閑話休題:当初は観光地駅だった八王子駅。

大正元(1912)年8月、現在の四日市あすなろう鉄道の原型となる三重軌道㈱により日永~八王子駅間が開通・開業する。

以前にも紹介したので詳細は割愛するが、自身の鉄道敷設目的を「交通補助機関」「旅客運輸」へと変更していた三重軌道㈱は経営にあたり当線への旅客者数を増やすため新聞に沿線の観光地を紹介・提案し旅客誘致を行っている。三重軌道㈱に関連した一連の観光地への旅客誘致に関する記載で、現在までで僕が確認している限りで最古のものは明治45(1912)年7月19日伊勢新聞記事「三重軌道と遊園/八王子駅の東北方の高稜に遊園地計画」という見出しの記事だ。記事内容については省略するが、この時点でまだ三重軌道㈱は日永~八王子間開業をしていない段階であり、開業に向けアピールの意味もあったのではと推測される。同線の終点駅であった八王子駅は大正年間にかけて長らく2箇所の名所・観光地が常に紹介されていた。一つは同駅に併設される形で設けられた①「八王寺菖蒲園」、そしてもう一つは➁「八王子の瀧」だ。

①「八王寺菖蒲園」八王子駅構内に設けられた庭園で大正2~10年にかけて伊勢新聞大阪朝日新聞などでおおよそ見頃の時期となる5月~6月頃に何度か記事にて紹介されている。その中でも庭園が出来た経緯や様子などが最もよく分かる記事が大正10年6月9日付大阪朝日新聞掲載の記事「八王寺の菖蒲」だろう(※下画像)。記事の内容の一部を紹介する。

大正10年6月9日付『大阪朝日新聞』東海版記事「八王寺の菖蒲」

「この園の特徴は前三重軌道社長の故・笹野長吉氏が生前に私財を投じて全国から珍しい品種500余種を取り寄せ植えられたものなので種類の多さを自慢としている。特に今年はアーク燈やぼんぼり(=行灯)を増やしたので夜は一層壮観である。一番の見頃は本月中頃から来月二十日頃と云われている。三重軌道も開園中は毎日臨時列車を運転し八四日市~八王寺間往復切符は割引をしている」(※記事一部抜粋、意訳)

八王子駅前に広がっていた菖蒲園の存在は広く知られていることだが、この記事にあるように室山出身の酒造家・笹野長吉氏が自らの資金を投じ作られ維持されていたらしいことは僕もこの記事を見て初めて知ったところだ。同庭園は大正末期~昭和初期あたりで閉園・撤去されたようだが正確な時期は分かっていない。このあたりも以降の調査対象と言えるだろう。

余談だが、実は八王子駅には大正5年までの短期間だがもう一つ、もっと知られていない観光スポットがあったかもしれない(?)という記述があるので紹介する。

大正5(1916)年12月三重軌道㈱は「軽便鉄道」の三重鉄道㈱として再出発するが、その際に鉄道院による竣工監査を11月30日に受けている。もちろん検査は合格だが、その監査報告文中に興味深い記述がある。開業後速やかに修正・完成するべき指摘事項が全部で15項目指摘されている箇所があるのだが、その第11項でこのように書かれている。

「十一、八王子村駅動物檻を線路外に移設すること」(※下写真、赤線囲み部)

竣工監査報告書の指摘事項の一部。全15項目あるうちの第5~12項が書かれているページ。

とある。どうやら八王子駅構内には菖蒲園だけでなく動物檻も作られていたらしい。親切なことに次ページ以降でこれらについても詳しく説明してくれている。

「第十一項は、構内本線と客車庫線との間に動物檻を建設し公衆の観覧に供するものだが、構内保安取締り上不可のため線路外の空地に移転するよう教示したものである」(※下写真、赤線囲み部)

同監査報告書の一部。鉄道院技手・久保田順一、技師池上重吉両氏によるもの。
※上画像は、ページ跨ぎの文章のため独自に加工しつなげた画像。

つまり八王子駅構内、おそらく駅舎線路付近の東側に動物檻が設置されており八王子駅到着の際には乗客の興味を引くよう客車から動物柵が見えるようになっており、そこに何らかの動物が飼育されていた、あるいは飼育予定であった「動物園」のようなものが計画されていた可能性があることがこの文書から分かるのである。それ自体三重軌道㈱時代から既に存在・稼働していたのか、三重鉄道㈱時代からスタートさせようとしていたのかまでは情報がなく判然としないが、菖蒲園も併設したある種の複合遊園地のような様相を呈している様子がうかがえる。これも鉄道省文書』により初めて確認できた事実であった。もしかしたら、まだまだ新しい発見があるかもしれない。

もう一つの観光地➁「八王寺の瀧」だが、こちらも早い段階から避暑地として紹介されている。現在確認できている最も古い新聞記事は大正3年7月5日付伊勢新聞記事「滝開きと宝拾ひ」だ(※下画像)。

上記『伊勢新聞』記事。同月27日にも「瀧の浴客優待」という記事が掲載されている

「浴客の為め四日市諏訪駅より終点八王子駅間に夏季を通じて往復三割引乗車券を発売する。瀧開き当日は鉄道会社の催しで水中(滝壺?)にシジミ貝を散らしその中に景品券を入れ拾った者には抽選にて景品を進呈する趣向である」(※記事一部抜粋、意訳)

この瀧は一個人の私有地にあった小さな瀧だったらしい(当時の写真も残されている)が、避暑シーズンになると三重軌道㈱は上記事のようにイベントを催しては旅客獲得を企図している。ただ、同時に大正13年発行の三重県三重郡勢要覧』内ではこの八王子の瀧について

