、三重鉄道の四日市市~諏訪前間への乗り入れ運転の実施及び新型電車へ置き換える間の暫定措置として導入した

・伊勢電気鉄道四日市~桑名間(泗桑線)延長工事に伴う四日市鉄道の路線譲渡と廃止に際し、同区間の代替路線として一時的に非電化であった同区間への乗り入れが実施された

・1929(昭和4)年の四日市~桑名間開業は単線での開業であり、複線化は1938(昭和13)年4月13日。※ただし、Wikipedia「伊勢電気鉄道」項の年表では1929(昭和4)年1月30日で複線での開業、となっている

昭和2年四日市地図では四日市鉄道㈱諏訪駅東方(四日市方面)直後で三重鉄道の路線と合流しているような絵になっている(単に省略化されているだけであろうが)

なお、Wikipedia近鉄四日市駅項の年表では、三重鉄道㈱の四日市市~諏訪前間廃止時期を1928(昭和3)年1月29日としているが、当方では『地方鉄道及軌道一覧:附専用鉄道 昭和10年4月1日現在』「三重鉄道㈱」欄(P.102) 記載の「1928(昭和3)年11月20日」を採用している(※こちらの資料も国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能ですので良かったら確認してみて下さい♪)。

 

これらの情報がすべて正しいものとは思わないが、仮に全て本当だとすれば断片的情報から一つの仮説が生まれる。

まず、1927(昭和2)年11月に四日市鉄道㈱四日市市~諏訪間の路線を廃止。その後、並行して走る四日市鉄道㈱(北側)の路線敷だけを特殊狭軌(762㎜)から狭軌(1067㎜)への布設替工事を始める。それと前後し、四日市鉄道㈱の諏訪駅から先の軌道を三重鉄道㈱の南浜田~諏訪前間の軌道と合流させる。これで、四日市鉄道㈱はあらかじめ導入しておいたガソリン気動車ジ41形を使って非電化区間三重鉄道㈱の諏訪前~四日市市間に乗入れ運転を行う事で乗客の不便を解消した(ただ、この区間はおそらく三重鉄道扱いとしていたのだろう)。改軌工事は桑名方面から進められ、終着の三重鉄道㈱四日市市駅の一部が残され使用されたか、距離を短縮し工事用の仮設四日市市駅が設置されたかもしれない。ついでに言えば、もしかしたら並行して走る三重鉄道㈱の軌道は工事の際の骨材資材運搬等にも使用されたかもしれない。やがて工事は院線四日市駅付近まで進み、いよいよ1928(昭和3)年11月20日三重鉄道㈱四日市市~諏訪前間が廃止され、同時に東海道筋を横断する軌道の南西側に三重・四日市鉄道㈱合同の2代目諏訪駅が始発駅として開業する。この頃には、伊勢電気鉄道㈱諏訪駅も軌道の北西側に開業こそしていないものの駅としての体裁は完成している可能性は高いだろう。そして、伊勢電気鉄道㈱が開業する1929(昭和4)年1月30日までの約3か月間だけ、新諏訪駅~院線四日市駅前までの代替交通手段として同区間四日市市初の路線バスが設定されたのではないだろうか(バスルートはおそらく、諏訪駅から東海道を北上し諏訪新道へ右折、本町踏切を渡って院線四日市駅東口に到着ではないか)。この後は伊勢電気鉄道㈱が単線のまま開業しようが複線化しようがどちらでも構わないですが、この工事によって有名な善光寺カーブ」「天理教カーブ」が生まれることとなります。

僕個人の勝手な妄想ではありますが、なかなか現実的で結構良い案ではないかと思うのですが、如何でしょうか(笑)。とにかく、この妄想が正解でも間違いでもどっちでもいいんです、実際のところの変遷を知りたいのです。ご存知の方がおられたらぜひともご教示頂きたいところです。今日も楽しい妄想が出来ました。次は何を妄想しよう。

 以上  1/31

前回の続き、「伊勢八王子」駅の名称について。

前回「伊勢八王子」駅の名称の変遷について書いた。この問題は僕も以前から気になっていたので、色々な資料を検索しては何か手掛かりがないかと調べている途中だった。「八王子村」「伊勢八王子」への変更時期は「昭和2~5年の間」と前回書いたと思うが、つい先ほど新たな鉄道資料を発見できたため、経過報告も兼ねて紹介する。

当時の鉄道省が発行していた『鉄道統計資料 昭和2年 第3編 監督』(昭和4年2月28日発行)中の「第三節 地方鉄道現在 開業線」という項目があり、地方鉄道の主要情報を網羅しているページがある。その中の「三重鉄道㈱」の項目(P.20) 内の駅区間表記は四日市、八王子村」と表記されている。なお、この項目のページトップには「昭和3年3月31日現在」という注記がなされており、このことから少なくとも昭和3年3月31日までは「八王子村」駅のまま存続していた、ということになる。同資料の翌年(昭和3年)度の情報では、注記の情報がないので昭和4年のいつ頃までの情報なのか特定することはできなかったが、こちらの資料ではすでに「伊勢八王子」駅へ名称は切り替わっていた。結果、駅名変更時期は、1928(昭和3)年3月31日~1929(昭和4)年3月31日の1年間の間のどこか、というところまで絞り込むことが出来た。(※ちなみに、この『鉄道統計資料』国立国会図書館のデータベースで公開・閲覧できるようになっているので興味があったら確認してみて下さい)

さて、次はどの資料でこの1年間のどの時期なのか特定しようか、といったところだ。とりあえず国立公文書館デジタルアーカイブ「三重鉄道」鉄道省文書」を見ることは出来るが、現時点では「件名一覧」のみでありまだ公開されていないため、このコロナ禍の中現地に直接赴かねば文書の詳細な内容を見ることはできない。しかも、1928(昭和3)~1929(昭和4)年はちょうど伊勢電気鉄道㈱が桑名~四日市間の開通を目指して四日市~諏訪区間の路線を工事している時期であり、三重鉄道㈱・四日市鉄道㈱含め30通以上もの関係文書が混在している(ほとんどが諏訪駅近辺の工事に伴うものであろうが)。この中のどれかに伊勢八王子駅の駅名変更届の一文が隠されているかもしれない。いずれ騒動が落ち着いたら国立公文書館に行き、直接確認してみたいものだ。ワクワクする。(※こちらも国立公文書館デジタルアーカイブで検索・確認することが出来ますので、良かったら確認してみて下さい)

もう少し、他の資料がないか探してみよう。もしその他違う資料の存在をご存知の方はぜひ教えて頂けると嬉しいです。

 

さて、次はせっかく次回・今回と話が出たので、昭和2~4年にかけての伊勢電気鉄道㈱と三重鉄道㈱・四日市鉄道㈱の3社が織りなす四日市~諏訪間の線路の変遷とそこにある疑問について言及してみたいと思う。まだ調査中ではあるが、今分かっている範囲で。とりあえず、経過報告まで。 以上  1/28 

「伊勢八王子」駅の名称について。

前回の書き込みで諏訪駅の「転車台」について…」という話をしたが、現時点でまだ資料の出典元が確定できていないため(汗)延期とすることとしました。すみません。次回にはより分かりやすくするため当時の写真を掲載しようと思うのですが、そのための出典先の出版元等情報ソースを調べるためです、ご了承下さい(時期は未定)。

 

現在の四日市あすなろう鉄道八王子線は、日永からひと駅の「西日野」駅までしか走っていないため、現在では正式名称の八王子線ではなく「西日野線」と言われることの方が多い(と思う)。伊勢八王子駅まで電車が走っていた1974(昭和49)年から既に半世紀近く経っているのだから、そんな名称知らない人の方が多いのが当然かと思う。ところが、名前でいえばもっとコアな謎がある。その八王子線の終点駅だった「伊勢八王子」駅、なぜ「伊勢八王子」駅なのか。同じ三重県内ではあるが、伊勢神宮のある「伊勢」はもっと南の方。おそらく江戸時代以前のその付近が伊勢国内だからではないか、というのが一般的な理由ではあろうかとは思う。