「人為ノモノアリト雖(いえども)瀑幅細クシテ到底瀧ノ名称ヲ下ス価値ナキモノノ如シ(人工的に作られた瀧があるが瀧幅が細く到底「瀧」というべき価値はない)(※意訳)

とも評しており、観光地としてはかなり強引な位置付けであったらしいことが分かる。そもそも、先に紹介した①「八王子菖蒲園」と合わせても旅客誘致が出来る期間は長くて5~8月の4か月のみである。鉄道を維持するための観光地としてはあまりに集客力の弱い施設と言わざるを得ないだろう。

 

実際、八王子駅は大正期まで菖蒲園のみならず従来より機関車庫・客車庫を備えた規模の大きい停車場であったのだが、鈴鹿支線」(現・内部線)の延伸開業とともにその設備を中間駅であった日永停車場や内部停車場に移され規模が縮小していくこととなる。これはまさに明治期以来、繁栄を極めた室山地区周辺の製糸製茶産業の衰退と重なっている。これは結局、八王子線が沿線からの広い要望により建設されたものでなく、単に当時の地場産業に付随した鉄道であったことの証明でもあり、昭和49(1974)年の豪雨水害の被災による休止・廃線への流れはむしろ「よく長続きしていた」といった表現の方が正しいといえるだろう。既に「伊勢八王子駅跡」の看板のみがその存在を伝えるのみとなっている現代、新たな「都市伝説」的な話題として今回の話題が取り上げられれば良いなと思っている。

以上

三重軌道㈱最初期の計画ルートをたどる③(最終回)

前回の続き。「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採擇ノ理由」中、今回は「四」~「六」の経路について検証していく(下写真赤線囲み部参照)。今回も前回同様、昭和38年発行の四日市市新住宅宝典』昭和13年4月改調『旧土地台帳』との地番照合で経過地を推測していく(※参考資料の説明は前回と同じなので省略)。後半はにわかには信じがたい推測が飛び出すことになるので、乞うご期待(笑)。

埼玉県大宮市・鉄道博物館所蔵『鉄道省文書』より。(※誰でも申請閲覧可能です)

 

では「四」の区間から(今回も分かりやすく英数字に変換)。

「4 自四日市市大字濱田字諏訪1578 至同市同大字同字1481 国道踏切」

記述通りここは「国道」、つまり旧東海道の横断部分を指している。区間距離こそ書かれていないが、前回紹介した「三」の終点と次に紹介する「五」区間の始点とを結んだ線がそれであると推測できる。現在もなお近鉄四日市駅前の一番街商店街を貫通している旧東海道の道路幅を想像していただければおおよその距離感はつかめるかと思う。ちなみに終点の地番「大字濱田字諏訪1481」も、前回「三」の終点と同様、昭和38年発行四日市市新住宅宝典』に地番が残っている。前回の終点「魚清」の旧国道をはさんだ向かいの店舗がそれで、現在の「ブレイズ四日市諏訪栄」の一角に残る角地で地図にはテーラーサワムラ」と記載されている。2018年あたりまでは同店が営業していたようだが、現在は閉店し空き店舗となっているようだ(※現在の様子は不明)。わずかな距離だが、一応マピオンキョリ測での経路と距離を下図に示す。

始点終点位置は適当なので正確ではないが、マピオンキョリ測では7mとなった

 

次に「五」の区間

「5 自四日市市大字濱田字諏訪1481 至同市同大字字返シ堀1135 専用線路」

この区間は諏訪町内の旧東海道との国道踏切から南浜田付近で再度旧東海道に合流するまでの専用線区間を指しており、距離は「48鎖(約966m)となっている。サラッと何気なしに紹介したが、明治42年時点の一番最初の軌道敷設計画では、南浜田~赤堀までの区間も「旧東海道」に線路を敷く計画だった」ことが、この文書によって明らかに分かるのである。諏訪新道上に線路を敷く計画があったという事実は伊勢新聞の記事等から推測できたが、旧東海道にまで線路を敷く計画であったことは四日市市史』も含めこれまでに出版された関係書籍のどこにも記載がないため、全くの新事実であると言えよう。

さて、終点の字名「大字浜田字返し堀」は現在の南浜田町・中浜田町付近を指しているが、番地の「1135」四日市市新住宅宝典』にも残念ながら記載がなかった。ただ昭和13年4月改調『旧土地台帳』の方には同番地と分筆地と思われる「1135-2の台帳は存在していた。個人情報に抵触するため所有者名は出せないが、現在の居住者名義(苗字)と台帳に記載されている居住者名義が一致することから、現在の「松本街道」旧東海道が交叉する交差点のやや北側、旧東海道と細道のY字路に挟まれた敷地がこれに該当する。これまでの流れだとこの地点を終点としたいところだが、実はこれには大きな問題がある。・・・というのも、「四」の終点「大字濱田字諏訪1481」から「五」の終点「大字浜田字返し堀1135」間をどれだけ最短距離で結んでも「48鎖(約966m)」にはならない(※下図、マピオンキョリ測地図を参照)のである。この明らかな

始点~終点をほぼ直線で結んだもの。距離は1000m(=約50鎖)を超えている

矛盾を根拠に、今回終点のみ「地番」からの敷設位置の割り出しをあきらめることとした。代わりに文書に記載されている区間距離「48鎖(=約966m)」の近似値となりえる軌道敷設位置を推測したところ、地図内の一部に不自然な箇所を発見(※下地図赤丸部分参照)。