ただ、もし本当にそれが理由なら最初から「伊勢八王子」命名すればいいし、そうでなければおかしい。だが、1912(大正元)年の三重軌道㈱開業時の駅名は「八王子村」となっている。しかも、開業時の時点でこの駅付近に「八王子村」という地名は存在していない。1889(明治22)年の町村制施行により付近の東日野村・西日野村・室山村・八王子村の4村の区域を合わせて三重郡四郷村」が成立しており、実際の正確な地名は

三重郡四郷村大字八王子」

なのだ。無論、実際には古くから居住していた付近住民らはそれ以降も多分俗称として「八王子村」を使っていたろうことは容易に想像がつく。が、それでは先述の他3村は村と同名の駅名なのに「村」がついていないこととの矛盾が生じる。おそらく当事者の三重軌道㈱側も駅名は「八王子」駅で申請するつもりであったはずだ。

ここからは僕の推測でしかないが、管轄する鉄道院側から駅名を変更するように命令が出たのだろうと想像する。現代ならば、地名で「八王子」と聞けば多くの人が違う場所を想像するだろう・・・「東京都八王子市」だ(とはいえ、実際には市町村大字レベルでいえば東京都八王子市に限らず「八王子」という地名は当然各地に存在する(はず)が)。この時点で、既に院線(現JR・中央本線)八王子駅は開業していた(1889(明治22))年。が、この駅はいわゆる国有鉄道駅であり、民間鉄道の三重軌道㈱の駅だから重複しても何ら問題ない!としてゴリ押しできたのかもしれない(笑)が、三重軌道㈱が軌道敷設・開業するまでの期間にその院線八王子駅を接続駅とする民間鉄道(軽便鉄道含む)が3社も敷設申請を提出している。それらは当然駅に「八王子」と名付けるはず。こうなると何ら他線との接続機能を持たない三重軌道㈱側の主張は弱い。他の敷設申請の時期から察するに、タイミング的には開業直前になって

「「八王子」という駅名はNG、他名称か前に会社名を付ける等、何らか変更せよ」

という指示が飛んだのではなかろうか。結果、時間的に近隣にある地名にあやかるなど代わりの名称を考えたり決めたりする余裕もなく、やむなく安直に「村」を付けて乗り切らざるを得なかった、というのが僕の考えなのだが如何だろう。

 

そして、問題の「伊勢八王子」駅の命名のきっかけ。これも僕の推測の域でしかないはずなのだが、なぜかこちらは単なる想像であるにも関わらず、かなり有力な気がしているのだ(笑)。おそらくこの駅名の名付け親は「東海の飛将軍」こと、「熊沢一衛」であろうと推測している。「伊勢電気鉄道㈱」社長で大正・昭和初期の三重県四日市市川原田出身の実業家として剛腕をふるった熊沢一衛は、昭和初期に三重鉄道㈱・四日市鉄道㈱の全株式を買収し「伊勢電気鉄道㈱」の傘下とした。この時点で三重鉄道㈱は、熊沢一衛の会社と言って差し支えなかった。また、熊沢は先祖伝来の熱烈な伊勢神宮崇敬者であることも知られていた。伊勢神宮の鎮座する三重という土地に誇りを持つ熊沢が、他県にもある紛らわしい地名駅「伊勢」と付けることで別格化させたと考えても不思議ではない。

もちろん、熊沢がその剛腕で名称を変えさせたという記録も証拠も現在見つけられてはいないし、そんなピンポイントの証拠はおそらく今後も見つかる可能性は低いと思う。ただ、現時点で「八王子村」駅の名称が「伊勢八王子」駅に変更されたのは「昭和2~5年の間」と言われており、正確な駅名の変更時期は特定されていない。そして、「伊勢電(熊沢)」が三重鉄道㈱の株式を買収し傘下に収めるのは、1927(昭和2)年8月のこと。時期的にはピタリと合致するではないか。そのうえ、当時「伊勢電気鉄道㈱」運営の路線であった現在の近畿日本鉄道㈱(近鉄)」の駅名には、「伊勢」と冠名がつく駅名が多く現存する。これで決まりではなかろうか(笑)!

・・・と、僕は妄想するのですが、如何なものでしょうか?好き勝手にいろいろ想像するのって、本当面白いですね! 以上   1/24

諏訪駅のことが知りたい。

四日市港からの貨物運搬を敷設の主眼としていた「三重軌道㈱」(※後に「三重鉄道㈱」と改称)は、1912(大正元)年の日永~八王子村間を皮切りに、日永~南浜田間、南浜田~諏訪前間と少しづつ延伸開業距離を伸ばしてゆき、ついに3年後の1915(大正4)年12月、諏訪前~四日市市間を開業して目標であった院線(現JR)四日市駅までの軌道敷設にこぎつけた。(※なお、諏訪前~四日市市間の区間は、同じく四日市駅から湯の山(現在の湯の山温泉駅)駅までの区間を開業(1916(大正5)年3月)した四日市鉄道㈱」と並行する形で走っていた)「三重鉄道㈱」四日市鉄道㈱」の2路線が発着する四日市合同駅を写した写真が残されているが、貨物用ホームも併設されて見た目は首都圏さながら?のターミナル駅の様相で(ナローゲージだけど(笑))立派なものであったことがわかる。

 

そんな立派なターミナル駅も、1928(昭和3)年の四日市~諏訪前間が廃止されることで姿を消す。名古屋から伊勢神宮へ鉄道直結ルート計画を画策していた「伊勢電気鉄道㈱」が、それぞれ北と南から進めていた路線をつなぐため、前2社が走らせていた四日市~諏訪間の路線敷を利用したためだ。このあたりのことは、鉄道に詳しい方なら「5チェーン・カーブ」或いは善光寺カーブ」などと言われるものが出来る由縁として有名なエピソードかと思うので詳しい説明は不要かと思うが、それに伴って作られたのが四日市合同駅の代わりとなる2社の新ターミナル駅となった「諏訪合同駅」だ。正式名称は「諏訪」駅で、先の「伊勢電気鉄道㈱」も開通開業の際に同駅に隣接する形で同名の駅を設置している。

 

2つの鉄道会社・うち一つは蒸気軌道の始発駅ということになり、それぞれが客車を牽引するための蒸気機関車及び電車の向きを変える「転車台」及び「機回し線」が駅構内に設置されていたことが推測される。僕は蒸気機関車のメカニズムには明るくないが、現代の「電車」とは違い初期の蒸気機関車は前進のみが基本であり、後進(バック)運転には向かないらしい(後年に製造された蒸気機関車はそうでもないそうだが)。ちなみに四日市鉄道㈱」の方は早い段階で電化(1921(大正10)年)されており、転車台に関しての問題は解決されているが、対して「三重鉄道㈱」の方は八王子線の方の電化が戦後の1948(昭和23)年まで待たねばならず(※内部線電化は1943(昭和18)年)、少なくとも昭和23年までは諏訪駅構内の転車台は現役として存在していたはずである。

しかし、どうにもこの「諏訪」駅にあったはずの転車台の詳しい情報が見当たらない。「Wikipedia」で諏訪駅について検索(※ただし検索の場合「近鉄四日市駅」になる)しても、蒸気機関車運転当時の諏訪駅構内の説明は一切なされておらず、唯一「三重鉄道シハ31形気動車内の「運用」欄にて、

「…(中略)、シハ35、シハ36は狭隘な諏訪駅構内に設置された転車台では転回できなかった…(中略)」

という転車台があったこと前提の一文があるのみで、これだけ状況説明のできる一文があるにもかかわらず、諏訪駅構内のどこにどのような形状で設置されていたのかの情報を得ることが全く出来ず、この謎を解明できていない状況なのである。確かに、東海道沿い・繁華街内という好立地もあり不要な駅内施設や敷地がいつまでも撤去されずに残されるという状況ではなかろうとは思うが、写真なり図面なり何かしら残されていてもおかしくはないと思うのだがなぜなのだろう。多分、今の僕が一番知りたいと思っている謎の一つである。もし何かご存知の方がいらっしゃったら、是非ご教示頂きたいです。