南浜田町、松本街道との交叉部付近の旧東海道。一部のみ不自然に拡幅された箇所が…

旧東海道の前後の道幅と比較しても不自然に一部拡幅された部分がある、距離にして約160m。確証はないが、これは旧国道に軌道敷設するため道路を拡幅しようとした跡ではないかと推測されるのだ。というのも、実は今回紹介している「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採擇ノ理由」の軌道敷設計画は、軌道特許下付を受けた翌年の明治44(1909)年にルートの再測量・調査が行われた結果、この後紹介する「六」の区間にあたる旧東海道への軌道敷設は不可能と決定される。しかし三重軌道㈱明治43年10月軌道特許下付を受けた時点で当初の軌道敷設計画に沿って先んじて旧国道拡幅の買収も進めていたと思われ、その結果一部区間が名残として残ったものではないかと推測されるのだ。これらの推測をもとに敷設ルート(※推測)を地図に図示する。

「五」区間の全体ルート図(※推測)。始点終点とも不自然なく結ぶことが出来た。
右が「五」始点、左が「五」終点付近の周辺図。距離もほぼ合致している。

今回の推測ルートには地番等の文書情報に準じた確たる根拠はないが、軌道敷設する際の軌道形状や区間距離、そして次に紹介する「六」の区間距離との整合性を考えた時、かなり信憑性のあるものではないかと個人的に思っている。

 

最後に、「六」の区間の検証を行う。

「六 自四日市市大字濱田字返シ堀1135 至三重郡常盤村大字赤堀字南町2182地先 国道使用」

前項で紹介した通り南浜田町付近から旧東海道=国道上に軌道敷設する計画部分であり、距離は「31鎖60節(=約635m)」。追記として「理由」の一文が書かれており、意訳すると「この国道筋は並木が両側に点在しているのでそれ以上道路の拡幅は難しいが、四間幅までは拡幅できる余地はあるので電柱その他の障害物を移転し四間幅に広げ軌道を敷設すれば交通上の支障は無い見込み」としている。現在の旧国道の道幅を見るに、とても支障無いようには思えないが・・・(笑)。実際に実現していないし。

終点の「三重郡常盤村大字赤堀字南町2182」は四日市市外のため土地台帳の情報はないが、同地番は現在でもブルーマップによって遡ることが出来る。それによると「赤堀郵便局(住所:四日市市赤堀南町8-5)前、道路を挟んだ旧東海道沿いの北側角地がこれに該当する。ここの敷地から旧国道を外れ、「四日市あすなろう鉄道」が現在も走る専用線路につながっていたと考えられる。赤堀郵便局前の踏切周辺の道路が不自然に幅広く拡幅されているのは、もしかしたら軌道がカーブする際の敷地買収の名残なのかもしれない。以上の情報から予測ルート(※推測)を図示する。なお始点は前項の終点・浜田町の道路拡幅部分とするが、勝手な個人的推測での位置でありながら実際に距離計測をしてみると、ちょうど区間距離が約635mとなり「五」区間との整合性がしっかり取れる結果となっている。にしても、「あの道」に線路を敷くなんて狂気の沙汰(笑)。

右図が「六」区間の旧国道敷設部分の全ルート図、左図が終点の赤堀郵便局周辺。

以上、「一」~「六」までの区間距離・1哩71鎖40節(=約3.045㎞)の全体ルート図を改めて下図に示す。下図の全長距離(3.051m)と誤差が生じているが、これは「国道踏切」部分の距離を計上していないためである。

「一」~「六」全ルート図。マピオン計測上では距離は3.051㎞となっている

ここまで三重軌道㈱最初期の軌道敷設計画の一部経路を検証してきたが、起点・阿瀬知川北岸~諏訪新道にかけての区間以外は大正時代を待たず計画が立ち消えた、まさに『幻のルート』となったものであり、これらの計画とその内容を具体的に示す物証はそれこそ今回紹介した公文書「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採擇ノ理由」しかない。そのためこれら計画の存在を信じる、信じないは記事を読んだ人それぞれの受け取り方で構わないと思っている。でも僕は断言します、

「これらの計画は机上の空論ではあったが、確実に存在していた」

ここで紹介した内容がいつか明治~大正期の四日市市軽便鉄道の歴史における正式な見解になるであろうことを願ってやみません。

 

またまた分かりにくい解説でしたが最後まで書き切りました。次回からはまた新たな話題になります。   <終わり>

 

 

 

 

三重軌道㈱最初期の計画ルートをたどる➁

前回紹介した明治42(1909)年10月21日付提出「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採擇ノ理由」(下写真、鉄道博物館所蔵『鉄道省文書』より)に記された明治42年時点当初での計画経路を現代地図に置き換えてみようと思う。今回は四日市市役所2階「資産税課」で閲覧させていただいた昭和38年発行四日市市新住宅宝典』内に記載されている地番、そして昭和13年4月改調『旧土地台帳』記載の地番とを照合しつつ敷設ルートを推定していく。・・・ちなみに、重箱の隅をつつくような細かい話(笑)に興味がない方はこれ以降の文章は読まないで下さい。次回(最終回)、最後に敷設ルート経路図(全体)を提示しますのでそれだけ確認して下さい。

 

今回は上写真文書中の「一」~「六」の区間のみ検証していく(※地図表記がないため)

内容を読む方にも先に2点ほどご注意を。前出の昭和38年発行四日市市新住宅宝典』では赤堀付近以降の地図が存在しないため文書中1~6番まで(上写真赤囲み部分)の経路のみの検証になること、及び「国道里道及…採擇ノ理由」中に書かれている四日市市街の住所地番のほとんどは当然ながら現在では道路や宅地等に転用されており100%正確に遡ることは出来ないこと、この2点をあらかじめご了承下さいませ。

 

では、まず「一」の区間から(わかりやすく英数字に変換する)。

「1 四日市市大字濱田字北起3972-1 至 同市同大字同字(北起)3926-1地先

区間の字名「北起」は現在の朝日町(JR四日市駅周辺)を指しており、種別は専用線とあることから阿瀬知川貨物駅~諏訪新道までの区間を示していると思われる。起点の「北起3972-1」は昭和13年4月改調『旧土地台帳』に記載されている地番では地目「田」所有者「大蔵省」となっているが、地図等で正確な位置を割り出すことは出来なかった。終点「北起3926-1」も同様に記載はなかったが「同3926-2」は同台帳に存在し、地目「道敷(道路敷)」所有者「内務省」となっている。これら地番は昭和38年発行四日市市新住宅宝典』も道路敷のため?か当然なかったが、前後賞「同3927」地番は記載があった(※所有者不明)。さらにその地番の北隣にあるのが「同3924」で、ここが現在も諏訪新道沿いで営業を続けている「八百作食料品店」である(現住所は「本町7-6」)。この情報からこの付近を諏訪新道との線路合流点=終点と推測し、なお始点に関しては「国道里道及…採擇ノ理由」内に記載された区間距離「32鎖70節(約657m)」を終点から逆算することとした。以上の結果を始点・終点として敷設ルート(※推測)を以下に図示する。

起点(左)及び終点(右)周辺図。参照地図及び距離計算は「マピオンキョリ測」を採用。

現在地図だとむしろ分かりづらいかもしれない。明治44年作製四日市市全図」に当てはめてみる。右図が本来の地図、左図が始点・終点、敷設推定位置を追記したものだ。

始点(起点)は必ずしも線路の末端でなければならないことはないので、必ずしも阿瀬知川北岸まで到達していないと決めつける気はない。地図の通りのルートの可能性もある

以上のように、計画当初は阿瀬知川北岸まで延長する計画ではなく、あくまでも既存の道路に沿いつつ院線四日市駅に接近し接続・連絡することを目指していた可能性が推測される。以前から四日市市全図」内に示された「鉄道計画」路線の距離と「国道里道及…採擇ノ理由」中の区間距離との間にわずかながら誤差がある(距離的に阿瀬知川まで届かない)ことには気付いていたが、いざ当時の地図と照らし合わせてみるとなるほど納得の結果である。もっとも、諸事情もあってその後神田喜平氏による明治44年の再測量調査の際、同区間の距離は修正(上地図の通り阿瀬知川北岸付近まで延長されたようだ)がなされているが、それに関してはここでは触れないこととする。

 

次に「二」の区間、諏訪新道上の「里道使用」区間を検証する。

「2 自四日市市大字濱田字北起3926-1 至同市同大字字諏訪1670-2 地先」

距離は「27鎖90節(=約561m)」で、始点(=前述終点)からこの当時はまだ4間幅(約7.2m)と狭い諏訪新道上に線路を敷く計画となっている。戦後、歩道も含めて拡幅され現在の諏訪新道になったため終点地番「大字濱田字諏訪1670-2」は諏訪新道内に取り込まれたらしく、昭和38年発行四日市市新住宅宝典』内でも同地番は存在していない。ただ「同1670-1」は存在し、諏訪新道の北面沿いに並ぶ「三崎屋食堂」「三栄ドライクリーニング」「長谷川洋服店付近となっており、現在では「諏訪町こどもひろば」「SIXTY SIX」「男子衣料ゴトウ」、現住所で「諏訪町13-3」付近にあたる。三重軌道㈱がわざわざ諏訪新道をニ度にわたり横断してまで北側に線路を敷く理由はないため、諏訪新道北面沿いに並ぶ店舗群にこの地番がなぜ割り当てられているのかは不明だが、もともと広くなかった諏訪新道のこと、拡幅や区画整理の際の土地の文筆・合筆の流れで移動したのではないかと考えられる。ともかく、これら情報を参考に同様に始点・終点付近を現在位置と照合する(下地図参照)。

始点(右)及び終点(左)の推定位置。ちなみに線路敷設位置は現在の南側の車線端と仮定した

ちなみに、今回の区間・諏訪新道上には当初沖ノ島」「諏訪」という二つの停留場を設置する計画であったようだ。もちろんそのどちらも実現することはなかったが。

 

今回の最後は「三」区間、諏訪新道から旧東海道(旧国道)までの専用線区間

「3 自四日市市大字濱田字諏訪1670-2 至同市同大字同字1578 地先」

距離は「11鎖20節(約225m)」、終点地番である「諏訪1578」は土地買収がなされないまま諏訪新道への線路敷設計画が完全に立ち消えたため、現在でも宅地(商業地)として残っており昭和38年発行四日市市新住宅宝典』内では「魚清」と記載されている。現在は一番街北側角地の「炭火焼SHU」が営業しており、現住所では「諏訪栄町20-1」付近となる。ここが専用線における旧国道との接点(終点)と判断した。これらを踏まえ、現在地図で位置を照合する。

諏訪新道~旧東海道までの線路ルート(※推定)。地図内表記では区間距離が「222m」になっているがカーブの彎曲次第で距離は変化するのであくまで「イメージ」と考えて頂ければ。

上地図では全く想像が付かないが、明治42年時点当時の諏訪新道南側にあった空閑地を選びつつカーブを描いて旧国道まで計画ルートをつなげたのだろう。もちろんこうして計画を進めている間にも諏訪新道周辺の土地は暴騰し続け、一気に密集地へと変貌を遂げることになるのだが、この当時はそのような予測が立てられるような閑散とした状態であったわけであり、現在では到底考えられないというものだ。

 

今回は旧国道(旧東海道)までの敷設予定ルートを追ってみた(分かりにくくて申し訳ないと思っていますが)。次回は旧国道以西、南浜田駅までの敷設区間を同様の方法で探っていこうと思う。ではまた次回。

 

 

 