・・・実は、僕なりに推測していることはあるのですが・・・。素人意見ではありますが、できれば次回はこれについて言及していきたいと思います。続く  1/22

三重軌道㈱の生みの親、伊藤六治郎。

前述した三重軌道㈱は1910(明治43)年12月28日に創立総会を開催、取締役筆頭・伊藤小左衛門以下計7名をもって設立された。

 しかし、実際に三重軌道㈱八王子線が走る地元・四日市市四郷村の歴史をまとめた冊子『四郷ふるさと史話』(平成11年12月20日初版・発行/四郷地域社会づくり推進委会)P.44「軽便鉄道の敷設」の文中に、

「海外視察をした伊藤製茶部主任伊藤六治郎は、蒸気機関車で物資を運ぶ欧米と、苦力(クーリー=出稼ぎ労働者)の肩だけにたよる東洋の国と、あまりにも荷役作業に差があるのに驚き、村に鉄道が敷けないか、身近な人たちに諮(はか)りました」

という一文がある。

 

文中に登場する「伊藤製茶部・伊藤六治郎」とは、明治期の工業都市四日市の基礎を築いたとして著名な「5代目伊藤小左衛門(尚長)」の末弟(四男)にあたる伊藤所左衛門(1832(天保3)~1894(明治27))の三男にあたり、前述の5代目小左衛門が江戸時代安政年間から開業した製茶業を当時任されていた人物である。文中内の「海外視察」の正確な場所に関しては現在調査中で確たる物証はまだないが、独自の調査の限りでは「米国」と聞いていることから、直近のイベントとして1904(明治39)年の米国ルイジアナ州セントルイス万国博覧会の視察と考えるのが自然かと思う(注:あくまでも個人的考察であり、現時点で根拠はない)。

 

経緯はどうあれ、この当時では数少ない海外渡航経験者であっただろうし、その衝撃は相当なものであったと思われ、宗家・伊藤小左衛門に地元への鉄道敷設の必要性を訴えたとしても何ら矛盾を感じない。実際、六治郎は海外先進諸国と地元・四郷村の環境の圧倒的な差を感じたのか「田舎ではだめだ」と言って自分の息子や娘たちを東京の大学や京都の女学校に通わせたりもしている(出典:『レコードと共に四十五年』/伊藤正憲・著)。宗家・伊藤小左衛門としても、製茶も含め繁栄を極めていた家業の製糸業・味噌醤油業などで四日市市内及び四日市港への貨物運搬の一手段として十分考慮に値する話であったと思われる(親戚・伊藤傳七の勧めもあったかもしれない)。

 

かくして一番最初に鉄道敷設の必要性を論じた伊藤六治郎の名前は消え、決定権を持つ宗本家・伊藤小左衛門の意向として計画は進んでいく。もっとも、当時地元で「富豪」として名高い伊藤小左衛門の名前と後ろ盾がなければ実現しなかった計画であったとも言えなくもないが。その後、六治郎は四郷村を走る「蒸気機関車の生みの親」としての名声を得ることもなく、1921(大正10)年の茶価大暴落(ロシア革命を契機とした米国市場へのインド茶大量流入)による経営悪化の責任を取る形で、当時就いていた伊藤製茶部の専務取締役(=代表社員)を解任される降格人事(取締役の一人としては留任ではあるが)を受けることとなる(※出典:伊勢新聞大正10年5月22日記事より)。…この出来事が、その後の四郷村・伊藤家の大きな分岐点になったと考えるのは僕の考えすぎだろうか。これもまたいずれ言及する時が来るかもしれない。

 

歴史というのは本当に、時に残酷な顔を見せる。それが真実がどうかは分からないが、深く踏み込んでしまうことで知らなくて良いことまで知ってしまうこともある。ただ、いわゆる「教科書に載っている歴史」=我々が当たり前だと思っている「歴史」が、場合によっては「誰かの主観」によるただの一側面である、という可能性もあることを忘れてはならないと思う。 以上    1/20