三重軌道㈱最初期の計画ルートをたどる①

これまでの記事で「三重軌道㈱創設時当初の計画では、現在の旧東海道(旧国道)及び諏訪新道上に軌道を敷く計画だった」、と何度も紹介してきた。これらは後に三重軌道㈱(※注)の取締役陣となる発起人7名により明治42(1909)年10月21日に提出された「軌道敷設特許願」に添付されていた「国道里道及専用線路経過地調書附専用線採択ノ理由」という文書(下写真、鉄道博物館所蔵鉄道省文書』より)の存在を根拠としている。(※注:明治42年の特許願提出当時はまだ三重軌道㈱として正式に株式会社設立登記されていなかった)

「国道里道…採択ノ理由」。一~十にわたり軌道(線路)ルートが説明されている。

明治40年に改修工事が完了した諏訪新道に三重軌道㈱が軌道を敷こうとしていた事実は『北勢軽便鉄道物語』の第2話「自転車に抜かれたトラム型コッペル」記事内にてS先生(椙山満氏。産婦人科医でもあり四日市市史編纂委員も務めた郷土史家)も言及しておられ周知の事実として認知されているものとは思うが、旧国道(旧東海道)にまで軌道を敷く計画だったところまではさすがに調査が及んでいなかったようだ。ただ、国道(旧東海道)部分への軌道敷設に関しては翌明治43年10月の軌道敷設特許下付以前の段階で既に断念しているため分からないのも無理はないのかもしれない。

 

内容がよく分からない人のためにまず上写真「…採択ノ理由」各要点を解説していく。「一(いち)」~「十(じゅう)」の上段に軌道(線路)を敷く箇所の始点及び終点の地名(字名)地番が書かれている。ただ現代の住居表示とは大部分が変わっているため非常に判別しにくい。旧字名と現在住所の比較詳細は以下のページ↓内の「旧四日市の字名一覧」を参考にしてほしい。

お諏訪さんのあれこれ (suwajinjya.jp)

中段には軌道(線路)の種別、及び当該敷地の区分が示されている。以下を参照。

・「専用線路」…新たに敷地買収し、一般道路とは区別された線路専用敷地。

「里道使用」「国道使用」…当時の国道及びそれ以外の里道(県道・市道)上に軌道(線路)を敷く部分。今で言えば「路面電車」に相当する。

「国道踏切」…文字通り国道(ここでは旧東海道)を横断するための踏切。

「架橋」…文字通り河川(ここでは鹿化川)部分の渡橋部分。

下段にはそれぞれの区間距離(哩鎖程)が書かれている。そして各番号の区間横にはそのルートを採択した理由が書かれており、これら理由の内容からも断片的な位置情報が確認できる。これらを踏まえ、旧字名地番に基づき最初期に計画された「…採択ノ理由」の軌道敷設ルートを現代の地図に落とし込んでいこうと思う。

とはいえ、「…採択ノ理由」の字名地番は現在ほぼ宅地や道路に転用されている箇所でもあり、そのうえほぼ消滅している四日市市街中心部の地番・字名を探るのはそう簡単なことではない(※なお旧字名のみに関しては四日市市立図書館2階・資料閲覧室に一覧地図(開架)があるので参照されたい)。こういう場合一般的には法務局で閲覧できる公図や地番が掲載されている「ブルーマップ」を使用するのだが、津地方法務局四日市支局まで閲覧しに行ったものの字名地番情報が古すぎるためか「ブルーマップ」からの収穫はあまりなかった。

中央通りをはさみ四日市市役所の南側にある法務局四日市支局。

そこで、従来の近鉄(三重・四日市両鉄道)線敷地が道路転用されている現状から四日市市役所10階「道路管理課」へ。当該課へ内容の確認を取るが「道路転用前の情報に関しては管轄外」とのことで、同市役所2階「資産税課」へ。

「資産税課」では一般宅地を含む道路などの市所有の土地に関わる業務を担当している(※説明が適当で申し訳ない(汗))ようで、対応して下さったT様に経過と事情を説明して翌週同課を再訪問した際、T様は同課が保管する貴重な史料を見せて頂いた。その名も

四日市市新住宅宝典(四日市市全商工住宅案内図帳)』

「株式会社住宅協会」という会社(代表・菊池襄氏)が昭和38(1963)年4月20日に発行した地図帳である。何がどう貴重なのかというと、現在四日市市立図書館で一般閲覧できるゼンリン地図の最古のものは昭和42(1967)年版しかも「三滝川以北」であり、四日市駅周辺(三滝川以南)の最古のものは昭和43(1968)年版しかないのである。加えて、全てではないものの当時の地番が記入されているうえ、この地図帳は国立国会図書館にも所蔵されていない(検索しても蔵書がない)。ゼンリン地図よりわずか5年前とはいえ、変貌激しい四日市市中心部の一軒一軒の詳しい情報が得られる史料は、現時点で僕の知りうる限りこの四日市市新住宅宝典』が最古のものと思われる。本当ならその所在と証拠の意味も兼ね写真なりの画像で紹介したいところだが所有している担当課の許諾が得られず、掲載も撮影さえもかなわなかったのが本当に残念でならない。興味がある方は当課へ閲覧を申請すれば見せてもらえるかもしれない(確証はない)。とにかく、担当のT様には貴重な史料を閲覧させていただいたこと、心より感謝いたします。

「資産税課」という特殊な業務上この地図帳を非常に重宝されていた経緯もうなずけるし、それを現在まで大事に保管管理していて下さったことに関しては大変な敬意を払わざるを得ない。しかしながら一方で残念なのは、当時の個人情報が掲載されているとはいえ、国立国会図書館にも所蔵されていないような大変貴重な歴史史料を一担当課の倉庫に眠らせておくだけというのも如何なものだろうかという疑問も正直抱かざるをえない。当地図帳を図書館などで広く一般閲覧可能にするか否かの問題はさておき、経年劣化などによる損傷が進む前に撮影・データ化などで永年保存する施策を行うべきではないかと思う。

 

話が横道に逸れた。

今回の「資産税課」訪問により昭和13年4月改調の「旧土地台帳」の閲覧、そして四日市市新住宅宝典』の発見により当時の字名地番などおおよその位置が判明、院線四日市駅~南浜田付近までの敷設計画ルートの詳細をたどることが出来た。次回は現代の地図と照らし合わせてこれらを解説していきたいと思う。

 

 

室山駅に関して新たなる発見!

2か月ほど前に再度室山駅の歴史についての考証を前後編にわたって書いてきたが、その後再び県立博物館にて史料閲覧をした際、前回発見できなかった新たな図面を発見した。その中に室山駅の歴史と変遷を確定づける決定的な記述を見つけることが出来たので、今回はそれを紹介したいと思う。

史料名は前回同様『三重鉄道敷設関係図面』だ。大量の図面が5つの新しい白封筒と古封筒の一部に収蔵されて保管されている。当時より収められていた古封筒は一冊に綴られ図面とは別に保管されている(※下写真参照)のだが、前回閲覧時もかなり気を付けて

『三重鉄道敷設関係図面』の古封筒束をまとめたものの表紙部分。一部図面は今もこの古封筒の中に収められている。今回新たに発見したのもこの古封筒の束から出てきた。

確認したはずだったのだが、何も記述のない1枚の封筒の中から1枚だけ図面が出てきたのだ。もし今後実際に閲覧しようという予定がある方は是非こちらの古封筒束の中にも注意を払っていただきたい。出てきたのは前回紹介したものとはまた少し違った西日野停車場平面図と室山停車場の平面図・断面図だ(下写真)。

西日野・室山停車場平面図。ただ作成日等を特定できる情報は書かれていない

図面には作成日など時期が特定できる情報は書かれていないが、前回紹介した「両停車場予定設計図」よりも両停車場の避退側線の新設や室山駅の駅舎上屋の配置などが詳細に書かれていることから、大正5年末期の三重軌道㈱から三重鉄道㈱への経営移管時に提出された設計図の詳細修正版であることが推測できる。

この図面の興味深いところは室山停車場の断面図がついており、駅舎の形状が視覚的にどのような形状であったのかが分かりやすくなっているところだ(下写真参照)。規模的にもかなり大きな施設だったことが分かってもらえるだろう。

室山駅の断面図部分のみを拡大、左が南方向。貨物側線は駅舎屋根下に進入している

そしてこの図面の最も注目すべき部分は平面図だ。在来線、変更線(本線)、貨物側線と変更前後の線路配線、室山停車場の中心哩程が3哩21鎖としっかり記載されているのに加え、「元停留場位置 3哩23鎖」と旧停留場のあった箇所と哩程まで記載されているのだ(下写真、赤線部参照)。

室山駅の平面図部分のみ拡大したもの。字が読みにくいのでさらに拡大する

室山駅平面図の右半分部分をさらに拡大したもの。元停留場の記載がある

旧停留場と新停車場とが2鎖(約40m)移動しているとまで位置関係が明確に分かる史料はこれまでに確認できておらず、ある意味新発見と言える。さらに大正元年開業時の室山駅は「停留場」であったこと、図面を見ても当時の室山停留場には貨物駅舎など立派な施設は存在しなかった(避退側線などの記載がない)ことがこれで証明されたこととなるのだ。そういった意味でもこの図面の存在意義は大きい。

あとは、この立派な室山停車場が完成し実際に稼働し始めるのはいつからだったのかという問題だ。というのも、大正5年三重鉄道㈱への移管時には西日野・室山停車場とも線路配線変更に伴う水沢街道の道路形状変更を申請していたのだがなかなか許可が下りず、12月運輸開始を急ぐあまり「いったん停留場として運輸開始する」(※赤線部参照)

大正5年11月16日付「工事方法変更認可申請書」左は「理由書」。

という哩由書を提出している(上左側写真)。つまり軽便鉄道としての「三重鉄道」開業時にはまだ西日野・室山停車場は完成していなかった可能性が高いということになる。このあたりの真相もこれからの調査研究の経過次第、といったところだろう。

 

少しずつではあるが、三重軌道㈱時代の八王子線の姿が見えてきた気がする。現在は明治43年の軌道特許下付時点での敷設予定ルートが四日市市街のどの付近を通そうとしていたのか、過去の土地台帳と地番から割り出せないかと四日市市役所資産税課の協力も得て調査を開始しようとしているところだ。とにかく時間がかかりそうなのですぐには難しいだろうが、またいずれその調査結果もここで紹介できればと思っている。

 

 以上

新・日永駅の真実(後編)

後編では、鈴鹿支線(現・内部線)延伸される際の日永駅の経緯について見ていく。

その前に、そもそも鈴鹿支線の計画はいつ頃どのような理由で立ち上がったのか。鈴鹿支線計画の出発点を探ると、昭和11(1936)年出版の絹川太一編『伊藤傳七翁』という書籍に突き当たる。この書内に「日進工業株式会社」という企業紹介項目があるが、この中で

「三重軌道株式会社が経営意の如く終始窮境に彷徨するのを見た翁は、地方に事業を起して右鉄道を救済すると同時に何等か資源を開発せんと志し、研究の結果鈴鹿方面に多量の石灰石埋蔵せんことを発見した。…(中略)…そこで四日市に日進工業会社を設立し事業を開始するに至った。」

とある。10世伊藤傳七は三重軌道㈱八王子線が狭隘、しかも短絡路線のため経営維持が困難であることを早くから危惧していたようだ。ただ10世伊藤傳七は大正4年6月以降は三重軌道㈱の取締役を辞し経営の第一線から退いていた(※ただ「相談役」として会社には関係している)が、大正5年12月の三重鉄道㈱への移管・発足後に再び請われ「相談役」に就任する。その際に上記の計画を提案、以後の三重鉄道㈱の経営維持の基盤を作ろうと模索したと思われる。その事業の連携先「日進工業株式会社」創立は大正7年3月であり、伊勢新聞大正7年10月29日付記事「三重鉄延長計画/八王子より水沢を経て椿村に…」という見出しで(やや計画路線のルートは違うものの)三重鉄道の延長計画を報道しており、時期的にも一致する。鈴鹿支線の軽便鉄道敷設免許下付は大正8(1919)年6月25日であり、鉄道院に対し実際に延長申請を提出したのは大正7年10月頃であろうが、先の書籍から計画としてはかなり早い段階から検討されていたことが想像できる。つまり、鈴鹿支線の出発点は鈴鹿方面の石灰岩の採掘・運搬(※開業後はに内部川の土砂・砂利輸送に変わる)により経営の安定を図り、短小路線である八王子線の維持存続を主たる目的としたといえるだろう。ただ、鈴鹿支線の申請から免許下付に至るまでの期間を含めた申請書類が綴られていたであろう大正6年~9年間の鉄道省文書』が何らかの理由により焼失して国立公文書館に現存しておらず、その足跡を詳しく追うことが出来ないことは残念としかいいようがない。

…余談ながらここからはあくまで僕個人の感想だが、10世伊藤傳七は三重軌道㈱発起人メンバーの一人・笹野長吉とは経営方針の相違からかあまりそりが合わなかったらしく、そのことは笹野長吉が社長に就任した大正4年以降に取締役職を辞し三重軌道㈱の経営からは距離を置いている様子からも想像できる。ただ、自らの地元を走るも貧窮にあえぐ三重軌道㈱八王子線の行く末は気にしていたに違いなく、実際「日新工業株式会社」の設立時の役員に伊藤小左衛門はじめ三重軌道㈱の取締役ら役員メンバーが並ぶ中、ここでも「相談役」として名を連ねている。10世伊藤傳七の地元愛を感じる部分だ。

 

さて、ようやく鈴鹿支線延伸における日永駅の変遷を見ていこう。

三重鉄道㈱鈴鹿支線の工事に着手したのは大正9(1921)年11月1日からだ。ここから日永~小古曽間(約1.9㎞)の一部区間開業はほぼ2年後の大正11年1月10日だが、実は開業の直前、大正10年12月までは日永駅からの鈴鹿支線は現在のような直行式、八王子線との軌道交叉形状ではなく日永駅での折り返し、つまり八王子線と線路でつながっていない状態での計画だったようだ。これは『鉄道省文書』大正10年12月16日付「停車場設計変更認可書」(下写真右側)とその「理由書」(下写真左側)文面から分かるもので、そこには

鉄道省文書』大正10年12月16日付、右写真が「認可書」、左が「理由書」。

「従来認可されている方法は引き返し運転の事となっており、乗客の乗換には頗る迷惑するのでこの度幹支線(八王子線鈴鹿支線)分岐点転轍機を信号機と連動させることで危険を排除し四日市市、小古曽間を直通運転できるよう設備するのは旅客の利便を図るために他ならない」(※写真赤線部、意訳)

と書かれている。前編で紹介した三重軌道㈱時代の初代日永駅が、「旧東海道に駅施設を近づけるためかなり東側に寄せた配置になっており初期計画では日永~八王子間の線路も折り返し運転形状だった」と書いたが、鈴鹿支線においても同様の理由、及び西方角へカーブする八王子線の形状もあり日永駅での折り返しする形状にせざるを得なかった、というのが実情だろう。

三重軌道㈱時代、初代日永駅の形状図面。『三重鉄道敷設関係図面』より

実は当時の赤堀~日永間の鹿化川橋梁は現在位置よりさらに西方面に架橋されており、赤堀駅から日永駅へはおそらく開業当初から鹿化川橋梁付近や日永駅構内も含めかなり曲線が連続するため運転に支障が出ていた(速度が上げられない等)のではないかと予想される。鈴鹿支線を延伸するのに合わせ、一気に駅位置と形状を変更しこれらの問題も合わせて解消しようと試みたと考えられる。旧東海道寄りだった従来の駅位置よりやや西方面へ移動しつつ方角を南方向へ修正することで、鹿化川橋梁より日永駅までの曲線を緩和し、かつ鈴鹿支線との線路直通を容易にするという形状としたと思われる。下図面は上図と同様、三重県立博物館所蔵の『三重鉄道敷設関係図面』内に収蔵されていた設計図面の一部で、初代日永駅との形状比較ができる貴重な一枚だ。これはあくまでも

形状変更後の日永駅図面。従来線が駅の下側に書かれている。『同図面』より

設計図面であるが、これを見ると現在の八王子線との線路形状からみて現在の最終的な日永駅2・3番ホームはこの図面左端(やや南側)、現在は北側に寄り過ぎているように見える1番ホームはこの当時は完全に駅施設中央部にあったことが読み取れる。つまり、現在現役で稼働している日永駅は大正11年1月に開業した「2代目」日永駅だということがこれらの図面から読み取れるのである。

余談ながら、「2代目」日永駅が開業して数年後の昭和2(1927)年、単端式瓦斯倫(ガソリン)客車の導入の際に分岐駅である日永駅での八王子・鈴鹿支線相互使用のため八王子駅に設置されていた転車台を移設する旨の申請を1月31日付で提出している(下写真「転車台設置位置変更届」国立公文書館所蔵鉄道省文書』より)。

「転車台位置変更届」写真。

2016年に日永駅構内で変電所設置工事が行われた際、敷地から転車台とトラバーサー?らしき痕跡が発掘されたというニュースがあったが、前掲の大正10年の日永駅設計図面には転車台らしき表示はされていないため、この時発掘された転車台の痕跡は昭和2年に移設した転車台のものと推測される(※この転車台は伊勢八王子駅の工場敷地内にあったものと推測される。八王子駅本線用の転車台は別にもちろん必要なため)。残念ながら、この申請の際添付されていたであろう図面は現存せず日永駅のどの位置にどのような線路形状で設置されたのかが不明なのが残念だ。

 

この後も日永駅は八王子線の一部区間の廃止を機に4番ホームを廃止するなど数々の細かい施設の設置、修正など様々な変化を見せる。が、駅位置を変更するほどの大きな変更はない。わずかな情報から明治末期~大正時代の日永駅の姿を想像するのは実に楽しいものである(笑)。  以上

 

新・日永駅の真実(前編)

次は八王子・内部線の分岐駅、日永駅について考察する。

 

大正元(1912)年8月三重軌道㈱の日永~八王子間開業以来より存在し、大正11(1922)年の内部線(当時は鈴鹿支線と呼称した)延長開業以降は特殊狭軌(ナローゲージ)の分岐駅として現在では広く認知されている日永駅だが、実は現在の日永駅が開業当初から変わらず現在の位置にあったわけではない。今回はネット記事などでもほとんど書かれていない明治末期~大正後期、三重軌道㈱三重鉄道㈱時代の日永駅の歴史を時間系列に沿って解説していきたいと思う(※もちろんこれは現時点での私的考察であり、以後新たな史料発見などにより変わる可能性もあることをご了承下さい)。

 

まずは明治43(1910)年10月19日付、三重軌道㈱が軌道敷設特許下付を得た当初計画では日永駅は現在の位置よりもう少し旧東海道寄り(東寄り)に設置する予定だったようだ。しかも駅施設(乗降場・貨物荷卸場等)の利便性を考慮してか、より旧東海道側に寄せるため八王子駅方面への線路は同駅で折り返し運転をするような形状の計画になっていたらしい(※現在でいうと養老鉄道大垣駅のような形状)。ただ、諸般の事情で国道(東海道)及び県道(水沢道)拡幅に伴う軌道敷設計画の見直しを迫られ、明治44(1911)年4月に津市で個人工務所を開業していた技師・神田喜平氏を招聘し計画自体の見直しを行うこととなる(下写真・鉄道博物館所蔵鉄道省文書』より)。もっとも、神田氏招聘直後の明治44年時点での計画見直しの際には日永駅の駅形状の見直しはなされなかったようだが。

明治44年4月12日付「工事認可願書提出延期願」。文中に「…設計ニ不備ノ点ヲ発見シ」、「神田喜平ヲ傭聘(ようへい)シ測量設計を再調査」することにした、とある。

残念ながら設計当初の図面などが現存しないため、最初期の折返し運転状態の日永駅がどのような形状だったかを知る術はないが、当時は前後方向に自由に走行できる現在の電車とは違い基本前進のみの蒸気機関車の時代であるため転車台等の施設も必要となるため、その内容を聞いただけでも乗客側・運用側双方にとって非常に使い勝手の悪い形状であったことは容易に想像される。案の定「この形状では機関車の機回しなど余計な時間と手間がかかり乗客・貨物の円滑な運搬ができない」という理由で開業直前の明治45(1912)年7月1日付で設計変更の認可申請を提出している(※鉄道博物館所蔵鉄道省文書』(下写真)より)。・・・そりゃそうだ(笑)。

「申請書」(本書)が右、「設計変更理由書」が左。「逆行線を直行線に変更する」とある

また同年7月19日付伊勢新聞記事では「終点八王子駅は駅舎、待合室、便所その他は完成しているが日永駅はまだ完成していない」とも報じている。7月1日付の設計変更認可申請からわずか2週間あまり、おそらく完成直前での逆行線から直行線への急な設計変更及び工事のため完成が遅れていたのだろう。何はともあれ1か月後の8月14日、日永~八王子間が開業、無事に直行線方式となった日永駅(※初代)の短い歴史がスタートする。三重県立博物館所蔵「三重鉄道敷設関係図面」内には、開業当時の初代日永駅の形状を知ることのできる貴重な図面が残されている(下写真右側)。図面に残る路地形状から現在の日永駅の位置より約50mほど東南方向に移動した場所で、線路は退避側線と共に西方向へ大きな急カーブを描きつつ南側に駅舎本屋と便所、北側に乗降場を備えた停車場設備であったことがうかがえる(現在の地図と比較してご覧下さい)。

右が「日永停車場図」(南が上)、左は現在の地図に図面の線路位置を赤線で付加した(推測)

ただ、写真右側の日永停車場図は大正5年の三重軌道㈱から三重鉄道㈱(=軽便鉄道)に譲渡・経営移管する際鉄道院に提出された図面と思われるため、この図面が実際の初代日永駅の形状であったという確たる証拠はない。が、当時既に営業運転している区間上の駅であり三重鉄道㈱に経営移譲する大正5(1916)年時点で特に駅形状・位置を変更する必要がないことから大正元年開業当初からこの位置・この形状であったことはほぼ間違いないであろうと推測される。地図と比較しても現在の位置よりかなり東海道に寄せた位置にあったことが分かると思う。

 

初代日永駅開業から8年後の大正8(1919)年6月25日、後の内部線となる三重郡日永村~鈴鹿郡深井澤村間(「鈴鹿支線」)の軽便鉄道敷設免許が下付される。これにより日永駅からの延伸をスタートさせるのだが、実はこの鈴鹿支線もまた当初の計画では現在のように線路を接続・分岐するような形ではなく日永駅を起点として折り返し運転をさせる予定だったようである。

鈴鹿支線延伸に絡む日永駅改造についての検証は、次回後編で行いたいと思う。

 

(後編に続く)